イギリスのテロについて
(1)
ロンドンには友人が2人住んでいて、その家族も住んでいる。僕は今回のマンチェスターとロンドンのテロの報を聞いて様々に考えた。
マンチェスターのテロは、被疑者が洗脳されている可能性があり、その場合彼には責任能力が無く、洗脳した人間が主犯の可能性がある。
ロンドンはより用意周到だから、むしろISではなく、権力者による謀略(例えば総選挙に向けた)可能性があるように思える。
そう考えたうえで、まず思ったのはこれはISとイギリスの非対称戦争であり、ISを爆撃する諸国はテロによる反撃を避けられないということ。
国による外交戦略にせよ、企業による利益拡大のための戦争の利用にせよ、外国だけを戦場とする戦争は、ベトナム戦争のように国内で侵略勢力に有効な反撃ができない以上、侵略国内部のテロに及ぶことは避けられない。ここで、戦後奇しくも平和主義を選択した日本の外交的優位性を主張し、それをとれない欧州および米国の宿痾を感じた。自国の軍事産業や軍産複合体のとてつもない危険性に対する自覚が促されるところだ。
(2)
しかし、洗脳に至る過程の青年や、ロンドンでテロを行った人々が謀略ではない場合を考えると、より個人に近づいた考察が必要なように思えた。その時思い出したのが、アキ・カウリスマキのデビュー作、映画『罪と罰』である。この映画はドストエフスキーの小説『罪と罰』をオリジナルとする現代劇で、カウリスマキの現代的視点が強く打ち出されている。
恋人を交通事故で失った青年は、賠償金を支払ってのうのうとしている男を殺す。確信に基づいた殺人だ。殺人現場に居合わせた女性は、悪びれず、証拠隠滅もしない青年の姿に興味を持ち、交流を続ける。最後に青年は警察に出頭し、法廷でこう述べる。「人を殺したのは誤りだった。悪いのはシステムだった。」
ISとイギリスの関係を非対称戦争や肉親に対する復讐と考えるなら相手を殺すことが解決方法となるだろう。しかし、殺された相手は同じ憎しみを持って、敵に対するだろう。
本当の問題は、彼らを殺しあわせるシステムなのだ。だから、相手を殺すことだけが唯一の解決策ではないということも考えられる。
ISに攻撃された町に住むクルド人なら防衛のために戦うことが正義だろう。だが、本当の解決は、トルコ政府との停戦や、トルコ国内でのクルド人の人権保障にあるべきだろう。そうすれば、テロの根底にある戦乱とそれによる貧しい暮らしを解決する道が開ける。アメリカ政府がこの道をとらないのは、その方が自国の軍事産業にとって利益があるからだし、イスラエル政府的にも周辺国が内戦している方が、弱体化を図れ、自国の安全保障に資するから、外交政策として優れているし実際に彼らはその道をとっている。
安倍が、(1)に書いた日本の優れた外交政策である平和主義をかなぐり捨てて、戦争の側に加わろうとするのは、国内の軍事産業の利益を優先し、人殺しすら景気浮揚の手段としたいとする人権感覚のない、現実感覚の希薄な行動と言える。
我々が戦わなければならないのは、こうした、巨大国家の恥知らずな外交政策と軍事産業の策謀と考えるべきだろう。
殺し合う兵士が如何に非人間的に見えても、やはり彼らも人間なのだ。正義によって裁かれる権利が誰にでもあることを確認すべきだろう。
(3)
マルスからアクエリアスの世紀へというのはずっと昔から言われていることだ。しかし、新自由主義的グローバリズムの幻想が崩壊したいま、市民は自らの困窮をてこにして、本当に必要な対策に向かう気が熟しているように思う。