■[その他の本]柴田高好『マルクス政治学原論』

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マルクス政治学原論

マルクス政治学原論

 僕がこの書籍を手にした理由は、第1に、マルクスの言った最も神秘的な予言、国家の消滅(止揚)に、第2に、国家の定義は共産主義革命戦略に直結するからに他ならない。
 第1については、小熊英二『1968』の読者なら詳しいと思うが、「反帝国主義・反スターリニズム」を唱えた新左翼諸党派が、最初は一国革命を目指すが、スターリニズムといった社会帝国主義の政治を否定する過程で、問題は一国社会主義にあるのだから、我々は世界革命を目指さなければならないと原理的に考え、結果、「世界同時革命勝利」といった、それこそ実現がはるかに難しいスローガンに落ち着くという、泣ける悲劇を想起すればいい。このように共産主義革命後の国家像を知ること、そのために現在の資本主義国の国家を知る本質的な重要さが想起される。
 第2については、革命戦略として現在3つのルートが考えられる。レーニン的前衛党による武力革命路線、グラムシ構造改革(議会で多数派をとって革命を成し遂げる)路線、そして、ネグリ=ハートが『帝国』の中で展開したマルティチュードによる革命である。そして、そのそれぞれがそれぞれの現代国家論に基づく革命戦略を展開しているため、その対象となる国家の真の姿の究明が待たれるのである。
 では、この本はそうした僕のような読者の欲求に答えるものであったのか? 残念ながら否である。であるから、むしろこの本は、柴田高好氏の問題関心の角度から見た様々な国家論とマルクス(主義)国家論のレビューとして価値を有すると評価すべきだと思う。
 柴田氏の同問題に対する視点とは、初期マルクスの関心にあった、経済学批判(その代表は『資本論』として結実する)と対を成す政治学批判の自身の手による完成である。本書のタイトルが『マルクス主義政治学原論』ではなく、『マルクス政治学原論』となっているのも、マルクス、それも初期マルクスのオリジナルの意図の復活を目指していることが理由であるという。
 そして、そうした意図を実現するために、初期マルクスヘーゲル国家論との関連を重視し、ヘーゲル的な弁証法関係としての市民社会と国家の関係、そして国家の止揚を模索するという構成になっている。
 しかし柴田氏は、この結論部分を明確に論じてはいない。他者の国家理論を分析するに際して、こうした考え方を使って、市民社会バイアス・アプローチと国家論バイアス・アプローチの2面から、それら各理論を検討している。検討対象は上に書いたように、著名な政治思想・理論家、マルクス主義理論家・運動家の諸説である。
 しかし、先に書いたように肝心の氏の意見は見えずらい。
 まず、氏の意見を説得的に論じるためには、なぜヘーゲル弁証法が正しいといえるのかの論証が不可欠である。それを論証しなければ、後期マルクスが「経済学批判を通して政治学批判は貫徹できる」としたことに対する氏の批判は成立しないからだ。
 また、氏の「市民社会」概念の取り扱いに関しても疑義がある。この言葉は、広く一般的な定義による経済関係を含む社会的関係、当然、地縁血縁も含む一般社会的な意味。次に、マルクスの考える、まず資本主義社会であり、当然その中に階級間の矛盾による階級闘争を含む社会として説明できる。この両側面が混同されて使用されており、なおかつ、ブルジョア的生産関係のみを意味するとも解釈されている場面もある。そのため国家と市民社会の関係として諸国家理論を論ずる際に、著しい混乱をもたらしているように思える。
 また、氏は結論部分でベトナム戦争における米国の兵役拒否運動を、国家を止揚する典型として持ち出しているのだが、現在の志願兵制による米国のアフガン戦争は、こうした意味では国家論にかかわらないのであろうか? むしろ、貧しい市民を金で釣って戦場に向かわせるといった意味で、典型的な資本主義的戦争と考えるべきではないかと思う。
 氏は国家による強制こそ国家論の本質と捉えているから、このような考察になるのかもしれない。だとしたら、旧東欧における市民的不服従も、柴田氏的国家廃絶の運動ということになる。
 氏のこうした論点は、極めてユニークで、これまでマルクス主義政治学が持ちえなかった国家という力に対する明確な闘争を指定することを可能とする。その点は評価できる。
 原発再稼動に対する運動も、オスプレイ配備に反対する運動も、反米軍基地や反TPPの運動、消費税増税反対の運動も、その基軸が国家の政策(国家権力)に関わるという意味では、国家の止揚に関する運動といえるのかもしれない。
 しかし、同時にこれらの運動は、(消費増税は性格が少し違うが)日本を「貢進国」(米、ラムズフェルドの言)と捉えるアメリカ政府によって引き起こされたがゆえに、日本人自身のアメリからの植民地独立運動と捉えることもできる点が重要である。この場合、国家の廃絶は問題とならない。なぜなら現存する国家をそのまま認めて、その独立性のみが問題となるからだ。
 つまり視点を変えれば、上記のすべての運動に関して、そこで問題となっているのは国家自体の本質である権力性(力による、対象の生死をも問わない服従への強制)ではなく、むしろブルジョア民主主義という虚構の枠内での、民主的統制の問題なのではないかと僕は考える。
 そう考えれば、有権者の大半が反対しているにもかかわらず、なぜそうした政策が強行されるのかといった、政策を権利付けるべき正統性の問題、つまり主権在民の問題となる。であるのなら、それは国家止揚の運動とは呼べないだろう。
 僕が支持するのは、資本主義体制下の市民社会とは、すべての権利が、まず初めに、資本主義的生産関係の理論に基づいた法的関係によって成立した社会であるということだ。平等な参政権基本的人権といった諸権利は、資本主義的生産に関して必要だったから成立した。そして、もっと言えば、現代的合理主義といった理論枠組みすら、それが資本主義的生産、価値増殖に利するがゆえに一般的になったと言えるのだと思う。
 だからこそ、マルクスは、経済的関係である下部構造がすべての出発点であり、国家や法・文化といった上部構造はその反映に過ぎないと言った。もちろん上部構造には多少の自律性があり、それゆえ下部構造への反作用があるとしても、下部構造の出発点であり支配的力としての重要性は揺るがないと主張したのだった。
 しかし、同時にこうした構造を抱える市民社会は、資本主義がベースであっても、同時に資本主義的生産関係を揺るがすところの労働者階級を生み出す。そして、彼らへの対処がなければ資本主義そのものが成立しえない状況に陥る。それが、さまざまな労働立法・社会政策として法的関係として組み込まれる。これが現在の市民社会である。
 マックス・ウエーバーが主著『経済と社会』で論じたとおり、市場には「最初にした約束を守る」というたった1つの倫理しかなく、それゆえ無倫理といえるのに対して、地域社会にはさまざまな掟があり、それが倫理として作用する。資本主義的編成に投入された地域社会は、市場という経済社会にこうした様々な地域社会に共通する倫理を持ち込み、経済法制など様々な倫理的価値を資本主義制度に導入することになり、修正資本主義が誕生した。これは、かつての東側陣営に対抗するための政策であったことも大きな要素で、冷戦の終結以降、新自由主義といった、よりむき出しの市場の論理が政策として打ち出されてきたのは、支配的なイデオロギーが国家権力として表示され、それはいまだ資本家のイデオロギーである以上、当然の結果となる。
 経済的関係が歴史の推進力となるという発想は、カール・マンハイムイデオロギーユートピア』でも、知識社会学理論として検証されている。有権者はその生活の必要上、さまざまな職業団体に属す。そして、その職業団体の利害が、それぞれの有権者における意識を支配し、イデオロギーを形成するというのが、マンハイムが戦前のドイツ社会を分析した結論である。付け加えれば、それぞれのイデオロギーをもつ集団は、実現可能な社会としてのユートピアを打ち立てるべく行動するというのが、同書名の意味だ。
 自由主義イデオロギー、民主主義的・平等主義的イデオロギー、現在社会的に重要なポジションについていおらず、自分たちこそ現政府に代わりうる能力があると考えるゴロツキ・無職の者たちのイデオロギーファシズムイデオロギーであり、労働者で、悪いのは金持ちと経営陣と考えるのが共産主義イデオロギーである。ファシズムの暴力性は、その生い立ちによって説明できるのだ。
 マンハイムは同書において、知的職業につく中間層のインテリゲンツィアこそ、こうした職域における利害関係に左右されず理性的な判断が可能となると考え、自由浮動的インテリゲンツィアによる政治を理想としたのだが、彼らが本当に労働環境の影響力から自由かは、別の場所で考えなければならないだろう。
 ともかく、経済のスターリン的単純模写説は広松渉が戒めたものだが、同時に、すべてが人の自由意思によって決まるという人間主義マルクス主義も、広松同様、僕の取るところではない。
 広松も言うように、人は社会によって規定されながらも、ある程度の可能性の範囲として、自らの環境を新しく作っていく投企的存在でもあるからである。現象学哲学の用語で言えば「世界内存在としての我」である。自己の中にある他者イメージは、交流を保てば日々裏切られ、その都度修正される。自己同一性を保ちながら、外的矛盾によって変わり続ける姿が世界内存在としての自己にはある。これが「世界内存在としての我」の理論である。投企被投企的人間像とも呼ばれる。そして、これこそが、本来弁証法的関係と呼べるものだと、広松同様、僕は理解している。
 ともかく、こうした理由から、柴田氏のヘーゲル弁証法理解は観念論に過ぎ、そして、本来必要である説明がまったくされていない点で、自分は支持ができない。それなら、むしろ階級闘争の第1次性を主張し、すべての学はそれに奉仕すべきであるとしたアルチュセールの思想(今村仁司著・講談社学術新書『アルチュセールの思想』参照)の方が、僕にとっては、むしろ優位であると考える。
 現在の市民社会に関しては、もちろん資本主義的生産関係の社会である。しかし、上に述べたように、それは資本主義が自らの矛盾を解消すべく労働者と妥協しながら、それでも資本主義的生産関係を維持している状態と理解している。それゆえ、市民社会には、階級闘争の過程が歴史として色濃く刻印されている。その反映・物象化・物神崇拝としての国家という広松の理解を僕は支持する。
 カール・シュミットにおける危機における国家の暴力性とそれに対する支持は、丸山が強敵と評したように、強力な学説だ。しかし、階級闘争の理論から言えば、そうした危機をもたらすこと自体が階級闘争を担う労働者にとって不利益なのだから、危機を回避し、国家をより強権的なものから労働者に優しいものに作り変えること自体が、労働者にとっての階級闘争の目的となる。まさにプロレタリア・インターナショナリズムの理念がこれである。
 柴田氏が古典的に過ぎると否定した広松理論によって説明される社会的力としての国家権力はこうして市民社会から生み出される物象化的錯視、物神崇拝であると、僕には考えられる。それは、我々が日常において1万円紙幣を破り捨てることがどうしてもできないといった、現実にある感情と同様のものだ。これを否定するには、論理と理性によって、現代社会の構造を捉え返すという作業が不可欠となる。高額貨幣の背後には、それによる購買力という価値が存在し、国家の背後にはその力によって暴力的な国内外の敵から自分自身を守るという強力な動機があるのだから、その寄って立つもの自体を再検討し、貨幣がなぜ生み出されるのかを考え、その出自の正当さと有効な利用を考えること。そして、内外の暴力はなぜ生まれるのかを考え、その根源をたつ方法に思考をいたすことが不可欠となる。そして、そうした思考の後には、現象としての高額紙幣も国家も、別の姿を現すだろう。
 だから、サンデルの哲学をその土台として支える弁証法的議論(つまり、教室やTVでの議論)の本質とは、そうした思った以上に射程の長い重要な戦略だったと考えられる。ユルゲン・ハーバマスにおける対話概念も同様だろう。
 さて、こうして柴田氏の議論によって結論を得られなかった自分は、最後に唖然としたのだが、いくつか収穫といえるものがあった。
 つまり、様々な政治運動の階級闘争的側面がそれである。アメリカからの日本の独立も、そもそも植民地主義自体、帝国主義がもたらしたものであり、帝国主義帝国主義本国における独占資本による、自らを優位に置くための他国に対する政治的支配であるのなら、日本の自主独立を求める戦いは階級闘争と呼ぶことができる。
 そして、自主独立のみでは、逆に国家権力を強化する方向にも働くのだが(つまり植民地解放闘争は暴力的なもので、仮に平和裏に行われるとしても、機密情報の米国への駄々漏れをまず防ぎ、国家機密の独占を企画し、同時に、官僚を国際協調派から民族派へ挿げ替える必要などがある(この点、ドラマ化された城山のセミ・ドキュメント小説『官僚たちの夏』は示唆に富む)。
 しかし、その戦いの本来の目的は、植民地宗主国自体の打倒といったものではなく、帝国主義本国において虐げられている労働者階級の救済でなければならない。だから、ベトコンの戦いは米兵の打倒であるのと同時に、兵役拒否者に対する支持でもあった。それは戦略的に倫理的にも正しい戦いだったと言える。
 ヤルタポツダム体制打破といった右翼のスローガンが、それを軍事・暴力的に志向するのではなく、アメリカやその他の国の労働者との連帯として実現されるものであるなら、自分も支持することができると思う。それは、反帝国主義・反スターリニズムの戦いでもあるからだ。こうした意味で、植民地状態を脱するということは、同時に国内での労働者主権を強化することでなければならない。その内容は、スターリニズム的官僚支配に対する戦いを意味する。
 ここで現状においては、国家権力に対する政党の役割を評価し、その指導力を知的道徳的なものと形容し、前衛等の知的道徳的「潔癖さ」を志向した旧イタリア共産党構造改革路線を支持する。そして、内乱状態においては、レーニン的な武装せる前衛党を支持する。内乱においては、平和こそその目的だし、内乱を生み出した根源である格差や貧困、外国の支配を排除する必要があるからだ。この2つは党が国家に代わって持つことのできる権力性といった、本書で触れられた(柴田氏によって明確に支持はされなかったように思うが)考え方を踏まえてである。
 ネグリ=ハート的資本主義世界理解による革命戦略であるマルティチュード戦略は、その階級闘争性を指摘すれば十分なように思える。我々が目指すものは、リアル・バーチャルを問わないマルティチュードに利する社会だし、それは、柴田氏が本書で指摘する初期マルクスの言による「市民社会の下位に置かれる国家」でもある。この市民社会は革命後のものだろう。
 ここで論点として残るのは、共産主義革命とは一体何であるかという難問である。崩壊した既存社会主義国のそれなのかといえば、反スターリニズムの考え方からそうは思わない。では、欧州福祉国家における社会民主党政権がそれであるのか。もしくは、それでも、資本主義の残滓が残るから共産主義社会とは呼べないと考えるのかという問題である。
 でも、この問題は意外と簡単に解ける。なぜなら、マルクス階級闘争に訴えなければ生きていけない労働者の状況を悲劇として捉え、それを促進するのが資本主義社会であるから、階級矛盾は拡大し、革命は必然となると考えた。つまり、階級闘争が不要となる社会こそが、マルクスの理想とした社会と考えていいのだ。資本主義が必然的に生み出す失業者が、それでも尊厳と将来への希望を持って暮らせる社会、先進国以外の国でも健康で文化的な生活がすべての国民に保障される社会、これらが実現したとき、もう共産主義革命について議論する必要は無くなると考えていい。国家の消滅(柴田氏の言に沿えば、その暴力性の完全な消滅、つまり国家の止揚)は、そのとき訪れると考えられる。
 なんか福祉国家礼賛みたいな内容となってしまったが、柴田氏の好著によってインスパイアされた僕の感想は、現段階ではこういったものである。