映画『三度目の殺人』『誘拐の掟』『クライムダウン』『帰ってきたヒトラー』感想

『三度目の殺人』(2017日) ※ネタばれあり
 たった今TVで見たばかりで、録画の二回目が今、横で流れているのだが、この結末には納得できない。
 犯人が明示されないのは、主人公の弁護士が抱えるモヤモヤの描写としては理解できるのだが、司法が真実にたどり着けないという明確な監督の主張と、物語のストーリーラインでの真実を明確に比較することを困難にしているのではないかと思うからだ。また今書いた、弁護士のモヤモヤにしても、弁護士は容疑者の作戦に乗るかたちで、被害者の娘をかばっているのだから、そして最後に「それが本当だとしたらいい話ですね」という容疑者の言葉を受けているわけで、本当にモヤモヤしているのかはあいまいである。
 映画の物語からすれば、被害者の娘と容疑者の共犯であり、実行犯は容疑者であるということになると思うのだが、それは映画のなかでは明示されない。そして、加害者と弁護士の物語での行動は、被害者の娘の、被害者による性的暴行というつらい告白を回避する、もしは、加えて殺人の共犯であることを隠す目的で行われ、それは成功する。しかし、この結末こそ、逆に被害者の娘に非常に大きなモヤモヤを残すことになったではないかと考える。事実、娘は「裁判では誰も真実を語らない」と話すのである。一度は真実を語る決意を勇気を持ってする娘にたいして「被疑者を救うためには真実を語らない方がいい」と説得したのは弁護士であり、そう仕向けたのは被疑者であったのだ。
 なぜこのようなことを書くかといえば、法学部の学生であれば皆知っている判例、刑法における尊属殺人規定(つまり通常の殺人より、親殺しを重くする。無期→死刑、禁固→無期といったように、数年の禁固という判決がなかった)の事件に対する違憲判決とそれによる刑法典からの削除を思い出すからである。この事件は、父親によって子供のころからレイプされてきた娘が彼氏ができて、思い余って父親を殺したというものだが、最高裁判所尊属殺人という刑法規定そのものが憲法の保障する法の下の平等に反するとして無効を宣言した。刑法はこの判決を受けて議会で改正された。
 娘のような存在をかばおうとする被疑者、弁護人が合意した、そして、監督すら是認したこの結論に対しては、非常な違和感を感じる。
 裁判が真実を暴かないということは、法学部の学生であれば皆知っていることなのだが、それを一般人に暴いたのはそれなりに意味があるのかもしれない。しかし、その点にしても、僕からすれば、真実があり、しかもそれが暴かれないといった描き方の方が、より説得力があるように思われる。そして、暴かれないからこそ、真実がどこにあるかを示す必要があったようにも思われる。たとえ裁判の判決に反映されないとしても。
 そのほかの論点は、みんな書いているの省略します。

『誘拐の掟』(2014米)
 これは偶然TVで見た映画なのだが、すごくよくできたハードボイルド探偵もの。アクションが過剰にならないのも西部劇の名作『シェーン』同様リアルだし、映像も美しい。おすすめ。

『クライムダウン』(2011英)
 スコットランドアルピニスト達を主人公にした、珍しいサスペンス。国際的誘拐犯と、その娘の父親であるユーゴ内戦の戦犯の3つどもえの戦いを描く。舞台にちりばめられたスコットランドの祭りとか珍しいものがたくさん見られる。面白かった。

帰ってきたヒトラー』(2015独) ※ネタばれあり。
 これは久々に見た面白い映画らしい映画。
 今回の感想は、見たものと逆順に書いているのだが、BSで途中から見て、おもわず配信レンタルで字幕版を頭から見なおした。
 1944年に自殺し、死体がガソリンで燃やされる直前のヒトラーが、2014年のベルリンにタイムスリップして蘇る。それを見い出したのは売れないフリーのTVドキュメンタリー作家。彼はヒトラーをそっくりさん芸人として売り出し、そのフィルムを買うのが、左前になっているTV局。TV局は本物以上に本物らしい(本物だから当然だが)ヒトラーが観客に受けるのを見て、全面的に売り出すことになる。
 この映画のポイントは、戦後、ずっとヒトラーの犯罪性を教育し続けてきた点で、また憲法にも人間とは何かの哲学的な議論を盛り込んだドイツにおいて、この「ヒトラーのそっくりさん」がどう扱われるかを描いた点にある。
 まず、主人公が本当にヒトラー自身だみんなに認識されたとしたら、彼はユダヤ人殺しをふくむ大量殺人によって断罪されるだろう。しかし、そんなタイムスリップしたうえに、生き返るなんてことは常識では考えられないから、この第一の仮定は映画では否定される。
 そこで第二の問題になるのだが、ヒトラーの差別的言動が、現代のドイツ人にどう受け入れられるのか、どう受け入れられないかという問題である。この点が最も興味深いこの映画のテーマとなる。そして、ネタばれすれば、本物のヒトラーはそっくりさん芸人でないことを証明するのである。ヒトラーはその演説によって、戦争の記憶の薄れたドイツ人の心を見事つかんでしまう。まさに、そっくりさん芸人として、実は本物の悪魔を現代ドイツ人は解き放ってしまったのであった。ヒトラーがかつてそうであったように、現代でもファシズムを生み出す悪魔的力を発揮する。まさに彼自身の売り出すときのセリフ、「自分の主張を聞いてもられるのなら、道化にもなろう」から始まるのである。拒否反応を示す者もいるが、多くは感激の涙を流したり、そこまで行かなくても共感を示すのだ。
 これはしばらくしてから思いついたのだが、あれだけ徹底しているドイツですらそうなのだ。日本だったらどうだろうと考えた。その意味で、安倍首相こそ蘇ったヒトラーなんだと思った。
 しかし条件の違いもある。ドイツはナチズムを否定したけれど、国防軍を否定はしなかった。逆に日本は天皇ファシズムを否定する点で弱かったが、9条を贖罪として世界、特に、侵略したアジア諸国に示してきた。
 安倍は9条を否定することに積極的だが、僕らが今生きていること自体が、9条の有効性の最大の証拠になるのではないかと思う。もし、終戦直後に、安倍のいう安保法制や改憲が実現していたら、僕らの父や祖父が戦死し、あるいは僕ら自身が戦死し、今ここに生きていないかもしれないのだから。朝鮮戦争ベトナム戦争湾岸戦争イラク・アフガン戦争。日本人の戦死者が出る機会は無数にあったのだ。
 それにしても、ヒトラーほど口のうまくない安倍の口車に、戦争の悲惨さを忘れた日本人が付和雷同してしまうとしたら、それこそ、政治コメディでもあるこの映画以上の喜劇だろう。
 このように、非常によくできた映画だと思う。


 

イギリスのテロについて

(1)
 ロンドンには友人が2人住んでいて、その家族も住んでいる。僕は今回のマンチェスターロンドンのテロの報を聞いて様々に考えた。
 マンチェスターのテロは、被疑者が洗脳されている可能性があり、その場合彼には責任能力が無く、洗脳した人間が主犯の可能性がある。
 ロンドンはより用意周到だから、むしろISではなく、権力者による謀略(例えば総選挙に向けた)可能性があるように思える。
 そう考えたうえで、まず思ったのはこれはISとイギリスの非対称戦争であり、ISを爆撃する諸国はテロによる反撃を避けられないということ。
 国による外交戦略にせよ、企業による利益拡大のための戦争の利用にせよ、外国だけを戦場とする戦争は、ベトナム戦争のように国内で侵略勢力に有効な反撃ができない以上、侵略国内部のテロに及ぶことは避けられない。ここで、戦後奇しくも平和主義を選択した日本の外交的優位性を主張し、それをとれない欧州および米国の宿痾を感じた。自国の軍事産業軍産複合体のとてつもない危険性に対する自覚が促されるところだ。

(2)
 しかし、洗脳に至る過程の青年や、ロンドンでテロを行った人々が謀略ではない場合を考えると、より個人に近づいた考察が必要なように思えた。その時思い出したのが、アキ・カウリスマキのデビュー作、映画『罪と罰』である。この映画はドストエフスキーの小説『罪と罰』をオリジナルとする現代劇で、カウリスマキの現代的視点が強く打ち出されている。
 恋人を交通事故で失った青年は、賠償金を支払ってのうのうとしている男を殺す。確信に基づいた殺人だ。殺人現場に居合わせた女性は、悪びれず、証拠隠滅もしない青年の姿に興味を持ち、交流を続ける。最後に青年は警察に出頭し、法廷でこう述べる。「人を殺したのは誤りだった。悪いのはシステムだった。」
 ISとイギリスの関係を非対称戦争や肉親に対する復讐と考えるなら相手を殺すことが解決方法となるだろう。しかし、殺された相手は同じ憎しみを持って、敵に対するだろう。
 本当の問題は、彼らを殺しあわせるシステムなのだ。だから、相手を殺すことだけが唯一の解決策ではないということも考えられる。
 ISに攻撃された町に住むクルド人なら防衛のために戦うことが正義だろう。だが、本当の解決は、トルコ政府との停戦や、トルコ国内でのクルド人の人権保障にあるべきだろう。そうすれば、テロの根底にある戦乱とそれによる貧しい暮らしを解決する道が開ける。アメリカ政府がこの道をとらないのは、その方が自国の軍事産業にとって利益があるからだし、イスラエル政府的にも周辺国が内戦している方が、弱体化を図れ、自国の安全保障に資するから、外交政策として優れているし実際に彼らはその道をとっている。
 安倍が、(1)に書いた日本の優れた外交政策である平和主義をかなぐり捨てて、戦争の側に加わろうとするのは、国内の軍事産業の利益を優先し、人殺しすら景気浮揚の手段としたいとする人権感覚のない、現実感覚の希薄な行動と言える。
 我々が戦わなければならないのは、こうした、巨大国家の恥知らずな外交政策軍事産業の策謀と考えるべきだろう。
 殺し合う兵士が如何に非人間的に見えても、やはり彼らも人間なのだ。正義によって裁かれる権利が誰にでもあることを確認すべきだろう。

(3)
 マルスからアクエリアスの世紀へというのはずっと昔から言われていることだ。しかし、新自由主義グローバリズムの幻想が崩壊したいま、市民は自らの困窮をてこにして、本当に必要な対策に向かう気が熟しているように思う。

戦後史の正体

戦後史の正体 (「戦後再発見」双書1)

戦後史の正体 (「戦後再発見」双書1)

 この本は、以前ブックメーターに紹介したのだけれど、そこで書かなかったことを書きたい。
 まず、はてなダイアリーの他の紹介では、保守派の人が反米的なことを書くのはおかしいといった感想があったが、これはすぐ的外れとわかる。そもそも前大戦で対米開戦をしたのは、ガリガリの保守派、軍部だった。つまり対米依存に反対する立場と保守革新といった政治的区分は、それほど一致するわけではない。
 著者は、戦後歴代の首相を対米従属派と独立派に区分し、それぞれ記述していく。その際に最も重要なのは、戦後史を3区分する視点である。占領期から独立までの第1期、独立から冷戦終了までの第2期、そして現代までの第3期である。
 簡単にまとめれば、第1期は、日本を完全に叩き潰すために、経済力はかつての日本被占領国以下にするというアメリカ政府の方針の期間であり、第2期は朝鮮戦争に始まるアジアにおける冷戦を背景に、対米支援できる経済力を持った国として日本を育てようとする期間である。そして、第3期に至って、ソ連亡き後、日本がメインの敵として浮上する時期が現在である。
 こうした米国の対日政策を反映して、日本の国内政治は動いていく。そのメインアクターの1人である日本国首相の行動がこの本の考察対象となる。
 興味深いのは、TVなどで英雄として描かれる吉田茂首相が、第1期の時代において、アメリカにとって奴隷頭でしかなく、アメリカ政府の真の奴隷である日本人に対して奴隷頭としてえばっていたにすぎないという描写である。それが証拠に、彼が米軍に対してとった報道されない日常での卑屈な行動は、まさに奴隷頭の行動であったとする点だ。
 逆に、孫崎氏は、世間で評判の悪い岸元首相を、安保改定後に地位協定を見直そうとしていた独立派として描いているのだが、この点は、私はあまり同意できない。
 最近では、福田康夫元首相が「あなたとは違うんです」と切れて、辞任したのだが、その背景には、アフガンへの自衛隊ヘリコプター出撃要請があったというのが興味深い。彼はそれを断るため、職を辞して抵抗したというのである。福田氏の政治姿勢を見ると、それもありそうな話である。
 さてここから若干の考察に入る。対米従属、対米独立といった区分は重要なのだが、それに加えて、タカ派的、ハト派的の区分を加えたい。在日米軍基地問題に象徴されるように、我々にとって、対米独立、特に地位協定NATO並みの改善は急務だし、もっと先には、米軍基地なき日米安保条約やむしろ安保廃棄による永世中立国としての非武装中立、もしくは軽武装中立が、求められている。
 なぜなら、安倍流の、自分で周辺国との間に摩擦を作り、それに対する世間のリアクションを悪用し、自民流の改憲へ向けた策謀、デマゴギーが氾濫する現在、冷静に将来を見つめた外交戦略が必要となるからだ。それは、安倍内閣在特会的妄想とは対極をなすものである。
 こうした新しい分析枠を加えるなら、安倍の姿勢が対米独立という究極の目的のためにより対米依存してしまうというジレンマを抱えていることがわかるだろう。これがタカ派的対米独立の姿勢である。核武装のための原発再稼働や、対中軍事同盟のためのTPP参加も同様の志向から出る政策だろう。
 原発に対しては、火山列島原発を作るのはクレージーであるというプーチン大統領の指摘を待つまでもなく愚策だし、対外的恐怖によってTPPに加わり、国家主権=主権在民を放棄するTPPも、日本における民主主義の未来を崩壊させるものである。その意味で、日本を滅ぼすのは原発と戦争と言った、福島原発被害救済活動をしている弁護士の発言は的を得ている。ここで出てくる戦争は、内閣による9条の解釈改憲から出た、集団的自衛権のことである。愚策というのは、歴史的に常に理性ではなく感情によって導き出されるものである。
 その弁護士は『日刊ゲンダイ』のインタビューで、国家財政破綻でも日本は滅びない。でも原発事故と戦争なら日本は滅びるからこそ、反対しなければならないと発言していた。まさにその通りだ。
 さて、タカ派的対米独立(安倍の場合、その独立への道筋は、基本が在特会的妄想に基づいているため、はなはなだ支離滅裂なものだが)がこのようなものであるのなら、鳩山内閣における小沢幹事長が主張していた、米軍基地なき日米安保条約という構想はハト派的対米独立の第3期における最も優れた表現であったように思う。そのための環境整備こそ、中米二等辺三角形外交であった。安倍とは対照的な冷静な外交分析である。
 この孫崎氏の本を読むことを通して、我々はデマゴギーに支配された現状から、冷静な日本の未来へ向けた構想を持つことができるし、また持たなければならないと思う。それこそが、未来に対して責任を持つ我々の、唯一幻想から離れた視点である。
 日本の一般市民の場合、TVで放送されないこと、新聞で書かれないことは、なかったことになる。しかし、外国の事例を見れば、報道されないことの他に真実があることは、冷静に分析すればおのずと明らかだ。我々が将来も平和に繁栄するために取るべき道は、そうした思考プロセスからしか導き出せない。
 外国の悪口を読んで憂さを晴らすのは、子どもすることである。問題があるのなら、その解決に何が必要かを冷静に、政治学的に、外国の事例に学びながら考えること、それこそが大人の取るべき責務であろう。

アベ・ラップ:地獄に道連れ   作詞・作曲 地獄のピエロ

ネオ・ナッチ
トモダッチ
地獄に道連れ! (Aパート)


 気の合うトモダーチ 集めたーら
 ネオナチ だらけに なっちゃーった
 世界中から 非難集中!
 だけど 国内 批判しない!
 だって マスコミ オレのマブダチ!


yo yo yo
 オレのジイチャン A級 戦犯
 世間じゃ相当 悪い 評判
 だけどオレだけ 優し かーった!
 だから 復権
 靖国 参拝!
 憲法 改正!


 アメ公に 文句は 言わせねえ!
 オメラに 自衛隊員の命 くれてやる!


(Aパート繰返し)


 原発事故はー 怖いかーら
 離れた所からー 再稼働
 九州 滅んでも 関係ねーえ!
 大阪 滅んでも 関係ねーえ!
 東京 残れば それでいーい!
 それでも ダメなら 海外ー高飛ーび!


(Aパート繰返し)


 バカな 日本人 だーって
 被害受けりゃ 黙っちゃ いねーえ
 だけど 全然 問題ねーえ
 裁判官も オレのミカータ


(Aパート繰返し)
アベ・ナッチ
ネオ・ナッチ
日本 ドーナル!?


 こんな政権 恥ずかしーよ!
 だから 記録は 残さなーい!
 馬鹿が作ったら ゴミ箱ー行ーき
 楽な政治 スバラシイ 未来


ドンナことしたって 辺野古 やるぜ!
友達 裏山 買い占めちゃった!
今さら やめたら 大損 こくぜ!
沖縄の ことなんて 知ったことか


金が全て!


yo yo yo も、ひとつ!
 オレをバカにしたー 東大卒よ
 今に 見ていーろ これからは
 俺のわかる範囲が 学問のすべて!
 学問 変えれば 俺が天才!


(Aパート繰返し)
アベ・ナッチ
ネオ・ナッチ
日本 オシーマイ!

******

 ほぼ2年ぶりに日記を再開します。というのも、子どもが生まれて、居間を占領されてTVが見れない。そんなんで書斎に戻ってきました。
 住民基本台帳コードが送られてきたとき、本当に将来これを元に徴兵されないか心配になりました。これが2年の変化ですね。もち、うちなら亡命させます。自分が平和憲法に守られながら、若い連中に「お前ら死んで来い」と言える神経が信じられません。
 碇ゲンドウになって「この子はセカンド・インパクト後の地獄を生きていくのか?」「男の子ならシンジ、女の子ならレイにしましょう」と言った感じもあります。女性の力強さに励まされたりします。
 子供が寝ると夜は暇なので、少しずつ再開する予定です。ラップはツイッター版を少し手直ししました。素人なんで、出来の悪さは勘弁ね。

■[その他の本]柴田高好『マルクス政治学原論』

福島第一原発事故関係URL
武田邦彦(中部大学)ホームページ
http://takedanet.com/
実現させよう原発国民投票
http://kokumintohyo.com/
板橋区子どもを被曝から守る会
http://itabashi-kodomo.jimdo.com/
グリンピース
http://www.greenpeace.org/japan/ja/
都健康安全研究センター
都内の環境放射線測定結果 測定場所:東京都新宿区百人町
http://ftp.jaist.ac.jp/pub/emergency/monitoring.tokyo-eiken.go.jp/monitoring/
東京都ホームページ
http://www.metro.tokyo.jp/

マルクス政治学原論

マルクス政治学原論

 僕がこの書籍を手にした理由は、第1に、マルクスの言った最も神秘的な予言、国家の消滅(止揚)に、第2に、国家の定義は共産主義革命戦略に直結するからに他ならない。
 第1については、小熊英二『1968』の読者なら詳しいと思うが、「反帝国主義・反スターリニズム」を唱えた新左翼諸党派が、最初は一国革命を目指すが、スターリニズムといった社会帝国主義の政治を否定する過程で、問題は一国社会主義にあるのだから、我々は世界革命を目指さなければならないと原理的に考え、結果、「世界同時革命勝利」といった、それこそ実現がはるかに難しいスローガンに落ち着くという、泣ける悲劇を想起すればいい。このように共産主義革命後の国家像を知ること、そのために現在の資本主義国の国家を知る本質的な重要さが想起される。
 第2については、革命戦略として現在3つのルートが考えられる。レーニン的前衛党による武力革命路線、グラムシ構造改革(議会で多数派をとって革命を成し遂げる)路線、そして、ネグリ=ハートが『帝国』の中で展開したマルティチュードによる革命である。そして、そのそれぞれがそれぞれの現代国家論に基づく革命戦略を展開しているため、その対象となる国家の真の姿の究明が待たれるのである。
 では、この本はそうした僕のような読者の欲求に答えるものであったのか? 残念ながら否である。であるから、むしろこの本は、柴田高好氏の問題関心の角度から見た様々な国家論とマルクス(主義)国家論のレビューとして価値を有すると評価すべきだと思う。
 柴田氏の同問題に対する視点とは、初期マルクスの関心にあった、経済学批判(その代表は『資本論』として結実する)と対を成す政治学批判の自身の手による完成である。本書のタイトルが『マルクス主義政治学原論』ではなく、『マルクス政治学原論』となっているのも、マルクス、それも初期マルクスのオリジナルの意図の復活を目指していることが理由であるという。
 そして、そうした意図を実現するために、初期マルクスヘーゲル国家論との関連を重視し、ヘーゲル的な弁証法関係としての市民社会と国家の関係、そして国家の止揚を模索するという構成になっている。
 しかし柴田氏は、この結論部分を明確に論じてはいない。他者の国家理論を分析するに際して、こうした考え方を使って、市民社会バイアス・アプローチと国家論バイアス・アプローチの2面から、それら各理論を検討している。検討対象は上に書いたように、著名な政治思想・理論家、マルクス主義理論家・運動家の諸説である。
 しかし、先に書いたように肝心の氏の意見は見えずらい。
 まず、氏の意見を説得的に論じるためには、なぜヘーゲル弁証法が正しいといえるのかの論証が不可欠である。それを論証しなければ、後期マルクスが「経済学批判を通して政治学批判は貫徹できる」としたことに対する氏の批判は成立しないからだ。
 また、氏の「市民社会」概念の取り扱いに関しても疑義がある。この言葉は、広く一般的な定義による経済関係を含む社会的関係、当然、地縁血縁も含む一般社会的な意味。次に、マルクスの考える、まず資本主義社会であり、当然その中に階級間の矛盾による階級闘争を含む社会として説明できる。この両側面が混同されて使用されており、なおかつ、ブルジョア的生産関係のみを意味するとも解釈されている場面もある。そのため国家と市民社会の関係として諸国家理論を論ずる際に、著しい混乱をもたらしているように思える。
 また、氏は結論部分でベトナム戦争における米国の兵役拒否運動を、国家を止揚する典型として持ち出しているのだが、現在の志願兵制による米国のアフガン戦争は、こうした意味では国家論にかかわらないのであろうか? むしろ、貧しい市民を金で釣って戦場に向かわせるといった意味で、典型的な資本主義的戦争と考えるべきではないかと思う。
 氏は国家による強制こそ国家論の本質と捉えているから、このような考察になるのかもしれない。だとしたら、旧東欧における市民的不服従も、柴田氏的国家廃絶の運動ということになる。
 氏のこうした論点は、極めてユニークで、これまでマルクス主義政治学が持ちえなかった国家という力に対する明確な闘争を指定することを可能とする。その点は評価できる。
 原発再稼動に対する運動も、オスプレイ配備に反対する運動も、反米軍基地や反TPPの運動、消費税増税反対の運動も、その基軸が国家の政策(国家権力)に関わるという意味では、国家の止揚に関する運動といえるのかもしれない。
 しかし、同時にこれらの運動は、(消費増税は性格が少し違うが)日本を「貢進国」(米、ラムズフェルドの言)と捉えるアメリカ政府によって引き起こされたがゆえに、日本人自身のアメリからの植民地独立運動と捉えることもできる点が重要である。この場合、国家の廃絶は問題とならない。なぜなら現存する国家をそのまま認めて、その独立性のみが問題となるからだ。
 つまり視点を変えれば、上記のすべての運動に関して、そこで問題となっているのは国家自体の本質である権力性(力による、対象の生死をも問わない服従への強制)ではなく、むしろブルジョア民主主義という虚構の枠内での、民主的統制の問題なのではないかと僕は考える。
 そう考えれば、有権者の大半が反対しているにもかかわらず、なぜそうした政策が強行されるのかといった、政策を権利付けるべき正統性の問題、つまり主権在民の問題となる。であるのなら、それは国家止揚の運動とは呼べないだろう。
 僕が支持するのは、資本主義体制下の市民社会とは、すべての権利が、まず初めに、資本主義的生産関係の理論に基づいた法的関係によって成立した社会であるということだ。平等な参政権基本的人権といった諸権利は、資本主義的生産に関して必要だったから成立した。そして、もっと言えば、現代的合理主義といった理論枠組みすら、それが資本主義的生産、価値増殖に利するがゆえに一般的になったと言えるのだと思う。
 だからこそ、マルクスは、経済的関係である下部構造がすべての出発点であり、国家や法・文化といった上部構造はその反映に過ぎないと言った。もちろん上部構造には多少の自律性があり、それゆえ下部構造への反作用があるとしても、下部構造の出発点であり支配的力としての重要性は揺るがないと主張したのだった。
 しかし、同時にこうした構造を抱える市民社会は、資本主義がベースであっても、同時に資本主義的生産関係を揺るがすところの労働者階級を生み出す。そして、彼らへの対処がなければ資本主義そのものが成立しえない状況に陥る。それが、さまざまな労働立法・社会政策として法的関係として組み込まれる。これが現在の市民社会である。
 マックス・ウエーバーが主著『経済と社会』で論じたとおり、市場には「最初にした約束を守る」というたった1つの倫理しかなく、それゆえ無倫理といえるのに対して、地域社会にはさまざまな掟があり、それが倫理として作用する。資本主義的編成に投入された地域社会は、市場という経済社会にこうした様々な地域社会に共通する倫理を持ち込み、経済法制など様々な倫理的価値を資本主義制度に導入することになり、修正資本主義が誕生した。これは、かつての東側陣営に対抗するための政策であったことも大きな要素で、冷戦の終結以降、新自由主義といった、よりむき出しの市場の論理が政策として打ち出されてきたのは、支配的なイデオロギーが国家権力として表示され、それはいまだ資本家のイデオロギーである以上、当然の結果となる。
 経済的関係が歴史の推進力となるという発想は、カール・マンハイムイデオロギーユートピア』でも、知識社会学理論として検証されている。有権者はその生活の必要上、さまざまな職業団体に属す。そして、その職業団体の利害が、それぞれの有権者における意識を支配し、イデオロギーを形成するというのが、マンハイムが戦前のドイツ社会を分析した結論である。付け加えれば、それぞれのイデオロギーをもつ集団は、実現可能な社会としてのユートピアを打ち立てるべく行動するというのが、同書名の意味だ。
 自由主義イデオロギー、民主主義的・平等主義的イデオロギー、現在社会的に重要なポジションについていおらず、自分たちこそ現政府に代わりうる能力があると考えるゴロツキ・無職の者たちのイデオロギーファシズムイデオロギーであり、労働者で、悪いのは金持ちと経営陣と考えるのが共産主義イデオロギーである。ファシズムの暴力性は、その生い立ちによって説明できるのだ。
 マンハイムは同書において、知的職業につく中間層のインテリゲンツィアこそ、こうした職域における利害関係に左右されず理性的な判断が可能となると考え、自由浮動的インテリゲンツィアによる政治を理想としたのだが、彼らが本当に労働環境の影響力から自由かは、別の場所で考えなければならないだろう。
 ともかく、経済のスターリン的単純模写説は広松渉が戒めたものだが、同時に、すべてが人の自由意思によって決まるという人間主義マルクス主義も、広松同様、僕の取るところではない。
 広松も言うように、人は社会によって規定されながらも、ある程度の可能性の範囲として、自らの環境を新しく作っていく投企的存在でもあるからである。現象学哲学の用語で言えば「世界内存在としての我」である。自己の中にある他者イメージは、交流を保てば日々裏切られ、その都度修正される。自己同一性を保ちながら、外的矛盾によって変わり続ける姿が世界内存在としての自己にはある。これが「世界内存在としての我」の理論である。投企被投企的人間像とも呼ばれる。そして、これこそが、本来弁証法的関係と呼べるものだと、広松同様、僕は理解している。
 ともかく、こうした理由から、柴田氏のヘーゲル弁証法理解は観念論に過ぎ、そして、本来必要である説明がまったくされていない点で、自分は支持ができない。それなら、むしろ階級闘争の第1次性を主張し、すべての学はそれに奉仕すべきであるとしたアルチュセールの思想(今村仁司著・講談社学術新書『アルチュセールの思想』参照)の方が、僕にとっては、むしろ優位であると考える。
 現在の市民社会に関しては、もちろん資本主義的生産関係の社会である。しかし、上に述べたように、それは資本主義が自らの矛盾を解消すべく労働者と妥協しながら、それでも資本主義的生産関係を維持している状態と理解している。それゆえ、市民社会には、階級闘争の過程が歴史として色濃く刻印されている。その反映・物象化・物神崇拝としての国家という広松の理解を僕は支持する。
 カール・シュミットにおける危機における国家の暴力性とそれに対する支持は、丸山が強敵と評したように、強力な学説だ。しかし、階級闘争の理論から言えば、そうした危機をもたらすこと自体が階級闘争を担う労働者にとって不利益なのだから、危機を回避し、国家をより強権的なものから労働者に優しいものに作り変えること自体が、労働者にとっての階級闘争の目的となる。まさにプロレタリア・インターナショナリズムの理念がこれである。
 柴田氏が古典的に過ぎると否定した広松理論によって説明される社会的力としての国家権力はこうして市民社会から生み出される物象化的錯視、物神崇拝であると、僕には考えられる。それは、我々が日常において1万円紙幣を破り捨てることがどうしてもできないといった、現実にある感情と同様のものだ。これを否定するには、論理と理性によって、現代社会の構造を捉え返すという作業が不可欠となる。高額貨幣の背後には、それによる購買力という価値が存在し、国家の背後にはその力によって暴力的な国内外の敵から自分自身を守るという強力な動機があるのだから、その寄って立つもの自体を再検討し、貨幣がなぜ生み出されるのかを考え、その出自の正当さと有効な利用を考えること。そして、内外の暴力はなぜ生まれるのかを考え、その根源をたつ方法に思考をいたすことが不可欠となる。そして、そうした思考の後には、現象としての高額紙幣も国家も、別の姿を現すだろう。
 だから、サンデルの哲学をその土台として支える弁証法的議論(つまり、教室やTVでの議論)の本質とは、そうした思った以上に射程の長い重要な戦略だったと考えられる。ユルゲン・ハーバマスにおける対話概念も同様だろう。
 さて、こうして柴田氏の議論によって結論を得られなかった自分は、最後に唖然としたのだが、いくつか収穫といえるものがあった。
 つまり、様々な政治運動の階級闘争的側面がそれである。アメリカからの日本の独立も、そもそも植民地主義自体、帝国主義がもたらしたものであり、帝国主義帝国主義本国における独占資本による、自らを優位に置くための他国に対する政治的支配であるのなら、日本の自主独立を求める戦いは階級闘争と呼ぶことができる。
 そして、自主独立のみでは、逆に国家権力を強化する方向にも働くのだが(つまり植民地解放闘争は暴力的なもので、仮に平和裏に行われるとしても、機密情報の米国への駄々漏れをまず防ぎ、国家機密の独占を企画し、同時に、官僚を国際協調派から民族派へ挿げ替える必要などがある(この点、ドラマ化された城山のセミ・ドキュメント小説『官僚たちの夏』は示唆に富む)。
 しかし、その戦いの本来の目的は、植民地宗主国自体の打倒といったものではなく、帝国主義本国において虐げられている労働者階級の救済でなければならない。だから、ベトコンの戦いは米兵の打倒であるのと同時に、兵役拒否者に対する支持でもあった。それは戦略的に倫理的にも正しい戦いだったと言える。
 ヤルタポツダム体制打破といった右翼のスローガンが、それを軍事・暴力的に志向するのではなく、アメリカやその他の国の労働者との連帯として実現されるものであるなら、自分も支持することができると思う。それは、反帝国主義・反スターリニズムの戦いでもあるからだ。こうした意味で、植民地状態を脱するということは、同時に国内での労働者主権を強化することでなければならない。その内容は、スターリニズム的官僚支配に対する戦いを意味する。
 ここで現状においては、国家権力に対する政党の役割を評価し、その指導力を知的道徳的なものと形容し、前衛等の知的道徳的「潔癖さ」を志向した旧イタリア共産党構造改革路線を支持する。そして、内乱状態においては、レーニン的な武装せる前衛党を支持する。内乱においては、平和こそその目的だし、内乱を生み出した根源である格差や貧困、外国の支配を排除する必要があるからだ。この2つは党が国家に代わって持つことのできる権力性といった、本書で触れられた(柴田氏によって明確に支持はされなかったように思うが)考え方を踏まえてである。
 ネグリ=ハート的資本主義世界理解による革命戦略であるマルティチュード戦略は、その階級闘争性を指摘すれば十分なように思える。我々が目指すものは、リアル・バーチャルを問わないマルティチュードに利する社会だし、それは、柴田氏が本書で指摘する初期マルクスの言による「市民社会の下位に置かれる国家」でもある。この市民社会は革命後のものだろう。
 ここで論点として残るのは、共産主義革命とは一体何であるかという難問である。崩壊した既存社会主義国のそれなのかといえば、反スターリニズムの考え方からそうは思わない。では、欧州福祉国家における社会民主党政権がそれであるのか。もしくは、それでも、資本主義の残滓が残るから共産主義社会とは呼べないと考えるのかという問題である。
 でも、この問題は意外と簡単に解ける。なぜなら、マルクス階級闘争に訴えなければ生きていけない労働者の状況を悲劇として捉え、それを促進するのが資本主義社会であるから、階級矛盾は拡大し、革命は必然となると考えた。つまり、階級闘争が不要となる社会こそが、マルクスの理想とした社会と考えていいのだ。資本主義が必然的に生み出す失業者が、それでも尊厳と将来への希望を持って暮らせる社会、先進国以外の国でも健康で文化的な生活がすべての国民に保障される社会、これらが実現したとき、もう共産主義革命について議論する必要は無くなると考えていい。国家の消滅(柴田氏の言に沿えば、その暴力性の完全な消滅、つまり国家の止揚)は、そのとき訪れると考えられる。
 なんか福祉国家礼賛みたいな内容となってしまったが、柴田氏の好著によってインスパイアされた僕の感想は、現段階ではこういったものである。

9条改憲派を許せない理由

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 週末に大学時代のゼミの同窓会があって、箱根に行ってきました。おおむね楽しく過ごせたのですが、一点だけ非常に気になる出来事がありました。
 ある関西在住の先輩が「橋下大阪市長の評判は、大阪以外ではどうですか?」と遠慮気味に聞いてきた件です。「僕は評価しない。何故なら彼の人権感覚のなさは(政治家として)致命的だから」と応えました。
 しかし、その人は橋下支持で、そのあと教育問題に話題が変わったので、その晩はそこまでしか話せませんでした。
 翌朝、朝食の一対一の席で、「橋下の最大の問題は9条改憲と集団的安全保障論にあるのではないか?」と僕が質問すると、彼は「自分は9条改憲集団的自衛権も賛成である」との答えを得ました。「それでは、アメリカみたいに、国益のために世界中で戦争することも肯定するのですか?」と聞き返すと、「そうだ」との答えでした。
 僕は、このブログで何度も書いていますが、こうした考えを一番軽蔑します。
 なぜなら、自分が若いころは9条の平和主義に守られてヌクヌクと過ごしながら、年寄りになって自分が絶対に戦場に出ないことを確信したとたん、こうした意見を平気で言う神経が、全く信じられないからです。これは人間として非常に卑怯なあり方です。「自衛隊員は給料もらってるんだから、国益のために死んでこい」とでも言うのでしょうか? そして、方や自分はその背後で、これまで通りヌクヌクと生きていこうとでも言うのでしょうか? だとしたら、それは、全く信じられないくらい卑怯な立場であり、人間として最大限に軽蔑に値するものです。
 もし、百歩譲ってそれを言うなら、必ず「自分はこうした意見を持っている以上、一旦事あった時は、前線で真っ先に戦う」と宣言すべきなのです。それにしたって、外交問題を個人の思惑で起こされては、迷惑千万ではあるのですが。
 これまで日本に住む住民は「武力によって外交問題を解決しない」とする9条の平和主義のもと、その他のあらゆる手段を使って平和的に外交問題を処理してきた。処理しきれない問題は、その平和主義ゆえに、あえて甘受してきた。なぜなら、どんな結末が待ち受けていようとも、戦場で無垢な若者、自衛隊員を含めた無垢な若者を死なせるわけにはいかないという、終戦直後からの決意があったからです。
 僕の意見を言うと、僕は自衛隊員を含めた若者を死なせたくない。それは自分もそういった境遇に置かれたくないからというのが理由です。
 低所得層の若者を高額の費用がかかる大学に行かせる代わりに戦場に送り込むアメリカの軍隊制度に関しても、それは社会的平等をもたらすものではなく、命を金で買うことにほかならないと考えます。むしろ、目指すべきは、社会的出発点の平等を、戦場に行く行かないにかかわらず保障する政策の方向性だと思うわけです。
 こうした現実を、高々机上の空論によって、アメリカ的な国を目指すとしたら、その論者の無能さ、無責任さに虫唾が走ります。
 そして、これこそカール・マンハイムが『イデオロギーユートピア』の中で指摘した、第二次世界大戦直前のドイツにおけるファシストという名の社会集団のイデオロギーと(現実の社会で実現可能な、という意味で、彼らの志向する)ユートピアに他ならない気がします。
 日本においても第二次世界大戦の記憶が薄れるにつれ、戦場の現実に対するイマジネーションが欠如した人々が生まれるのは仕方ないことです。しかし、だからこそ僕らは常に過去と向き合わなければならないのだと思います。
 また、僕も、談合によって日本経済を破壊する消費税大増税や日本の国土を灰燼に帰す原発再稼働を実現してしまった自民・公明・民主の悪の連合に対して、第三極による打破を目指す点で、多分、件の先輩と意見の一致を見るかもしれません。
 しかし、そうした状況においても、第三極の主軸となるのは「国民の生活が一番」という党名で、自らの右翼性を封印した(つまり政策の優先順位の一番を「生活」にもってきた)小沢グループであるべきだと考えます。
 理由はここに書いたとおりで、日本の現状を打開するのは、新自由主義でもなければ、日本をアメリカ化する、そしてアメリカの走狗とする9条改憲・集団安保派でもなく、社会民主主義的な、低収入でもまともに暮らせる社会の実現であり、少なくともスタート地点での平等や結末における尊厳と文化的価値を享受できる社会をもたらすことができる政策です。
 自民党経世会には、かつてそうした発想があった。そこは、小泉や安倍が所属した、経済の利権を奪われたがゆえに、日本再軍備にしか政策のユニークさを打ち出せなかった福田派とは大きく違う点です。小沢はこうした経世会の出身者です。
 ともかく僕は、自分が死なないことを前提に、9条改憲や集団安保を志向する頭の腐った連中は否定するし、もし彼らの口車に有権者が載せられたとしたら、最初に首を絞められるのがその有権者自身であることを、ここに明記したいと思います。
 こうしたことが現実味を帯びているところが、現在の日本の政治状況の恐いところだと思うからです。

小沢無罪判決の意味

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 2012年4月26日、小沢裁判第一審に無罪判決がでた。このブログでは一貫してこの裁判の謀略性について記述してきたが、この判決によって日本の政治が大きく動く可能性について言及したい。
 そのためには、一見遠回り見えるが、昨年10月に出た週刊朝日緊急増刊『朝日ジャーナル−政治の未来図』を取り上げ、そのなかから新藤榮一氏の論文を紹介したい。

週刊朝日増刊 朝日ジャーナル 政治の未来図

週刊朝日増刊 朝日ジャーナル 政治の未来図

 この増刊号は、日本の政治学者を総動員したもので、一冊で現在の日本政治学の現状分析能力を測ることができるという、非常に興味深いものだった。
 様々な問題が語られた。御厨貴東大教授による「現在の政党とマスコミの関係は、戦前の政党と軍部の関係と同じであり、前者が後者に依存するうちに、政党政治の根幹を消滅させ、いずれ戦前のような全体主義体制を招くであろう」という予言。日本国憲法における参院の規定によって、1回の選挙による勝利(衆院選の勝利)だけでは政権の安定が実現できない矛盾とその解決方法など、いろいろな興味深い論点にみちていた。
 しかしその中で、最もシャープに現在の日本政治が抱える問題を突いたのが、新藤榮一筑波大学名誉教授による「グローバル化地方自治−21世紀型地方主権への道」論文であった。
 また、この論文が、中央政界のみに関する論文でなく「中央と地方」の章に分類されている点も興味深い。これまでの日本の政治学文献と同様、政治を中央政界のみで論じる不毛さを踏まえた、トータルな日本政治の分析となっているからである。
 政治とは単なる法制度上の問題ではなく、その法制度のうえで働く中央政府、地方政府の人的力量にかかった問題だからだ。その意味で、日本政府、海外政府の力量の問題も避けられない。また、こうした各政府内部の官僚+政治家の力と同様に、変革期における被支配者である民衆の力も現実の政治力学を正確にとらえるうえで欠かすことはできない。
 変革期にある世界のなかで、様々なアクター、それらの演じる力は均一ではなく、力の大小があり、それゆえ世界のトレンドが形成される。政治的世界の人々の動きとは、このトレンドに大きく影響されながら、政治史の前面に出たり背景に退いたりする。しかし、前面、背景の違いはあっても、その影響力は必ずしも前面であるからといって強いとは言い切れない。
 このあたりの目配りが政治分析の興味深い点だし、その分析力が問われる部分だ。

進藤榮一氏の分析

 進藤氏は、まずグローバル化の意味を分析し、先進国と途上国の格差の拡大、各国内での格差の拡大を指摘する。
 同時に、そうした「グローバル化の長くて黒い影(106頁)」の合間を縫って進行する「フラット化する世界」について記述する。つまり、危機の時代こそ、そうした経済矛盾に対する民衆側の行動が先鋭化することを「フラット化する世界」という項目で論述するのである。ここには情報伝達テクノロジーの発達も含まれる。
 以下、氏の論文を、直接引用しよう。

 そうした時代の波(フラット化する世界:引用者注)は、早くも80年代以降、韓国や台湾に経済発展と政治的民主化を育み、ソ速・東欧革命の波をつくって冷戦を終結させ、中国の急速な経済成長をつくり、東南アジアからラテンアメリカに達してBRICSを台頭させ、いま中東ジャスミン革命を生んでいる。
 グローバル化が、市民社会を成熟させ、格差を伴いながらもグローバルな発展を促していく構造だ。
 かくて米ソ超大国の時代が終わり、米欧日三極体制からG7を経てG20に至る「21世紀世界」が登場した。
 いったいこの光と影を私たちは、どう捉えるべきか。そしてそれは、地方と地方自治にとってどんな意味を持ち、そこからどんな未来展望を描くことができるのか。
 グローバル化がつくる矛盾し合う動きは、経済学者カール・ポランニーにならって、時代転換期の二重運動(ダブル・ムーブメント)と捉えられる。新しい時代はつねに、現存秩序を維持強化する動きと、それを突き崩して新しい秩序に組み替える動きとの、せめぎ合う二重運動として展開する。
 19世紀末から20世紀初頭にそうであったように、21世紀初頭のいま、その二つの異質な運動が交錯しながら展開している。(106-107頁)

 こうした現状分析のもと、進藤氏は日本の分析に入る。その分析のうえで最も重要な「アメリカ帝国の影」に論を進める。引用が長くなるが、この増刊号で、最も現状分析の冴えた部分なので、お読みいただきたい。

 前者、グローバル化の影は、20世紀秩序の担い手としての覇権国家アメリカ−その力と利益とイデオロギー−によってつくられ、維持強化される世界秩序である。ありていにいえば、アメリカ帝国の影だ。
 その世界秩序は、プロダクション・ゲームを軸に展開されてきた。それは、20世紀初頭、フォード、テーラーが開発したベルトコンベヤー生産様式に端緒を見る大量生産システムに始まり、覇権国家が主導する国家間競争ゲームとして展開される。ゲームは、基軸通貨ドルと核軍事力に支えられ、新自由主義政策下で、国境を超えて格差を拡大させながら、帝国の利益の最大化をはかつていく。
 グローバル化の波の中で日本は、帝国に貢ぎ物をする「進貢国」とブレジンスキー米大統領補佐官によって規定された。その規定に沿うかのように日本は、世界最大の軍事基地を貢納金(思いやり予算)付きで提供し、アメリカの「対日構造改革」指南書に従って、ドル安=円高政策に翻弄され、巨額の米国債を買い続けながら、国内企業の海外移転を進め、国内産業空洞化と地方経済衰退化に拍車をかけてきたのである。
 その日本の現実は、バブル崩壊に先立つ90年代、日本の市場開放を求める米国の圧力下で、大店法大規模小売店舗法)が改定された現実と重なる。それによって、床面積1千平方メートルを超える大ショッピング・モールが郊外地に出現し、中心市街地はシャッター街と化していった。
 福島をはじめ東北各地で生産され首都圏で消費される潤沢な原子力エネルギーが、20世紀日本の、プロダクション・ゲーム勝ち残りの条件として位置づけられていた。そのとき私たちは、佐藤栄佐久福島県知事(当時)が、国策に抗して原発設置に反対し、検察に起訴され有罪判決を受ける不条理な現実を知ることができる。
 そしてその延長線上に私たちは、民主党政権誕生後、小沢一郎幹事長(当時)が、配下の議員140人余を率いて北京とソウルを訪問し、新しいアジア重視外交の展開を誇示した数カ月後に検察から起訴され、事実上の政治活動を封印された、日米関係の闇を垣間見ることができる。
 それと同じ文脈の中で私たちは、鳩山由紀夫元首相が、普天間基地の県外、もしくは国外移転をめぐってワシントンや外務省主流派と対立し、政権の座から降りざるをえなくなった、日本の悲劇に想いを馳せることができる。だからこそ米国は、それと相前後し、安価な自国農産品と精強な兵器群と先端サービス分野を最大輸出品目とした「5年で輸出倍増計画」の一環としてTPP(環太平洋経済連携協定)推進を打ち出し、日本の参入を求め始めた。
 世界的経済学者、宇沢弘文氏や伊東光晴氏らが指摘するように、それは日本農業を壊滅させ、地方と農村を衰退させるだけでしかないだろう。疑いもなく、「黄昏の帝国」アメリカが進めるそうしたグローバル化の一連の動きは、地方の衰退を促し、地方自治の事実上の形骸化を進めていくことになるだろう。福島であれ沖縄であれ、地方が中央に蹂躙され、自国政府が地方を、帝国の利益に供する構造だ。(107頁)

 以前僕が「日本はアメリカの植民地であり、福島・沖縄は東京=中央政府の植民地である」と書いたのは、説明不足のため一見新左翼的お題目に見えたかもしれないが、こうした進藤論文的意味においてである。
 「外交とは武器を使わない戦争」というのは、文字どおりの意味である。戦場において良い上官の下につけば、それだけ生き残る可能性が高くなる。それは現実政治も同じだ。あるいは、ビジネス世界における職場でも同様だろう。

小沢判決の意味

 今回の小沢判決とは、こうした流れのなかでの判決である点が、極めて重要だ。だからこそ、戦前のロシア皇太子傷害事件における大津判決と同じく、日本の司法の、政治からの独立が問われる歴史的判決であった、と僕はとらえていいと思う。その意味では、小沢秘書に関する判決とは好対照をなす。
 小沢陸山会事件の経緯とは、民主党をつぶしたい自公政権が、アメリカ政府や中央官僚の意を体現して行った謀略裁判だった。それが、アメリカに対抗して自主的な日本政治を作ろうとした小沢氏の政治力をそぐために、自公政権に続く仙谷一派による小沢追い落としクーデターに利用されたと見るべきだと僕は考える。
 なぜなら、これまで国内政治において修正申告だけで済まされてきた帳簿上の問題を、あたかも大政治疑獄であるかのように報道し、いまだに小沢流=旧自民党的体質として非難することができるかのように報道する新聞社の姿勢(とくに朝日新聞)は、仙谷の民主党内の政治的クーデターに加担し、旧来の記者クラブ体制という情報の独占の既得権益維持を目的とした報道と官僚との癒着体質を語って余りある状態だったからだ。
 それは、鳩山内閣の対等な日米関係に対して、そんなことをしたら日本はとんでもないことになるという自公と外務省に同調したマスコミの報道姿勢とも密接に関連する。
 アメリカ政府に対して自主的な外交を模索しただけで、この反応である。これは、旧自由党自民党時代の吉田・鳩山内閣から橋本内閣の時代から比べても、大幅な政治的後退である。だから、この裁判は単なる司法手続きにあらず、戦後一貫した日本政治の懸案である日本独立の問題であると僕は考えたのである。
 そして、そうした手続きを経ずして、日本のアメリカからのこうした意味での独立、外交政策におけるフリーハンド、しいては国内における沖縄・福島、そしてすべての原発立地地域への中央・地方という植民地関係の解消は、ありえないと僕は考えるのである。

進藤氏の処方箋

 進藤氏は、「ポスト・グローバル化ヘ」という項目を立て、こうした中央の政治状況に対する処方箋を提示する。
 中央政治におけるこうした混迷を打開するには、地方政府における自主的な、しかも行政単位を越えた模索、なおかつ国境さえ超えた連携が重要になるという指摘である。そして、そうした動きはすでに出ていることを進藤氏は記述する。
 知事や首長が誕生する度に中央政府に請願しに上京する姿勢を、これまで我々はたびたび見てきた。しかし、本当に大切なのは各自治体における自主的努力であり、各自治体同士の連携である。
 それは、僕らが様々な場面で、とくに現在の、東日本大震災の復旧・原発再稼働に対する反対の報道で見ているものだ。そして、それだけでなく、地方の経済的独立のためのさまざまな動きとして、進藤氏は実例を記述している。
 中央官僚によって、そしてアメリカの意を受けた中央省庁によって蹂躙されてきた地方政府と日本民衆の力は、地方政府の改革の意欲を持つ政治家と官僚の力と連帯することによって逆転することができる。それこそが「日本の政治の未来」に対する希望である、と進藤氏は考えているように思える。

結語

 そしてまた、そうした状況を可能にし、より促進するためにも、地方のこうした動きを促進するために、指導力のある政治家の登場が望まれる。それは、野田総理大臣とは、全く逆の政治姿勢だろう。
 2009年の衆院選挙で我々が期待したのも、こうした方向性を持つ民主党マニュフェストだった。マニュフェストへの回帰を主張する小沢氏の復権民主党代表への返り咲きを切望してやまない所以である。