ストレート・ストーリー、左ききの女、箱の男②
『箱の男』第5話は、視点を変えて母親の日記になっている。ここでは彼女の家族を心配するでもなく、ただカネを無心にくる母親の実母のことが描かれ、最後に実母と縁を切り、ある計画の最終段階に進む決意が述べられる。この話の最後は第1話冒頭で語られるように、父の死を意味するのだが、母の決意はそこへ踏み出す第一歩なのだろう。その前に、娘もそろそろ自立する歳になったことが語られる。不穏な雰囲気だ。
父に関して身につまされることをもう少し書くと、例えば仕事をして、それ以外の時間はほとんどその休憩に寝てばかりいるとか、そうでなければTVを見てダラダラしているとか、家事や子供の世話を全て妻に押し付けているとか、自分の生活はあまり箱の男と変わらない。というか仕事をしている以外はほぼ同じだ。歳をとってその仕事さえできなくなったら、箱の男と同じだろう。まあ、年齢を言い訳にすることはできるが。
ともかく、別のツイートに書いたように、保護すべき人を放置したらそれは法的倫理的に許されない。しかし、頭で分かっても心が許せないということはある。無表情な母の心情をを察するに物語はそうした方向に展開しそうで、完結していないだけ、予期不安に襲われより恐ろしく感じる。その意味では、読者の負の予測を裏切ってほしいとつとに思う。これまで書いたように、都会さんは力のある作家であると言えよう。
先に挙げた映画2本は、人倫の理想をうたうというよりも、箱の男に表されるような不安な社会情況の中における希望の光を示すものと考えるべきだと思う。その意味で名作のみが持つ事実を穿つ視点を持った作品だ。『箱の男』も、カウント稼ぎで結論を引き延ばす詐欺的作品ではなく、芸術性を持った作品であるというのが、第5話まで読んだ僕の感想だ。
ストレート・ストーリー、左ききの女、箱の男①
先日BS松竹東急でデビッド・リンチの映画『ストレート・ストーリー』を見た。リンチはいくつか見ていない作品もあるが好きな監督で、この映画もずっと見たかったものだ。名作は説明セリフがなくても俳優や背景描写だけで想像力を膨らませてくれるという共通点がある。
この映画は自分の人生がもう長くはないことを自覚した老人が、喧嘩して疎遠になっていた兄を訪ねるロードムービーである。年寄りすぎて車を運転できないため、トラクターに簡単な宿泊用の箱を括り付けて、歩くより多少速い速度での旅である。
旅に出るまでの準備編は、2人暮らしの娘との関係か描かれる。このパートを見ていて、ドイツ映画『左ききの女』を思い出した。というのも、離婚して一人息子を育てる女性を父親が訪ねるシーンがひどく印象的だったからだ。そしてこの描き方の違いにドイツとアメリカそれぞれの国の理想が描かれている気がして興味深かった。
星空と大草原と独立不羈の親子であるアメリカ、都会で孤独を抱えながらも自らの独立と矜持を捨てないドイツの女性。そして父娘関係には確かに愛情と信頼が存在して、日本的なベタベタした浪花節や不正義が介在する余地がない。それこそがお互いに誠実であるという愛情だと、感じ入ったのである。
そして、都会という作家によるウエッブ漫画『箱の男』である。これは現在第5話まで公開されており、完結していない作品を批評するのは、自分の趣旨に反するのだが、興味深いので触れておきたい。読んでもらえばすぐ分かるが、この漫画は娘視点で両親との生活を描くのだが、唯一他の家庭と違うのは、父親が段ボールから出ないということ。用事はすべて片腕だけが出る穴で済ませている。幼い娘はそれでも幸せに生きているが、成長するにつれて、世間との違いに気づき始めるという物語。
この漫画は読んでいて身につまされるシーンが多く、仕事中に涙ぐんでしまった。特にこんな境遇でも、出来る限り子供を楽しませたいと、ハワイに行ったクラスメートをうらやむ娘のために雰囲気だけでもハワイを演出しようと腕だけの父がアロハを着たり、母親が料理を用意したりするシーンは泣けた。
時間が来たので続きは次回書きたい。
映画『三度目の殺人』『誘拐の掟』『クライムダウン』『帰ってきたヒトラー』感想
『三度目の殺人』(2017日) ※ネタばれあり
たった今TVで見たばかりで、録画の二回目が今、横で流れているのだが、この結末には納得できない。
犯人が明示されないのは、主人公の弁護士が抱えるモヤモヤの描写としては理解できるのだが、司法が真実にたどり着けないという明確な監督の主張と、物語のストーリーラインでの真実を明確に比較することを困難にしているのではないかと思うからだ。また今書いた、弁護士のモヤモヤにしても、弁護士は容疑者の作戦に乗るかたちで、被害者の娘をかばっているのだから、そして最後に「それが本当だとしたらいい話ですね」という容疑者の言葉を受けているわけで、本当にモヤモヤしているのかはあいまいである。
映画の物語からすれば、被害者の娘と容疑者の共犯であり、実行犯は容疑者であるということになると思うのだが、それは映画のなかでは明示されない。そして、加害者と弁護士の物語での行動は、被害者の娘の、被害者による性的暴行というつらい告白を回避する、もしは、加えて殺人の共犯であることを隠す目的で行われ、それは成功する。しかし、この結末こそ、逆に被害者の娘に非常に大きなモヤモヤを残すことになったではないかと考える。事実、娘は「裁判では誰も真実を語らない」と話すのである。一度は真実を語る決意を勇気を持ってする娘にたいして「被疑者を救うためには真実を語らない方がいい」と説得したのは弁護士であり、そう仕向けたのは被疑者であったのだ。
なぜこのようなことを書くかといえば、法学部の学生であれば皆知っている判例、刑法における尊属殺人規定(つまり通常の殺人より、親殺しを重くする。無期→死刑、禁固→無期といったように、数年の禁固という判決がなかった)の事件に対する違憲判決とそれによる刑法典からの削除を思い出すからである。この事件は、父親によって子供のころからレイプされてきた娘が彼氏ができて、思い余って父親を殺したというものだが、最高裁判所は尊属殺人という刑法規定そのものが憲法の保障する法の下の平等に反するとして無効を宣言した。刑法はこの判決を受けて議会で改正された。
娘のような存在をかばおうとする被疑者、弁護人が合意した、そして、監督すら是認したこの結論に対しては、非常な違和感を感じる。
裁判が真実を暴かないということは、法学部の学生であれば皆知っていることなのだが、それを一般人に暴いたのはそれなりに意味があるのかもしれない。しかし、その点にしても、僕からすれば、真実があり、しかもそれが暴かれないといった描き方の方が、より説得力があるように思われる。そして、暴かれないからこそ、真実がどこにあるかを示す必要があったようにも思われる。たとえ裁判の判決に反映されないとしても。
そのほかの論点は、みんな書いているの省略します。
『誘拐の掟』(2014米)
これは偶然TVで見た映画なのだが、すごくよくできたハードボイルド探偵もの。アクションが過剰にならないのも西部劇の名作『シェーン』同様リアルだし、映像も美しい。おすすめ。
『クライムダウン』(2011英)
スコットランドのアルピニスト達を主人公にした、珍しいサスペンス。国際的誘拐犯と、その娘の父親であるユーゴ内戦の戦犯の3つどもえの戦いを描く。舞台にちりばめられたスコットランドの祭りとか珍しいものがたくさん見られる。面白かった。
『帰ってきたヒトラー』(2015独) ※ネタばれあり。
これは久々に見た面白い映画らしい映画。
今回の感想は、見たものと逆順に書いているのだが、BSで途中から見て、おもわず配信レンタルで字幕版を頭から見なおした。
1944年に自殺し、死体がガソリンで燃やされる直前のヒトラーが、2014年のベルリンにタイムスリップして蘇る。それを見い出したのは売れないフリーのTVドキュメンタリー作家。彼はヒトラーをそっくりさん芸人として売り出し、そのフィルムを買うのが、左前になっているTV局。TV局は本物以上に本物らしい(本物だから当然だが)ヒトラーが観客に受けるのを見て、全面的に売り出すことになる。
この映画のポイントは、戦後、ずっとヒトラーの犯罪性を教育し続けてきた点で、また憲法にも人間とは何かの哲学的な議論を盛り込んだドイツにおいて、この「ヒトラーのそっくりさん」がどう扱われるかを描いた点にある。
まず、主人公が本当にヒトラー自身だみんなに認識されたとしたら、彼はユダヤ人殺しをふくむ大量殺人によって断罪されるだろう。しかし、そんなタイムスリップしたうえに、生き返るなんてことは常識では考えられないから、この第一の仮定は映画では否定される。
そこで第二の問題になるのだが、ヒトラーの差別的言動が、現代のドイツ人にどう受け入れられるのか、どう受け入れられないかという問題である。この点が最も興味深いこの映画のテーマとなる。そして、ネタばれすれば、本物のヒトラーはそっくりさん芸人でないことを証明するのである。ヒトラーはその演説によって、戦争の記憶の薄れたドイツ人の心を見事つかんでしまう。まさに、そっくりさん芸人として、実は本物の悪魔を現代ドイツ人は解き放ってしまったのであった。ヒトラーがかつてそうであったように、現代でもファシズムを生み出す悪魔的力を発揮する。まさに彼自身の売り出すときのセリフ、「自分の主張を聞いてもられるのなら、道化にもなろう」から始まるのである。拒否反応を示す者もいるが、多くは感激の涙を流したり、そこまで行かなくても共感を示すのだ。
これはしばらくしてから思いついたのだが、あれだけ徹底しているドイツですらそうなのだ。日本だったらどうだろうと考えた。その意味で、安倍首相こそ蘇ったヒトラーなんだと思った。
しかし条件の違いもある。ドイツはナチズムを否定したけれど、国防軍を否定はしなかった。逆に日本は天皇制ファシズムを否定する点で弱かったが、9条を贖罪として世界、特に、侵略したアジア諸国に示してきた。
安倍は9条を否定することに積極的だが、僕らが今生きていること自体が、9条の有効性の最大の証拠になるのではないかと思う。もし、終戦直後に、安倍のいう安保法制や改憲が実現していたら、僕らの父や祖父が戦死し、あるいは僕ら自身が戦死し、今ここに生きていないかもしれないのだから。朝鮮戦争、ベトナム戦争、湾岸戦争、イラク・アフガン戦争。日本人の戦死者が出る機会は無数にあったのだ。
それにしても、ヒトラーほど口のうまくない安倍の口車に、戦争の悲惨さを忘れた日本人が付和雷同してしまうとしたら、それこそ、政治コメディでもあるこの映画以上の喜劇だろう。
このように、非常によくできた映画だと思う。
イギリスのテロについて
(1)
ロンドンには友人が2人住んでいて、その家族も住んでいる。僕は今回のマンチェスターとロンドンのテロの報を聞いて様々に考えた。
マンチェスターのテロは、被疑者が洗脳されている可能性があり、その場合彼には責任能力が無く、洗脳した人間が主犯の可能性がある。
ロンドンはより用意周到だから、むしろISではなく、権力者による謀略(例えば総選挙に向けた)可能性があるように思える。
そう考えたうえで、まず思ったのはこれはISとイギリスの非対称戦争であり、ISを爆撃する諸国はテロによる反撃を避けられないということ。
国による外交戦略にせよ、企業による利益拡大のための戦争の利用にせよ、外国だけを戦場とする戦争は、ベトナム戦争のように国内で侵略勢力に有効な反撃ができない以上、侵略国内部のテロに及ぶことは避けられない。ここで、戦後奇しくも平和主義を選択した日本の外交的優位性を主張し、それをとれない欧州および米国の宿痾を感じた。自国の軍事産業や軍産複合体のとてつもない危険性に対する自覚が促されるところだ。
(2)
しかし、洗脳に至る過程の青年や、ロンドンでテロを行った人々が謀略ではない場合を考えると、より個人に近づいた考察が必要なように思えた。その時思い出したのが、アキ・カウリスマキのデビュー作、映画『罪と罰』である。この映画はドストエフスキーの小説『罪と罰』をオリジナルとする現代劇で、カウリスマキの現代的視点が強く打ち出されている。
恋人を交通事故で失った青年は、賠償金を支払ってのうのうとしている男を殺す。確信に基づいた殺人だ。殺人現場に居合わせた女性は、悪びれず、証拠隠滅もしない青年の姿に興味を持ち、交流を続ける。最後に青年は警察に出頭し、法廷でこう述べる。「人を殺したのは誤りだった。悪いのはシステムだった。」
ISとイギリスの関係を非対称戦争や肉親に対する復讐と考えるなら相手を殺すことが解決方法となるだろう。しかし、殺された相手は同じ憎しみを持って、敵に対するだろう。
本当の問題は、彼らを殺しあわせるシステムなのだ。だから、相手を殺すことだけが唯一の解決策ではないということも考えられる。
ISに攻撃された町に住むクルド人なら防衛のために戦うことが正義だろう。だが、本当の解決は、トルコ政府との停戦や、トルコ国内でのクルド人の人権保障にあるべきだろう。そうすれば、テロの根底にある戦乱とそれによる貧しい暮らしを解決する道が開ける。アメリカ政府がこの道をとらないのは、その方が自国の軍事産業にとって利益があるからだし、イスラエル政府的にも周辺国が内戦している方が、弱体化を図れ、自国の安全保障に資するから、外交政策として優れているし実際に彼らはその道をとっている。
安倍が、(1)に書いた日本の優れた外交政策である平和主義をかなぐり捨てて、戦争の側に加わろうとするのは、国内の軍事産業の利益を優先し、人殺しすら景気浮揚の手段としたいとする人権感覚のない、現実感覚の希薄な行動と言える。
我々が戦わなければならないのは、こうした、巨大国家の恥知らずな外交政策と軍事産業の策謀と考えるべきだろう。
殺し合う兵士が如何に非人間的に見えても、やはり彼らも人間なのだ。正義によって裁かれる権利が誰にでもあることを確認すべきだろう。
(3)
マルスからアクエリアスの世紀へというのはずっと昔から言われていることだ。しかし、新自由主義的グローバリズムの幻想が崩壊したいま、市民は自らの困窮をてこにして、本当に必要な対策に向かう気が熟しているように思う。
戦後史の正体

- 作者: 孫崎享
- 出版社/メーカー: 創元社
- 発売日: 2012/07/24
- メディア: 単行本
- 購入: 31人 クリック: 410回
- この商品を含むブログ (86件) を見る
この本は、以前ブックメーターに紹介したのだけれど、そこで書かなかったことを書きたい。
まず、はてなダイアリーの他の紹介では、保守派の人が反米的なことを書くのはおかしいといった感想があったが、これはすぐ的外れとわかる。そもそも前大戦で対米開戦をしたのは、ガリガリの保守派、軍部だった。つまり対米依存に反対する立場と保守革新といった政治的区分は、それほど一致するわけではない。
著者は、戦後歴代の首相を対米従属派と独立派に区分し、それぞれ記述していく。その際に最も重要なのは、戦後史を3区分する視点である。占領期から独立までの第1期、独立から冷戦終了までの第2期、そして現代までの第3期である。
簡単にまとめれば、第1期は、日本を完全に叩き潰すために、経済力はかつての日本被占領国以下にするというアメリカ政府の方針の期間であり、第2期は朝鮮戦争に始まるアジアにおける冷戦を背景に、対米支援できる経済力を持った国として日本を育てようとする期間である。そして、第3期に至って、ソ連亡き後、日本がメインの敵として浮上する時期が現在である。
こうした米国の対日政策を反映して、日本の国内政治は動いていく。そのメインアクターの1人である日本国首相の行動がこの本の考察対象となる。
興味深いのは、TVなどで英雄として描かれる吉田茂首相が、第1期の時代において、アメリカにとって奴隷頭でしかなく、アメリカ政府の真の奴隷である日本人に対して奴隷頭としてえばっていたにすぎないという描写である。それが証拠に、彼が米軍に対してとった報道されない日常での卑屈な行動は、まさに奴隷頭の行動であったとする点だ。
逆に、孫崎氏は、世間で評判の悪い岸元首相を、安保改定後に地位協定を見直そうとしていた独立派として描いているのだが、この点は、私はあまり同意できない。
最近では、福田康夫元首相が「あなたとは違うんです」と切れて、辞任したのだが、その背景には、アフガンへの自衛隊ヘリコプター出撃要請があったというのが興味深い。彼はそれを断るため、職を辞して抵抗したというのである。福田氏の政治姿勢を見ると、それもありそうな話である。
さてここから若干の考察に入る。対米従属、対米独立といった区分は重要なのだが、それに加えて、タカ派的、ハト派的の区分を加えたい。在日米軍基地問題に象徴されるように、我々にとって、対米独立、特に地位協定のNATO並みの改善は急務だし、もっと先には、米軍基地なき日米安保条約やむしろ安保廃棄による永世中立国としての非武装中立、もしくは軽武装中立が、求められている。
なぜなら、安倍流の、自分で周辺国との間に摩擦を作り、それに対する世間のリアクションを悪用し、自民流の改憲へ向けた策謀、デマゴギーが氾濫する現在、冷静に将来を見つめた外交戦略が必要となるからだ。それは、安倍内閣の在特会的妄想とは対極をなすものである。
こうした新しい分析枠を加えるなら、安倍の姿勢が対米独立という究極の目的のためにより対米依存してしまうというジレンマを抱えていることがわかるだろう。これがタカ派的対米独立の姿勢である。核武装のための原発再稼働や、対中軍事同盟のためのTPP参加も同様の志向から出る政策だろう。
原発に対しては、火山列島に原発を作るのはクレージーであるというプーチン大統領の指摘を待つまでもなく愚策だし、対外的恐怖によってTPPに加わり、国家主権=主権在民を放棄するTPPも、日本における民主主義の未来を崩壊させるものである。その意味で、日本を滅ぼすのは原発と戦争と言った、福島原発被害救済活動をしている弁護士の発言は的を得ている。ここで出てくる戦争は、内閣による9条の解釈改憲から出た、集団的自衛権のことである。愚策というのは、歴史的に常に理性ではなく感情によって導き出されるものである。
その弁護士は『日刊ゲンダイ』のインタビューで、国家財政破綻でも日本は滅びない。でも原発事故と戦争なら日本は滅びるからこそ、反対しなければならないと発言していた。まさにその通りだ。
さて、タカ派的対米独立(安倍の場合、その独立への道筋は、基本が在特会的妄想に基づいているため、はなはなだ支離滅裂なものだが)がこのようなものであるのなら、鳩山内閣における小沢幹事長が主張していた、米軍基地なき日米安保条約という構想はハト派的対米独立の第3期における最も優れた表現であったように思う。そのための環境整備こそ、中米二等辺三角形外交であった。安倍とは対照的な冷静な外交分析である。
この孫崎氏の本を読むことを通して、我々はデマゴギーに支配された現状から、冷静な日本の未来へ向けた構想を持つことができるし、また持たなければならないと思う。それこそが、未来に対して責任を持つ我々の、唯一幻想から離れた視点である。
日本の一般市民の場合、TVで放送されないこと、新聞で書かれないことは、なかったことになる。しかし、外国の事例を見れば、報道されないことの他に真実があることは、冷静に分析すればおのずと明らかだ。我々が将来も平和に繁栄するために取るべき道は、そうした思考プロセスからしか導き出せない。
外国の悪口を読んで憂さを晴らすのは、子どもすることである。問題があるのなら、その解決に何が必要かを冷静に、政治学的に、外国の事例に学びながら考えること、それこそが大人の取るべき責務であろう。
アベ・ラップ:地獄に道連れ 作詞・作曲 地獄のピエロ
ネオ・ナッチ
トモダッチ
地獄に道連れ! (Aパート)
気の合うトモダーチ 集めたーら
ネオナチ だらけに なっちゃーった
世界中から 非難集中!
だけど 国内 批判しない!
だって マスコミ オレのマブダチ!
yo yo yo
オレのジイチャン A級 戦犯
世間じゃ相当 悪い 評判
だけどオレだけ 優し かーった!
だから 復権!
靖国 参拝!
憲法 改正!
アメ公に 文句は 言わせねえ!
オメラに 自衛隊員の命 くれてやる!
(Aパート繰返し)
原発事故はー 怖いかーら
離れた所からー 再稼働
九州 滅んでも 関係ねーえ!
大阪 滅んでも 関係ねーえ!
東京 残れば それでいーい!
それでも ダメなら 海外ー高飛ーび!
(Aパート繰返し)
バカな 日本人 だーって
被害受けりゃ 黙っちゃ いねーえ
だけど 全然 問題ねーえ
裁判官も オレのミカータ
(Aパート繰返し)
アベ・ナッチ
ネオ・ナッチ
日本 ドーナル!?
こんな政権 恥ずかしーよ!
だから 記録は 残さなーい!
馬鹿が作ったら ゴミ箱ー行ーき
楽な政治 スバラシイ 未来
ドンナことしたって 辺野古 やるぜ!
友達 裏山 買い占めちゃった!
今さら やめたら 大損 こくぜ!
沖縄の ことなんて 知ったことか
金が全て!
yo yo yo も、ひとつ!
オレをバカにしたー 東大卒よ
今に 見ていーろ これからは
俺のわかる範囲が 学問のすべて!
学問 変えれば 俺が天才!
(Aパート繰返し)
アベ・ナッチ
ネオ・ナッチ
日本 オシーマイ!
******
ほぼ2年ぶりに日記を再開します。というのも、子どもが生まれて、居間を占領されてTVが見れない。そんなんで書斎に戻ってきました。
住民基本台帳コードが送られてきたとき、本当に将来これを元に徴兵されないか心配になりました。これが2年の変化ですね。もち、うちなら亡命させます。自分が平和憲法に守られながら、若い連中に「お前ら死んで来い」と言える神経が信じられません。
碇ゲンドウになって「この子はセカンド・インパクト後の地獄を生きていくのか?」「男の子ならシンジ、女の子ならレイにしましょう」と言った感じもあります。女性の力強さに励まされたりします。
子供が寝ると夜は暇なので、少しずつ再開する予定です。ラップはツイッター版を少し手直ししました。素人なんで、出来の悪さは勘弁ね。
■
福島第一原発事故関係URL
武田邦彦(中部大学)ホームページ
http://takedanet.com/
実現させよう原発国民投票
http://kokumintohyo.com/
板橋区子どもを被曝から守る会
http://itabashi-kodomo.jimdo.com/
グリンピース
http://www.greenpeace.org/japan/ja/
都健康安全研究センター
都内の環境放射線測定結果 測定場所:東京都新宿区百人町
http://ftp.jaist.ac.jp/pub/emergency/monitoring.tokyo-eiken.go.jp/monitoring/
東京都ホームページ
http://www.metro.tokyo.jp/

- 作者: 柴田高好
- 出版社/メーカー: 論創社
- 発売日: 2012/06
- メディア: 単行本
- クリック: 1回
- この商品を含むブログを見る
第1については、小熊英二『1968』の読者なら詳しいと思うが、「反帝国主義・反スターリニズム」を唱えた新左翼諸党派が、最初は一国革命を目指すが、スターリニズムといった社会帝国主義の政治を否定する過程で、問題は一国社会主義にあるのだから、我々は世界革命を目指さなければならないと原理的に考え、結果、「世界同時革命勝利」といった、それこそ実現がはるかに難しいスローガンに落ち着くという、泣ける悲劇を想起すればいい。このように共産主義革命後の国家像を知ること、そのために現在の資本主義国の国家を知る本質的な重要さが想起される。
第2については、革命戦略として現在3つのルートが考えられる。レーニン的前衛党による武力革命路線、グラムシ的構造改革(議会で多数派をとって革命を成し遂げる)路線、そして、ネグリ=ハートが『帝国』の中で展開したマルティチュードによる革命である。そして、そのそれぞれがそれぞれの現代国家論に基づく革命戦略を展開しているため、その対象となる国家の真の姿の究明が待たれるのである。
では、この本はそうした僕のような読者の欲求に答えるものであったのか? 残念ながら否である。であるから、むしろこの本は、柴田高好氏の問題関心の角度から見た様々な国家論とマルクス(主義)国家論のレビューとして価値を有すると評価すべきだと思う。
柴田氏の同問題に対する視点とは、初期マルクスの関心にあった、経済学批判(その代表は『資本論』として結実する)と対を成す政治学批判の自身の手による完成である。本書のタイトルが『マルクス主義政治学原論』ではなく、『マルクス政治学原論』となっているのも、マルクス、それも初期マルクスのオリジナルの意図の復活を目指していることが理由であるという。
そして、そうした意図を実現するために、初期マルクスとヘーゲル国家論との関連を重視し、ヘーゲル的な弁証法関係としての市民社会と国家の関係、そして国家の止揚を模索するという構成になっている。
しかし柴田氏は、この結論部分を明確に論じてはいない。他者の国家理論を分析するに際して、こうした考え方を使って、市民社会バイアス・アプローチと国家論バイアス・アプローチの2面から、それら各理論を検討している。検討対象は上に書いたように、著名な政治思想・理論家、マルクス主義理論家・運動家の諸説である。
しかし、先に書いたように肝心の氏の意見は見えずらい。
まず、氏の意見を説得的に論じるためには、なぜヘーゲル的弁証法が正しいといえるのかの論証が不可欠である。それを論証しなければ、後期マルクスが「経済学批判を通して政治学批判は貫徹できる」としたことに対する氏の批判は成立しないからだ。
また、氏の「市民社会」概念の取り扱いに関しても疑義がある。この言葉は、広く一般的な定義による経済関係を含む社会的関係、当然、地縁血縁も含む一般社会的な意味。次に、マルクスの考える、まず資本主義社会であり、当然その中に階級間の矛盾による階級闘争を含む社会として説明できる。この両側面が混同されて使用されており、なおかつ、ブルジョア的生産関係のみを意味するとも解釈されている場面もある。そのため国家と市民社会の関係として諸国家理論を論ずる際に、著しい混乱をもたらしているように思える。
また、氏は結論部分でベトナム戦争における米国の兵役拒否運動を、国家を止揚する典型として持ち出しているのだが、現在の志願兵制による米国のアフガン戦争は、こうした意味では国家論にかかわらないのであろうか? むしろ、貧しい市民を金で釣って戦場に向かわせるといった意味で、典型的な資本主義的戦争と考えるべきではないかと思う。
氏は国家による強制こそ国家論の本質と捉えているから、このような考察になるのかもしれない。だとしたら、旧東欧における市民的不服従も、柴田氏的国家廃絶の運動ということになる。
氏のこうした論点は、極めてユニークで、これまでマルクス主義政治学が持ちえなかった国家という力に対する明確な闘争を指定することを可能とする。その点は評価できる。
原発再稼動に対する運動も、オスプレイ配備に反対する運動も、反米軍基地や反TPPの運動、消費税増税反対の運動も、その基軸が国家の政策(国家権力)に関わるという意味では、国家の止揚に関する運動といえるのかもしれない。
しかし、同時にこれらの運動は、(消費増税は性格が少し違うが)日本を「貢進国」(米、ラムズフェルドの言)と捉えるアメリカ政府によって引き起こされたがゆえに、日本人自身のアメリからの植民地独立運動と捉えることもできる点が重要である。この場合、国家の廃絶は問題とならない。なぜなら現存する国家をそのまま認めて、その独立性のみが問題となるからだ。
つまり視点を変えれば、上記のすべての運動に関して、そこで問題となっているのは国家自体の本質である権力性(力による、対象の生死をも問わない服従への強制)ではなく、むしろブルジョア民主主義という虚構の枠内での、民主的統制の問題なのではないかと僕は考える。
そう考えれば、有権者の大半が反対しているにもかかわらず、なぜそうした政策が強行されるのかといった、政策を権利付けるべき正統性の問題、つまり主権在民の問題となる。であるのなら、それは国家止揚の運動とは呼べないだろう。
僕が支持するのは、資本主義体制下の市民社会とは、すべての権利が、まず初めに、資本主義的生産関係の理論に基づいた法的関係によって成立した社会であるということだ。平等な参政権、基本的人権といった諸権利は、資本主義的生産に関して必要だったから成立した。そして、もっと言えば、現代的合理主義といった理論枠組みすら、それが資本主義的生産、価値増殖に利するがゆえに一般的になったと言えるのだと思う。
だからこそ、マルクスは、経済的関係である下部構造がすべての出発点であり、国家や法・文化といった上部構造はその反映に過ぎないと言った。もちろん上部構造には多少の自律性があり、それゆえ下部構造への反作用があるとしても、下部構造の出発点であり支配的力としての重要性は揺るがないと主張したのだった。
しかし、同時にこうした構造を抱える市民社会は、資本主義がベースであっても、同時に資本主義的生産関係を揺るがすところの労働者階級を生み出す。そして、彼らへの対処がなければ資本主義そのものが成立しえない状況に陥る。それが、さまざまな労働立法・社会政策として法的関係として組み込まれる。これが現在の市民社会である。
マックス・ウエーバーが主著『経済と社会』で論じたとおり、市場には「最初にした約束を守る」というたった1つの倫理しかなく、それゆえ無倫理といえるのに対して、地域社会にはさまざまな掟があり、それが倫理として作用する。資本主義的編成に投入された地域社会は、市場という経済社会にこうした様々な地域社会に共通する倫理を持ち込み、経済法制など様々な倫理的価値を資本主義制度に導入することになり、修正資本主義が誕生した。これは、かつての東側陣営に対抗するための政策であったことも大きな要素で、冷戦の終結以降、新自由主義といった、よりむき出しの市場の論理が政策として打ち出されてきたのは、支配的なイデオロギーが国家権力として表示され、それはいまだ資本家のイデオロギーである以上、当然の結果となる。
経済的関係が歴史の推進力となるという発想は、カール・マンハイム『イデオロギーとユートピア』でも、知識社会学理論として検証されている。有権者はその生活の必要上、さまざまな職業団体に属す。そして、その職業団体の利害が、それぞれの有権者における意識を支配し、イデオロギーを形成するというのが、マンハイムが戦前のドイツ社会を分析した結論である。付け加えれば、それぞれのイデオロギーをもつ集団は、実現可能な社会としてのユートピアを打ち立てるべく行動するというのが、同書名の意味だ。
自由主義的イデオロギー、民主主義的・平等主義的イデオロギー、現在社会的に重要なポジションについていおらず、自分たちこそ現政府に代わりうる能力があると考えるゴロツキ・無職の者たちのイデオロギーがファシズム・イデオロギーであり、労働者で、悪いのは金持ちと経営陣と考えるのが共産主義的イデオロギーである。ファシズムの暴力性は、その生い立ちによって説明できるのだ。
マンハイムは同書において、知的職業につく中間層のインテリゲンツィアこそ、こうした職域における利害関係に左右されず理性的な判断が可能となると考え、自由浮動的インテリゲンツィアによる政治を理想としたのだが、彼らが本当に労働環境の影響力から自由かは、別の場所で考えなければならないだろう。
ともかく、経済のスターリン的単純模写説は広松渉が戒めたものだが、同時に、すべてが人の自由意思によって決まるという人間主義的マルクス主義も、広松同様、僕の取るところではない。
広松も言うように、人は社会によって規定されながらも、ある程度の可能性の範囲として、自らの環境を新しく作っていく投企的存在でもあるからである。現象学哲学の用語で言えば「世界内存在としての我」である。自己の中にある他者イメージは、交流を保てば日々裏切られ、その都度修正される。自己同一性を保ちながら、外的矛盾によって変わり続ける姿が世界内存在としての自己にはある。これが「世界内存在としての我」の理論である。投企被投企的人間像とも呼ばれる。そして、これこそが、本来弁証法的関係と呼べるものだと、広松同様、僕は理解している。
ともかく、こうした理由から、柴田氏のヘーゲル弁証法理解は観念論に過ぎ、そして、本来必要である説明がまったくされていない点で、自分は支持ができない。それなら、むしろ階級闘争の第1次性を主張し、すべての学はそれに奉仕すべきであるとしたアルチュセールの思想(今村仁司著・講談社学術新書『アルチュセールの思想』参照)の方が、僕にとっては、むしろ優位であると考える。
現在の市民社会に関しては、もちろん資本主義的生産関係の社会である。しかし、上に述べたように、それは資本主義が自らの矛盾を解消すべく労働者と妥協しながら、それでも資本主義的生産関係を維持している状態と理解している。それゆえ、市民社会には、階級闘争の過程が歴史として色濃く刻印されている。その反映・物象化・物神崇拝としての国家という広松の理解を僕は支持する。
カール・シュミットにおける危機における国家の暴力性とそれに対する支持は、丸山が強敵と評したように、強力な学説だ。しかし、階級闘争の理論から言えば、そうした危機をもたらすこと自体が階級闘争を担う労働者にとって不利益なのだから、危機を回避し、国家をより強権的なものから労働者に優しいものに作り変えること自体が、労働者にとっての階級闘争の目的となる。まさにプロレタリア・インターナショナリズムの理念がこれである。
柴田氏が古典的に過ぎると否定した広松理論によって説明される社会的力としての国家権力はこうして市民社会から生み出される物象化的錯視、物神崇拝であると、僕には考えられる。それは、我々が日常において1万円紙幣を破り捨てることがどうしてもできないといった、現実にある感情と同様のものだ。これを否定するには、論理と理性によって、現代社会の構造を捉え返すという作業が不可欠となる。高額貨幣の背後には、それによる購買力という価値が存在し、国家の背後にはその力によって暴力的な国内外の敵から自分自身を守るという強力な動機があるのだから、その寄って立つもの自体を再検討し、貨幣がなぜ生み出されるのかを考え、その出自の正当さと有効な利用を考えること。そして、内外の暴力はなぜ生まれるのかを考え、その根源をたつ方法に思考をいたすことが不可欠となる。そして、そうした思考の後には、現象としての高額紙幣も国家も、別の姿を現すだろう。
だから、サンデルの哲学をその土台として支える弁証法的議論(つまり、教室やTVでの議論)の本質とは、そうした思った以上に射程の長い重要な戦略だったと考えられる。ユルゲン・ハーバマスにおける対話概念も同様だろう。
さて、こうして柴田氏の議論によって結論を得られなかった自分は、最後に唖然としたのだが、いくつか収穫といえるものがあった。
つまり、様々な政治運動の階級闘争的側面がそれである。アメリカからの日本の独立も、そもそも植民地主義自体、帝国主義がもたらしたものであり、帝国主義が帝国主義本国における独占資本による、自らを優位に置くための他国に対する政治的支配であるのなら、日本の自主独立を求める戦いは階級闘争と呼ぶことができる。
そして、自主独立のみでは、逆に国家権力を強化する方向にも働くのだが(つまり植民地解放闘争は暴力的なもので、仮に平和裏に行われるとしても、機密情報の米国への駄々漏れをまず防ぎ、国家機密の独占を企画し、同時に、官僚を国際協調派から民族派へ挿げ替える必要などがある(この点、ドラマ化された城山のセミ・ドキュメント小説『官僚たちの夏』は示唆に富む)。
しかし、その戦いの本来の目的は、植民地宗主国自体の打倒といったものではなく、帝国主義本国において虐げられている労働者階級の救済でなければならない。だから、ベトコンの戦いは米兵の打倒であるのと同時に、兵役拒否者に対する支持でもあった。それは戦略的に倫理的にも正しい戦いだったと言える。
ヤルタポツダム体制打破といった右翼のスローガンが、それを軍事・暴力的に志向するのではなく、アメリカやその他の国の労働者との連帯として実現されるものであるなら、自分も支持することができると思う。それは、反帝国主義・反スターリニズムの戦いでもあるからだ。こうした意味で、植民地状態を脱するということは、同時に国内での労働者主権を強化することでなければならない。その内容は、スターリニズム的官僚支配に対する戦いを意味する。
ここで現状においては、国家権力に対する政党の役割を評価し、その指導力を知的道徳的なものと形容し、前衛等の知的道徳的「潔癖さ」を志向した旧イタリア共産党の構造改革路線を支持する。そして、内乱状態においては、レーニン的な武装せる前衛党を支持する。内乱においては、平和こそその目的だし、内乱を生み出した根源である格差や貧困、外国の支配を排除する必要があるからだ。この2つは党が国家に代わって持つことのできる権力性といった、本書で触れられた(柴田氏によって明確に支持はされなかったように思うが)考え方を踏まえてである。
ネグリ=ハート的資本主義世界理解による革命戦略であるマルティチュード戦略は、その階級闘争性を指摘すれば十分なように思える。我々が目指すものは、リアル・バーチャルを問わないマルティチュードに利する社会だし、それは、柴田氏が本書で指摘する初期マルクスの言による「市民社会の下位に置かれる国家」でもある。この市民社会は革命後のものだろう。
ここで論点として残るのは、共産主義革命とは一体何であるかという難問である。崩壊した既存社会主義国のそれなのかといえば、反スターリニズムの考え方からそうは思わない。では、欧州福祉国家における社会民主党政権がそれであるのか。もしくは、それでも、資本主義の残滓が残るから共産主義社会とは呼べないと考えるのかという問題である。
でも、この問題は意外と簡単に解ける。なぜなら、マルクスは階級闘争に訴えなければ生きていけない労働者の状況を悲劇として捉え、それを促進するのが資本主義社会であるから、階級矛盾は拡大し、革命は必然となると考えた。つまり、階級闘争が不要となる社会こそが、マルクスの理想とした社会と考えていいのだ。資本主義が必然的に生み出す失業者が、それでも尊厳と将来への希望を持って暮らせる社会、先進国以外の国でも健康で文化的な生活がすべての国民に保障される社会、これらが実現したとき、もう共産主義革命について議論する必要は無くなると考えていい。国家の消滅(柴田氏の言に沿えば、その暴力性の完全な消滅、つまり国家の止揚)は、そのとき訪れると考えられる。
なんか福祉国家礼賛みたいな内容となってしまったが、柴田氏の好著によってインスパイアされた僕の感想は、現段階ではこういったものである。