『デュラント 世界の歴史』全32巻

 勇気、理性の尊重、真理に対する不滅の愛とをもって、人びとが経験を参考とし、権力者に惑わされて空想にだまされることがないよう励まそう。また各自がその本性と欲求と社会の利益に基づいた道徳観を持たなければならないということを知り、自己を愛し、徳高く理性ある存在になるように、またそうすれば必ず幸福になれるということを知らせて人々を力づけよう。
 −−デュラントによるオルバック『自然の歴史』からの引用(『デュラント 世界の歴史 第5版』28巻(1971・日本ブック・クラブ)469頁)


 「人を遇する行為は、汝自身と他人のいかんを問わず、いかなる場合も単なる手段ではなく目的とせよ」という次の公式で、カントはアメリカやフランスの人権宣言にまさる革命的な原理を示している。
 −−『デュラント 世界の歴史 第5版』31巻(1971・日本ブック・クラブ)250頁

 寝る前に読んでいた『デュラント 世界の歴史』全32巻を読み終えたので、感想を書こうと思います。この本はひとりのアメリカ人歴史家による世界通史であること、そして、歴史的大事件を追うだけでなく、むしろ芸術文化や各国の上流、庶民両方の風俗を描くことによって厚みを持った歴史を描いている点にあるように思います。
 最初の3巻が東洋史にあてられ、日本の取り上げられる3巻の刊行が第二次世界大戦前だったりするところが、いかにも古い歴史書なのですが、4巻から32巻までの西欧史(アラブ世界も含む)がフランス革命期で終わっているので、一応まとまったものとして読むことができます。

 この本にはいろいろ励まされることが多かったのです。たとえば、古代ギリシャのくだりで、敵軍が迫って来る。それに対してポリスの民会は有能な将軍を送る。そして、その将軍が敵を打ち負かすと、すぐにその将軍がポリスに独裁制をしくのではないかと疑心暗鬼となり、その将軍を処刑するための軍を送るといった話です。つまり、人間の愚かさは、今も昔も変わらないといった点を如実に表しているからです。
 おなじころパレスチナでは、現地人がユダヤ人を1万人殺して、ユダヤ人が報復として1万人のパレスチナ人を殺したなんていう記載もあって、現代を相対化できたりもしました。
 しかし、そんなポリス制にしても、東洋的専制から初めて生まれた萌芽的民主主義であり、この経験なしに近代民主主義もありえなかったこと。
 この経験がキリスト教的道徳理念の確立と、宗教改革に伴う殺し合いをへた、万民の譲れない権利としての内心の自由の確保、フランス革命期の哲学者の活動による宗教のくびきから逃れた哲学的万民平等原則といった道徳を加えることによって、近代民主主義を生み出したことが平易に語られていきます。
 全巻を通して、古代ギリシャ・ローマとルネサンス宗教改革のあたりが読み物として盛り上がるのですが、最後の26巻から32巻にわたるヴォルテールの時代と大革命から近代へは、これまでの記述のまとめとして、読んでいて非常に面白い部分でした。
 ヴォルテールとルソーの生涯を軸に、ディドロって意外といい奴じゃんとか、グリムの果たした役割、カントやヒュームの活躍など、百家争鳴ではあるけれど、一様に、腐敗したキリスト教権力に対する反発から、宗教から独立した道徳律を生み出し、奴隷解放に向かうと同時に、宗教批判から国王・貴族による専制国家批判に移行する動きが描かれています。
 冒頭に引用したオルバックは貴族で男爵でありながら、その道徳重視の姿勢から、教会や国王による専制に抗議せざるをえなかった姿勢が、何か親近感を持ちました。
 弾圧におびえながらも、真実を告げざるをえなかった人々、国王や貴族の世論を利用しながら人道主義的キャンペーンを張ったヴォルテール、周囲に対する猜疑心にむしばまれながら世界を変える作品を作りつづけたルソーなど、思想は社会との関係抜きに語れないことがよくわかった点も収穫でした。
 上に引用したカントの言葉は、そのほかのいろいろなカント哲学の解説のなかのほんの一部なのですが、まさに人道主義の極みで、これこそ、人が最後によりどころとしなければならない原理であると思います。しかも、その理由をキリスト教的道徳観からでなく、理性の導くものとして定式化した点で、カントもフランス革命前の哲学者であるといえるわけです。
 もう1つ、合理主義者としてのヴォルテールに対して、デュラントはルソーをロマン主義の先駆者ととらえている点も新鮮で、興味深く感じました。それゆえにルソーは曲解される形でフランス革命のアイドルとなったし、ロベスピエールはルソーを精神的支柱として大虐殺を行った。
 手元に『思想』2009年11月号、特集「ジャン=ジャック・ルソー問題の現在−作品の臨界をめぐって−」があって、ジャン=フランソワ・ペランが「黙秘の権利から高貴な嘘へ−「第四の散歩」の理論的・文学的背景−」の中でルソーの思想的矛盾や嘘について書いています。この点も、当時の国王、貴族、高等法院の牛耳る政治状況の中で、うまく立ち回らなければ、文字通り生きていけないルソーの立場を表しているよう思いました。
 しかし、それでも社会に強い影響力を与ええた源泉が、このルソーのロマン主義にあるのかなどと思いました。もちろん、デュラントの説をうのみにするだけではなく、政治理論としてのルソーは、アルチュセールが行なったように、自分自身で、きちんとルソーの作品を読んで考えなければいけない問題です。それは今後、ちゃんと読んだ後、このブログで書こうと思います。
 このブログを書く前に「デュラント」で検索をかけたら、「西欧人の書く歴史という印象を受けた」という読後感をブログで書いていた人がいました。その人は詳しく説明されていませんでしたが、そうした印象は、デュラント自身がキリスト教者として、こうした宗教と歴史科学の関係を深く意識した人であった点にあるように思いました。
 デュラント自身は、こうした「理性の勝利」を描きながら、素朴な庶民に対してキリスト教が与える慰めの感情の重要性を指摘しているのです。しかし、これは別にキリスト教だけでなく、宗教一般に言えることなのかもしれません。

 ここで、話は横にそれます。
 先日、ロンドンに旅行したのですが、あるイラン人の友人の家で、イラン生まれのユダヤ人の女性と僕の3人で話をしました。僕は、たまたま日本に生れて仏教の家で育ったから仏教に親しみがあるし、西欧人だって、たまたま西欧に生まれたからキリスト教なわけだし、また、たまたまイスラム圏に生まれたからイスラム教徒なわけで、宗教の違いはそんなに意味がないみたいな話をしました。ダン・ブラウンの『ダヴィンチ・コード』の話からそんな話になったのです。
 でも、ユダヤ人にとってユダヤ教は、自分がユダヤ人であるアイデンティティそのものだから、そんな言い方したら、ちょっとそれは違うみたいな感じで受け止められました。また、別の機会に、イギリス人の友人に、ダヴィンチ・コードの話をすると、ちょっと違うんじゃないかみたいな受け止め方もされました。その様子を見ていると、神の存在を信じているみたいでした。その友人はインテリなのにそういう印象を受けるというのは、その友人が最近闘病していたという個人的体験や、弱った母を支えている人びとがキリスト教コミュニティーの近隣住民であったことなどがあるので、その影響なのかもしれません。
 実は、イラン人の友人は、イスラム革命に参加して、ソ連派として追い出された人なので、イスラム教に対する感覚は、ホメイニみたいな狂信派はだめだけれど、イスラム教が生活規範として存在する点は、他の宗派の人にも理解してほしいという意見でした。それでもイギリスに住むインテリだから、スカーフとかはしないんですが。
 ユダヤ人にユダヤ教を相対化しろと言うのは、ユダヤ人あることをやめろというに等しいから、これはちょっとむずかしいのかもしれません。
 そこで、僕は、第二次世界大戦天皇ファシズム下で、神道がいかに人々や他の宗派を洗脳・弾圧したかを説明して、日本人の特殊な歴史環境を説明しました。そのうえで、死者をともらったり、死者の霊を尊重する点で、日本人も結構宗教的であることも説明しました(同趣旨の、阿満利麿『日本人はなぜ無宗教なのか』 (ちくま新書) に沿って説明した)。
 僕ら3人は、結局、「宗教とは個人的でプライバシーな問題だから、公権力が介入したり利用することは間違っている」という点で合意を得たのでした。
 これは、デュラントの描く宗教改革とそれに続く宗教戦争の生み出した最大の成果、つまり、人権として個人の内面の信教(意思)の自由は尊重されなければならないという原則たどり着くわけです。事実、異なった宗教を信じる、または無心論者であるというだけで命を奪われた時代があったのですから。
 人の歴史は紆余曲折しながらも、それでも前に進まなければならない。だとしたら、歴史の成果だけは忘れないようにしたいと思い知らされます。それは、単なる政治的教訓だけでなく、綺羅星のように輝く文化、文明といった芸術の楽しみも含めてですが、そんなことを教えてくれるのがこのシリーズでした。
 そして、現在のように専門分化し、科学性という言葉のもとに、倫理的価値判断を避けたり、あるいは避けるよう見せながら、ある特定の方向に誘導したりすることが頻発する現代の歴史学や歴史読み物において、非常に重要な原則がここに書いたことであると思います。
 デュラントは1人の歴史家が全ての歴史を語るという、古典的であるけれど効果的な手法で、現在の歴史学が抱える問題点をクリアしているように思いました。
 古い本なので、すごく安く古本として売られているようなので、ぜひ機会があったら手に取ってみてください。きっと楽しめると思います。刊行から時間がたっているので、学術的にはどうなのかは、ちょっとわかりませんが。
 歴史の本としては、ミシュレの『フランス革命史』(中央公論・世界の名著44巻)も面白いのですが、2番目くらいに面白い本です。ギボンの『ローマ帝国衰亡史』は英語版を買ってしまったので、まだ積読なので、評価できません(汗)。
 フランスの貴族がこぞってニュートンの本を読んだり、館に実験室を作って、科学の実験を始めたりというシーンを読んだ時、これが啓蒙の時代なんだなって、実感しました。歴史上の詩人、作家、画家、音楽家といった芸術家などの作品のダイジェストとしても読めるし、歴史的事件の連続した流れが読めたり、こうした点も通史のメリットだと思います。
 オルバックの最初に引用した言葉は、菅首相の「消費税10%議論」公約等を見ると、今でも必要な言葉だと思います。
 最近、FC2ブログの『世に倦む日々』で「嘘ばかり言う菅直人 - 消費税は増税法人税は減税、天下りは容認」(2010-06-23)を読んだのですが、これによると民主党の54議席割れをもたらすことこそ、選挙後の自民との大連立を阻止し、新自由主義派の復活を阻止する唯一の道であるという意見でした。僕もメディア・ファシズムについてずっと書いてきましたが、『世に倦む日々』のブログの著者の意見は、正しいように思います。
 人びとが幸せになれない社会は、やはり間違っているからです。金曜日にサッカーW杯で対戦するデンマークのような国も世界には存在する(消費税の高さでなく、高福祉と政治支出の透明性に関してです)。そんな国になれないのは、単に日本の人口が多いことだけが理由ではありません。それは、人々の意思、つまり「勇気、理性の尊重、真理に対する不滅の愛」にかかっているのだと思います。