神が人になるとき、獣も人となる。四方田犬彦氏の映画『太陽』レビューに寄せて

 岩波書店の雑誌『世界』9月号に、四方田犬彦による映画レビュー「映像による人間宣言−映画『太陽』の描く昭和天皇」が掲載されていて、先日読んだ。その後、僕が感じたのが表題の言葉だった。
 『太陽』はロシア人映画監督がずっと前に撮影し、やっと日本での公開にこぎつけた映画だ(http://taiyo-movie.com/)。興味はあったのだが、まだ見ていない。レビューを読むのが先になった。
 この映画は、終戦をはさむ数日の昭和天皇を描く映画で、ちょうど東京裁判関係で「やっぱ昭和天皇A級戦犯だよな」とか思っていた僕は、ちょっと、甘いんじゃないカなどと、あらすじを聞いたとき思っていた。しかし、このレビューを読んで、考え方が変わった。
 レーニンの最後を描いた『牡牛座』、ヒトラーの最後を描いた『モレク神』を締めくくる三部作の最後の映画である『太陽』は、前の2作の陰惨なトーンを一変させる、希望にみちたつくりになっている、と四方田はいう。「モレク神とは人身御供を要求してやまない古代ローマの異教の神」の意らしい。終戦を経て人間宣言する天皇の姿は、虚無的で生きる意欲を失った姿から、ユーモアにあふれた人間らしさを徐々に回復するものへと変化する。それを映画は静かに描いているという。
 第二次世界大戦における昭和天皇の立場は、戦後もずっと微妙なものであった。昭和が終わった時ですら、戦争責任を問う声ですら、一般的でなく、最近やっと普通の話題に上るようになったばかりである。それだけ、昭和天皇の姿は神秘のベールに包まれていた、つまり隠されていたといえるだろう。
 しかし、ここでは(この映画では)そうした昭和天皇をめぐる政治情勢には言及せず、ただ、昭和天皇の日常の姿を静かに追うだけである。そして、それを明るい未来に向けたものとして描いている。なぜなら、昭和天皇が神から人へと変わるということは、彼自身を天皇ファシズムという日本の政治体制による桎梏から解き放つものであり、彼は人としての楽しみを享受することが可能な人になったことを意味するからである。そして同時に、それは、日本民族の歴史的使命とか、あらゆる暴虐が神の名、聖戦という名目によって正当化されてきた戦前の戦時体制が終わり、これまであらゆる野蛮を行なうことができた日本人が、やっと普通の人になることができた瞬間でもあった、と僕はこのレビューを読んで気づいたのであった。
 「神が人になる時、獣も人となる」。そして人となった日本人は、やっと対等な同じ人間としての立場で、中国人、朝鮮人と向き合うことが可能となった。それは同時に、国内においても、在日外国人、アイヌなどの少数民族に対して、同等の権利を持つ同じ人間として向き合うことが可能になった瞬間でもあったと思えたのである。
 そうして考えると、今でも天皇制を特別なものとみなし、その犯すべからざる神聖さを復活させようとする人々が、獣のような無作法を同じアジアの外国人に対して振るう理由も明らかになるだろう。自分が獣になる為に、彼らは神を必要とするのである。

 ファシストによって戦時中に多くの無実の市民が殺されたイタリアでは、戦争末期、そのファシストを、かつては殺される側だった市民が追いまわし、殺し、そしてムッソリーニを逆さづりにした。ドイツでは、米ソに分割占領され、冷戦の最前線と化した(そのドイツでさえ、戦前のワイマール民主体制は、多くの内戦によって獲得されたものだった)。
 唯一日本だけが、軍国主義の復活を恐れるアメリカによって、内戦を経ることなく(自由民権運動はあったが)、欧米で数百年の歴史をかけて戦いの中で獲得された民主的諸権利が与えられることになった。明確な戦いの中で勝ち取ったものでないだけに、そうした民主主義、平和主義が軽視されるのは自然な成り行きだったのだろう。しかし、60年を経て、民主制は定着し、その価値を疑う人は、上に書いた「獣になりたがる人たち」以外には少数だろうと思う。
 「戦死者の礎によって平和がもたらされた」とよく言われるけれど、日本軍兵士に関しては、それは間違っている。なぜなら、彼らが死んだのは、たとえ個々の兵士が家族を守るといった意識であったとしても、目的としては天皇という神を中心とした戦前の軍国主義的な政治体制を守る為に死んでいったからである。そして僕等が享受している現在の平和とは、彼ら(というよりも当時の軍部、政治家)が目ざしていたものは正反対の、人権と平和主義に基づく戦後憲法体制によってもたらされたものなのである(この部分の文章は『世界』同号の特集「東アジア外交の再構築を」内の論文の指摘による)。ついでに言えば、石橋湛山の植民地放棄論(高橋哲也『靖国問題』の巻末に収録)が、はからずも現実化したが故にもたらされた平和ともいえるかもしれない。
 であるから、四方田犬彦氏が指摘するように、映像化された人間宣言の持つ意味が、戦後60年を経た現在でも、非常に重要になるわけである。