大場つぐみ・小畑健作『デス・ノート』DEATH NOTE (11)作者: 小畑健,大場つぐみ出版社/メーカー: 集英社発売日: 2006/05/02メディア: ペーパーバック購入: 1人 クリック: 38回この商品を含むブログ (365件) を見る

 先日、会社の友人に『デス・ノート』1〜7巻を借りて読みました。そして今日は、水道橋の漫画喫茶に行って既刊の残り、8〜11巻を読んできたところです。
 この漫画は、『週刊少年ジャンプ』に連載が始まった当初から、僕には、ちょっとやばいんじゃないのか、と思わせた漫画でした。というのは、主人公が悪人のピカレスクものであること。そして、その悪人は、ただの悪人ではなく、大量殺人者である点などが、引っかかった点です。
 実際にこうして読んでみると、殺人者であるライトと天才捜査官であるエルの頭脳戦の様子が詳細に描かれ、どう決着がつくのか、非常に興味を引く作品に仕上がっています。そして、コミックでは、まだ決着がついていない。続きが読みたくなるはずです。今日TVでやっていた、『王様のブランチ』でも、映画解説者のクロと司会者の優香が、二人とも原作を読んでいたらしく、映画の話題で盛り上がっていました。もっともそれは、あくまでフィクションとして楽しむ、といった感じでしたが。
 読み始める前に考えていたのは、この漫画がいかに「ラスコーリニコフ命題」を回避するのかという点でした。
 ドストエフスキーの小説『罪と罰』のなかで、主人公・ラスコーリニコフは、天才にはあらゆる悪を侵す権利がある。そして、その悪が殺人でも、結果としてその殺人によって人々が救われるのなら、その行為は正当化される、と考えました。そして、その考えにしたがって、世の中に害をもたらすとしか考えられない高利貸の老婆を殺す。ここまでは、ラスコーリニコフの想定どおりだったのですが、その殺人の過程で、罪のない、老婆の妹を殺してしまう。つまり、目撃者だったので殺さざるをえなかったわけです。このあと、ラスコーリニコフは娼婦ではあるが心の清い少女ソーニャとであったり、いろいろあって、結局、罪を検察官に自白しシベリアに流刑になるという物語です。
 「天才は善悪の彼岸に立つ権利がある」という、ニーチェ思想(力への意思という考え方からは、こうした解釈も可能だと思います)に影響を受けた若者が、その考えどおりの行動をとる。しかし、善良な妹を殺すという、想定外の出来事から、この思想は崩れ去る。そして、もしこの妹殺しがなかったら、ラスコーリニコフは罪を自白しただろうか?というのが、僕の勝手に名づけた「ラスコーリニコフ命題」です。
 しかし、この漫画においては、主人公・ライトは、犯罪のない社会を作るという自己の理想のために、何の葛藤もなく殺人を続ける。むしろ、捜査官との戦いを楽しんでいる風にも見えます。その意味で、ラスコーリニコフの葛藤からは、二重の意味で自由なんですよね。自分の目的を実現するために行う殺人はすべて肯定され、そしてこの主人公には、良心の葛藤をもたらす殺人が存在しないからです。
 と、ここまで分析して、読後感想にいくと、いくつか気づいた点があります。
 1.捜査官・エルと主人公・ライトの戦いは、五分と五分のように見えるけど、ライトには死神という超常現象の手助けがあるから、むしろライトに有利である点です。この点は、エルが最初から世界の警察を動かす実績を持っており、方やライトは一介の高校生であるという立場の差に基づくハンデと見ることもできます。しかし、この違いが、後に決定的な力の差となって現れる。
 2.これは、フィクションであるという一つの例なのですが、ここまで絶対的な力を持ったライトを、捜査官エル以外の他の集団が無視する点は、リアリズムからいってありえないと考えるべきでしょう。ある意味、デス・ノートは核兵器より強力な武器であり、その力が一般社会において立証されているのですから、エルのような犯罪捜査ではなく、軍事力を使ったデス・ノートの奪取またはライトの抹殺は当然考えられる結末です。それが出てこないのは、やはり漫画だからとしか説明できません。
 と、いうわけで、ここまで書いて、その上で作品を分析するなら、キラが一応、主人公として成立する背景を考えたいと思います。かわぐちかいじ沈黙の艦隊』における海江田と共通した要素をこの漫画は持っています。海江田は核兵器搭載原子力潜水艦を使って、曲がりなりにも世界的な核兵器廃絶を実現しようとする。その背景には、デス・ノートのライトのように天才的な操艦能力を持っています。しかし、こうした漫画を肯定するためには、倫理的に完璧な人間の存在を前提としなければならないわけです。もし、ライトを肯定するのなら、彼にもこうした資質の存在を肯定しなければならなくなります。しかし、そんな人間は存在しないと言い切れると思います。
 ついでにいうと、かわぐちかいじの漫画にはこうしたすり替えがいくつかあって、『ジパング』でも、兵装がいつまでたってもなくならないとか、巡航ミサイルアメリカ側に渡しても、決して、その技術はアメリカ側に盗まれないなどの嘘があるように思えます。それ以前に、『ジパング』は自衛隊が「自衛」という概念を捨てて、歴史介入した時点で、もうだめと思って、僕は読まなくなってしまったのですが。
 ただ、この漫画にも肯定的側面があります。それは、なぜ、作者がこの漫画を書き続けるのかにかかわると思うのですが、それは、ここで出てくるライトとは、つまりは小泉、ブッシュといった、善悪の彼岸を超えた英雄であり、そうした人物に関する物語であるという点です。ブッシュは置いておいて、小泉とは、これまでの歴代保守政治家ができなかったことを、すべて改革という一言で実現してしまった政治家であるといえると思います。でなければ、日本人の生命を危険にさらすBSE未検査米国産牛肉の輸入を決定するわけもないし、生命の危険のある自衛隊イラク派遣を許容するはずもありません。戦犯を、近隣諸国の反対にもかかわらず、拝んだりもしないでしょう。
 こうした無法が許されるのは、彼に、日本人すべてが困り、そして解決策を見出せなかった不況という問題を解決する能力があると、有権者の多くが考えた結果といえるのだと思います。マスコミは、支持率が下がらなければ決して為政者を批判しない。むしろ、ちょうちん持ちになってしまうことは、この5年間が証明しています。そして、彼の行動は、不況からの脱出、日本の安全保障という二つによって、見事正当化される。
 こうしたこの5年間の状況を、この漫画『デス・ノート』は見事に描いているように思われるからです。誰もが思いつかない解決策を持つある人物とは、この漫画の主人公・ライトと同じだけの力を持つ。そして、物語の中で殺される人々と直接面識のないひとびとは、右往左往しながらも、キラ(ライトの正体を知らない世間での彼の呼び方)を支持するしかなくなる。これは、小泉政権の下で自殺に追いやられたり、(社会保険給付の打ち切りその他の)行政の行動によって殺された人々、職を追われた人々、不当逮捕された人々、と直接面識のない現実の有権者の行動とまったく同じというべきだと思います。
 そして、そうした犯罪的な行動を肯定する背景には、凶悪犯罪にあった被害者遺族の「目には目を」という復讐感情、拉致被害という犯罪行為に対する「目には目を」という応報感情が存在することも指摘できるでしょう。
 つまり、こうした考え方には、「犯罪者は死んで当然」という感情があることはもちろんですが、「犯罪者といわれる人が実は犯罪者じゃない可能性」が、すっぽり抜け落ちている。自白したから犯罪者じゃないかという意見もありますが、警察において拷問に近い取調べを受ける容疑者の自白を信用することも危険です。ましてや、マスコミが検証を放棄する、政府見解など、まったく信用できない。
 つまり、そうした可能性に対して、目をつぶり、強いものに従うという奴隷根性が、この世の中にあることを、この漫画はカリカチュアライズして示していると、僕には思えました。
 ついでにいえば、現在キラの代理人となっている検察官の青年も、あれだけ悪を憎みながら、同僚の検察官の犯罪的行動については、まったく目をつぶっている。もしくは気づいていない。これも、漫画だから仕方ないともいえるのですが、さまざまな穴があるように思えます。
 しかしながら、この現実社会のカリカチュアライズの1点において、この漫画は、それなりに優れているといえると思います。