小沢報道について

拷問は決して使用されてはならない。苦痛になれた罪人は容易にそれを乗り切るだろうし、無実の者は神経が鋭敏であるために何でも言ってしまう結果になり、誤って有罪の判決を下す結果になる。
−ベッカリーア『犯罪と刑罰についての考察』(1764年)
:『デュラント世界の歴史[第5版]』30巻261頁(1971・日本ブック・クラブ、日本メールオーダー社)での紹介

 小沢問題をめぐる検察の動きは、まったく支離滅裂で、小沢さえつぶせば民主党は自分達の意のままになるという魂胆が露骨に見えます。その意図は、民主党に検察の人事権介入をさせないというものであると、今日の『日刊ゲンダイ』に報じられていました。つまり、正義のためではなく、検察という旧態依然たる組織防衛のための闘いです。このへんは、特高時代からの伝統というべきでしょう。
 そして、それに関するTV報道も、TV局が、結局は、旧自公政権のもとで、広告主たる大企業と共に特権を持ち続けてきたことを体現するものです。偉そうに、したり顔で語る、「わいろがあればそれは税金の流用です」という言葉が、うっとおしく聞こえます。なぜなら、そうしたニュースキャスターの言明はすべて検察の動きを追認したうえでのものだからです。
 しかし、少し考えてみれば、こうした状態がおかしいことは明白です。何故わいろの問題が、野党時代の小沢追求という形になるのか? わいろがもっとも有効なのは、公共工事の決定権を持っていた旧政権党である自公政治家に対してであるはずです。ところが、それに検察はまったく触れなかったし、これからも触れる気配はない。それゆえ、TV局はこうした問題を取り上げない。
 本来なら、まずこうした検察の理にかなわない不合理な行動を批判するべきなのにそれをしないということが、大手マスコミの意図、旧自公政権とつるんで手に入れた特権を、これからからも保持していきたいという姿勢を如実に表しています。
 日本に住む人々のために、公平で、民主的な政治を実現しなければ、日本の将来はないという民主党の姿勢が、大手マスコミ、新聞、TV局には、そのまま自分達の旧態依然たる利益を脅かすものとして映るのでしょう。一言でいえば、巨大な国家予算にぶら下がって、自分達だけが利益を得ようとする集団が、死に物狂いの抵抗をしている姿といえます。大手マスコミしかり、大企業しかり、ゼネコンしかり、官僚しかり、検察しかり。
 そこにあるのは、TV局に関して言えば、視聴率はあっても国民の利益はない、局の利益はあっても真実の報道はない姿です。検察も正義ではなく組織防衛が第一義になっている。検察に関していえば、長い時代の自民党政権のもとで、とりあえず自民もしくは政権派閥の敵だけをたたくという方向から、本当の国民にとっての正義に基づいた検察の在り方への転換など、思いつきもしないのでしょう。
 こうした動きを見ていると、まるで戦前の大政翼賛会のようです。丸山政治学などで戦前の天皇ファシズム研究をかじった者の目から見ると、実際のファシズムというのはこうして形成されるんだなと、思わず物思いにふけってしまいます。
 そう、TV局の方針が、真実の報道ではなく、自己の局の利益を最大限確保することであるのなら、それに批判的なコメンティタ―を雇い続けるはずもなく、コメンティターは自己の生存権(=収入)をかけて、奴隷の言葉を語りつづける。そう考えれば、局の意向に沿った発言しかTVで見られないのは自然な流れです。「正義」ではなく「利益」だけがそこでは生き残る。これが「報道」だとしたら、「極道」と言い換えた方がいいのではないかというていたらくです。国民をだましとおせれば恩の字で、だませなくなったら、またニコニコとエンターティンメントでお茶を濁そうという魂胆なのでしょう。僕らは学生のころから、ワイドショーなんか見てるから馬鹿になると言ってきました。それは、いまではTV報道を見ると馬鹿になると言ってもいいのかもしれません。
 冒頭にあげたベッカリーアの言葉は、フランス革命前のものです。しかし、別件逮捕を繰り返し、証拠ではなく、長期間の取り調べによってねをあげた容疑者の自白に頼る現在の日本の警察、検察にも共通するものです。長時間の取り調べによって自白を強要されるなら、それは拷問と変わりありません。だから、民主党は正当にも、取調のビデオ録取義務化という方針を打ち出した。
 記者クラブ制廃止が、大手メディアから、情報の独占を取り上げ、その結果ジャーナリズムの基本である自分で取材するという本来の在り方にメディアを戻す力があるように、取調過程の可視化は、何人も証拠なしに起訴されたり裁かれたりしないという、法のもとの正義という民主主義の前提を実現するためのものです。そして、警察、検察に、地味で大変だけれど、それなしに人は裁けない証拠収集という本来の職務への立ち戻りをそくすものです。
 官庁から提供されたものをそのまま紙面に載せる、まるで右のものを左へ動かすだけで仕事をしたと考えるのが報道(ジャーナリズム)ではないように、とりあえずとっ捕まえて、自白させたら十分な証拠があろうとなかろうと起訴するというのが、警察や検察のすべき正義に基づいた捜査でないことは、いうまでもありません。ついでに言うと、宅配チラシが毎日投かんされるポストに政府を批判する政治的内容のチラシを投かんしたら、政治ビラを投かんした者だけが住居不法侵入罪で有罪になるという、合理性のかけらもないものが裁判ではないのも同様です(法のものとの平等や、表現の自由の原則に抵触するからです)。
 人は長期的な利益より、目先の楽な道を選びがちです。その一部の者たちの楽な道の追及が臨界点に達したのが、昨年夏の政権交代だったのだと思います。だって、利益と言っても、それはみんなの利益ではなく、先にあげた一部の特権階級だけのものだったのですから。
 検察はこれからもこそくな動きを続けるだろうし、TVもわかったような振りの報道を続けるでしょう。しかし、本当に存亡の危機にさらされているのは、実は、日本の民主主義の将来であることを、僕らは銘記する必要があるように思います。検察と、それを後押しする大手マスコミが勝てば、それは民主主義の敗北と言わざるをえないように僕には思えます。