田中宏和『丸山真男の思想がわかる本』(2007・秀和システム)

ポケット解説 丸山真男の思想がわかる本

ポケット解説 丸山真男の思想がわかる本

 最近よく読んでいるブログ『世に倦む日日』の作者のお勧め本である『ポケット解説 丸山真男の思想がわかる本−「日本の思想」から「古層」までわかる!』(2007・秀和システム)を読みました。
 丸山真男の本は、どれを読んでもはずれがない、黒澤映画みたいなものなのですが、こうしたポケット解説は、丸山の未読本がある僕にとって役立ちそうだというのが、最初の読書理由でした。こうした目的であれば、購入して手元に置くのが本来の常套なのですが、いま手元不如意で、豊島区立駒込図書館で昨日借りました。読み始めたら面白くて、その日のうちに読み終わったものです。
 この本は『市民のための丸山真男ホームページ』を1996年に立ち上げた著者が、その10年後に、ホームページ掲載内容などを採録して出版したものです。このホームページはいまでもウエブ上あるのですが、休止中のようで、著者の現在の活動はブログ『世に倦む日日』に移っているようです。
 内容は、

 はじめに
 第1章 丸山真男をどう読むべきか
 第2章 丸山真男の政治史方法論
 第3章 古層論への序章
 第4章 丸山真男における「国民主義」の問題について
 第5章 政治学と政治思想史
 第6章 講演・隅谷三喜男丸山真男の世界』
 付録  ファシズムの中の「反日」/「憲法九条をめぐる若干の考察」
 資料  丸山真男・戦後史年表/丸山真男主要書誌ガイド
 事項索引・人名索引

で、コラムとして、

 「日本の思想」/現代政治の思想と行動/丸山真男と戦後日本/「文明論の概略」を読む/「忠誠と反逆」/大塚久雄/南原茂/丸山真男著作・単行本一覧

がまとめられています。
 この本の最大の特長は「古層論」の解説にあると思います。「まず第一に、この理論が丸山真男という哲学者によって我々日本人と日本の社会科学に与えられた普遍的な原理論、グランドセオリーであるということである。マルクス史的唯物論に匹敵する荘厳にして強力な、誰もそれを無視して何かを思考したり前へ進むことのできない根本的な原理論であり方法であるということである。」(3章・70頁)
 そこで著者は、「古層=執拗低音」ととらえ、その古層を三層構造としてとらえます。第一の層は、「古事記的思惟であり、国学的思惟であり、狂信的超国家主義思想」(90頁)=「神道思想」(91頁)。この層を空気のように取り巻く第二の層は、「日本人の思考パターン」=「無責任の思想」。そして、その周りにより薄い空気として取り巻くのが、日本だけでない世界全体の第三の層、「原理的なものからの逃避、理念的なるものの自己崩壊、精神的緊張関係の喪失、流動する現実への自己同一化、漂流する状況に対する無限肯定、世俗的価値観への盲目的追従」であると、著者は主張します。
 そして、この反省に基づかない限り、現代を批判することはできないと、著者は主張します。こうしたことに対する無反省を体現したのが、かつて流行った「ポストモダン哲学」であった。
 こうした内容がポストモダン思想だとしたら、それはもう哲学じゃないんですが、著者はそうとらえています。ただ、多くのポストモダン論者は軽重浮薄なところがあるから、その言は僕もうなづけるところがあります。たとえば、ポストモダン論者は「大きな物語の終焉」を語るけれど、その背後には、いまだ一番大きな物語である「物象化された資本の自己肥大欲求」があることを無視している点などが、僕の感じるポストモダンの矛盾点です。ネグリ=ハート『帝国』などは、その辺も含めて書かれてはいるのですが。
 第2章も、刺激的内容でした。著者は、丸山の政治史方法論を<前期><中期><後期>と分け、前期の特徴をカール・マンハイム流の「視座構築」、中期をいま述べた執拗低音、そして、後期を「OrthodoxyとLegitimacy」の方法と説明します。
 一番面白いのは、後期の2系統の「正統」概念なのですが、『研究社 新英和中辞典』(ネット版)によると、

Orthodoxy
1 正統派的信仰[学説].
2 正統派的慣行; 通説に従うこと.

Legitimacy
1a 合法性,適法.
b 嫡出(ちやくしゆつ), 正統,正系.
2 道理にかなっていること,妥当性.
[LEGITIMATE の名詞形]

というように区別されるものです。
 著者は、このようにまとめます。「よく考えてみれば、外来の普遍思想なるものは……、必ず政権の獲得を目指す政治集団の発生を伴って、イデオロギーとして日本の歴史の中に登場するものである。すなわち思想と政治、教義原理と統治支配、この二つの同時的かつ効果的に解析するべく新規に開発された思想史の分析装置が、このOrthodoxyとLegitimacyの方法に他ならない」(57、58頁)。著者はこの方法で丸山の『闇斎学派』論文を説明します。
 僕が思うに、この闇斎学派こそ、運動としての民主主義といった、政治問題へのかかわりを意識した時、避けて通れない問題、「伝統としての所与の正統性」と「その批判によって生まれた合理的正当性」との違いを考える素材となったもののように思えます。それゆえ、丸山はその論及を避けることができなかった。
 もっとも、僕はこの論文を読んでいないので、あくまで著者である田中さんの議論を借りて、想像するだけです。ただ、著者の指摘するように、これまで個人しか扱ってこなかった丸山が初めて思想集団を扱ったということの大きな意味も、同時に、現代的に重要であるといえると思います。
 第4章については、僕も思い出があって、すっかりマスコミから姿を消していた丸山真男さんが、ある日突然、亡くなった時、『読書新聞』に姜尚中が書いた追悼文を読んだ時のことです。それ以前に、大澤真幸の本で丸山批判を読んでいて、「どうも納得いかないなあ」なんて思っていたのですが、姜の批評はそのまま「当たってる」と思いました。つまり、姜は「丸山は日本の民主化を急ぎ過ぎたあまり、韓国をはじめとする周辺国を無視した」という内容でした。
 それは言われてみれば、その通りです。でもこの点に関しては、「丸山は日本の民主化に焦点を当てることによって、その対外的政治行動を矯正しようとした」つまり間接的に外国のことも考えたように僕には思えました。これは不可分のものですから。
 ポストモダン派による丸山批判を一笑に付す著者、田中さんも、こうした批判に対しては1章を割き、第4章で論じています。著者の眼目は、「丸山における国民主義」に対する批判は的を得ているか?です。これは丸山をして「近代主義者」として批判する立場とも重なります。
 著者は、世界の他国、その中の少数民族の現実を見れば、丸山の提起した「国民国家」という視座は、軽々しい流行としての「コスモポリタニズム」等で片づけられない、非常に深い問題であると説明します。そして、僕もそれに同感です。
 近代批判に関して、僕の感想も付言すると、僕は、かつてネットの友人に「日本に市民社会なんてあるの?」と言われた言葉が、今でも胸に刺さっています。市民社会とは、その概念の歴史をたどれば「有産階級=ブルジョアジー」による社会です。しかし、日本のように、政治と実業界がニカワのように張り付き、実業家ではなく政商しか存在しない社会において、市民社会は存在しうるのかという問いに、僕には、この友人の問いが聞こえたからです。対立関係になければ、市民社会というオリジナリティを確立することはできないですから。
 そこで、公害企業対被害者住民といったものの中に、日本的市民像を見出そうとするのですが、こうした危機的状況を脱すれば、そうした個別問題における市民は、企業従業員というかたちで政商の側に取り込まれてしまうようにも思えます。そうすると本当に、日本には市民社会なんてない。あるのは村だけといった状況になる気もします。
 でも、だからこそ、丸山を通した自らのとらえ返し(反省)が必要なのだと思います。 著者は第1章で、ポストモダン思想と対比する形で、丸山の意義を説いています。ここで引用されるキャンパスの状況は、僕もほぼ著者と同じ年齢なので、よくわかりました。
 僕は、丸山といえば『増補版 現代政治の思想と行動』『日本の思想』『後衛の位置から』『戦中と戦後の間』『日本政治思想史研究』を読んだのですが、この本を読んで、『忠誠と反逆』を読みたくなりました。
 ほぼこの順番で読んだのですが、一番面白かったのは『増補版 現代政治の思想と行動』です。『日本政治思想史研究』は2番目に面白かった。
 『思想と行動』とは、浪人生だった19歳のころ、進学先を政治学部と経済学部で迷っていた時、高校の倫理社会の先生から、「それならシュンペーターの『資本主義・社会主義・民主主義』と丸山の『現代政治の思想と行動』を読んで、面白かった方に進めばいい。この2冊は、両分野における最高峰だから」と言われて、読んだ本です。
 『思想と行動』のインパクトは、すごかったのです。三無主義、五無主義と言われた高校生活を過ごした自分は、本当に日本的な思考様式が嫌いだった。音楽で言えば、演歌とかひどく嫌いだった。そのきらいな理由を、丸山の「ファシズム批判」によって、明確にすることができたのです。もちろん、みんなと同じことをしなければならない、自分が死ぬだけでなく他者も殺さなければならない、ファシズムも大嫌いだった。
 丸山によれば、「天皇ファシズム」とは、「すべての価値が天皇を中心として、そこからの距離によってはかられるシステム」である。そこで発生するのは、上等兵二等兵をぶん殴り、二等兵が一般市民をぶん殴る、そして一般市民が、他国民をぶん殴るという「抑圧委譲のシステム」です。非常に分かりやすく、目を開かされました。そして、そうしたファシズムに対抗するためには、近代的自我=他者と異なってはいても同等である自己を確立し、その中で意見の違いを平等に正当に議論しながら合理的政治制度を確立することによって解決するという方法=政治学だったわけです。これこそ、西欧が近代という名で確立したシステムで、だからこそ、その実現=「運動としての民主主義」が重要であること。新憲法が発布されたから民主主義が確立されたという政治に対する静態的な把握ではなく、常に作り進化させ続けなければならないものとしての「民主主義」でした。
 上にあげた「抑圧委譲のシステム」などは、クラスのいじめから始まって、ネットにおける右翼の発言まで、例をあげれば枚挙にいとまがないものです。でも、非常に子供っぽい。大人の取るべき態度ではないでしょう。でも、より深く自らを反省すれば、そう考える自分の中にも「抑圧委譲のシステム」的発想はないだろうか、と考えさせられます。そこで、丸山の言う「永久革命としての民主主義」という発想にもなります。このように丸山思想とは自らの立ち位置すら、判断を迫られる思想でもあるわけです。この点は、表題の本の中で、田中さんが強調する点でもあります
 『思想と行動』に比べると『日本の思想』は、コンパクトなだけ、より抽象度が高くて、僕には、最初に読む本としては、あまり勧められない気がします。これもいい本なのですが。
 田中さんのこの本で出てくるポスト・モダン・ブームは、同じく登場する丸山ブーム同様、現在では、すでに過ぎ去ったもののように思えます。しかし、日本の現状の政治を見れば、丸山の思想と理論は、いまだ死んでいないと言えます。「古層」論にもとづいた分析が、いまこそ必要なのかもしれません。
 古層論の意義は、最初この本を読んだ時はよくわからなかったのですが、こうしてブログに感想をまとめているうちに、よくわかってきました。「OrthodoxyとLegitimacy」の方法も同様です。
 僕は、これまで、カール・マルクス+マックス・ウエーバー=カール・マンハイム丸山真男と理解していたのですが、古層論=政治文化と言ってすまない問題が、その細部にあるように、マンハイム=丸山では済まない様々な問題もあることを、この本を通して知ることができました。
 次は、著者が勧めるように「入門書ではなく原典を読め」ですね。
 でも、巻末の「丸山真男主要書誌ガイド」は面白かった。この丸山関連本に対する批評は、毒舌が利いていて、しかも評価する部分も的確で面白かったです。僕自身は、『思想』の丸山特集は、「新自由主義ファシズムに行きつく」ということを丸山が指摘していた事実など、知らなかったことも多く、非常に参考になりました。
 それと、これらの関連本・雑誌がすべて20世紀末なのは、ブームが去ったからなのでしょうか。たぶんそうなのでしょう。
 結論として、僕も、お勧めの本です。
 PS 前回、予告しておいた、政治的言説と科学的(理論的)言説の違いとは、政治的言説とは、レーニンを例にとるとわかりやすいのですが、レーニンは思想家だけど、政治家でもあるから、要所要所で科学的理論的に正しくない発言もあえてする、ということを指しています。その点、科学的言説は、その正しさに比重を置くので、政治的効果より論理性を重視します。自分は、なるべく、このブログでは論理的科学的でありたいと思います。
 PS2 それと、「価値と価値自由と近代社会科学の問題」もありますね。この本でも第5章で取り上げられているものです。コンパクトな本なので、十分に議論が詰められているとは思えませんでした。でも、これって科学哲学の重要な問題です。僕のブログでも、「理論」項目分類にそうした議論に、少し触れた部分があります。もし興味がありましたら、右側の枠から飛んで読んでみてください。