プロテストソング、市民運動

福島第一原発事故関係URL(放射性物質被曝問題が未解決なので、いましばらくURL掲載を続けます)
武田邦彦(中部大学)ホームページ
http://takedanet.com/
「くれぐれも「暫定基準値内だから大丈夫」という言葉にごまかされないでください。
今の食品の汚染に関する暫定基準は、1年17ミリシーベルトから22ミリシーベルトの被曝を基準にしていますから、子供はもちろん、大人でダメです。
簡単に言うと、原子炉で働いている作業員が白血病になったとき、その白血病が「原子炉で働いて被曝したのが原因」という認定を労働災害で受けるのが5ミリシーベルトの被曝です。」−武田邦彦ホームページ「食品の暫定基準値は1年20ミリシーベルト内部被曝を想定している」から引用
都健康安全研究センター
都内の環境放射線測定結果 測定場所:東京都新宿区百人町
http://ftp.jaist.ac.jp/pub/emergency/monitoring.tokyo-eiken.go.jp/monitoring/
東京都ホームページ
http://www.metro.tokyo.jp/

プロテストソングとしての「ダッ!ダッ!脱・原発の歌」
 先日紹介した制服向上委員会の「ダッ!ダッ!脱・原発の歌」(http://www.idol-japan-records.net/live/index.html)ですが、何で僕がこんなに惹かれたのかがわかりました。これは久しく聞いていなかったプロテストソングだったからでした。アイドルがプロテストソングを歌うこと自体まれなことなので、つい気がつかなかった。プロテストソングは僕にとって、革命歌、労働歌と同じく、非常に懐かしいものです。
 また、「若年の子供たちに歌わせることはよくない」「操られてる」などとネットでこの歌が批判されていますが、プロテストソングは、だいたいが若い世代から生まれるものです。大人は不正に対する感度が鈍いから、それは当然といえるでしょう。
 また、売名行為だといういう意見もあります。もしそうなら、むしろその勇気をたたえるべきだと思います。彼女たちは、音楽産業からこの歌によって強烈な弾圧を受けている。そんな「売名行為」をあえて行うとしたら、その勇気こそ賞賛すべきでしょう。
 同じグループによる「TVにさようなら」(http://www.youtube.com/watch?v=yJrPNdb1-DU)も橋本美香&制服向上委員会の「原発さえなければ」(http://www.youtube.com/watch?v=DnNed1RryIs&feature=player_embedded#at=71)も、同様にプロテストソングと言えると思います。
 プロテストソングは、1970年頃に、主に若いフォークのシンガーソングライターによって作られた曲なので、今の若い人は知らないかもしれません。RCサクセションの「サマータイムブルース」1988(http://www.youtube.com/watch?v=aJdMa1VI0do)やTHE BLUE HEARTSの「チェルノブイリ」1988(http://www.youtube.com/watch?v=co43b5vq1d0&feature=related)は比較的最近ですが、それでも、10代、20歳前後の人は、初めて聞く人も多いと思います。これはフォークではなくロックですね。
 ここで大切なのは、こうした歌に共通するのが、あまりにひどい現実に、それがCDやレコードの流通に載らないというハンデを負うにしても、彼らは歌わずにいられなかったという事実だと思います。
 ジョン・レノンの「イマジン」がアメリカのアフガン・イラク戦争当時マスコミからシャットアウトされたのも、そうした事情を物語っています。しかし、ジョンは「イマジン」や反戦歌「パワーツーザピープル(人民に権力を)」を歌わざるを得なかった。それは、現実(例えばベトナム戦争)が、あまりにひどすぎたからにほかなりません。
 ここで、少し振り返ってみれば、20歳を超えた僕らは、当然のことながら、1人1票の選挙権を持っています。それは、金持ちも貧乏人も平等に政治を作る権利を持っているからです(不当に参政権を剥奪されている日本在住外国人の参政権問題はここでは論じません)。そして、何が自分にとって大切な政策かは、当然のことですが、自分で自由に決める権利がある。しかし、もしその判断をするための材料である様々な意見を聞く機会が阻害されていたとしたらどうでしょう? 我々は正確な判断が不可能となる。
 そうした事態をもたらすのが、こうしたプロテストソングに対する流通・メディア側の妨害であると言えます。上に掲げた曲はすべて、流通・メディアから阻害された曲です。そして、いま最もホットな話題である福島第一原発事故にかんして、制服向上委員会「ダッ!ダッ!脱・原発の歌」はCDショップから締め出されている。ポスターを張ることすらできない。
 実際の発売は8月15日なので、まだ先行予約の状態ですが、その予約が行なわれていないことからも、締め出そうという意図は明確と思います。ためしにアマゾンで検索をかければ一目瞭然です。この件は、制服向上委員会の公式サイトにも言及されており、それに対応する為に、当サイトではこの曲の直販を始めています。
 流通やマスメディアにおける自主規制とは、このように民主主義を大きく損なう行為です。反原発デモ報道に新聞・TVともに消極的なことも同様です。こうした一連の動きは、昔からのものとはいえ、以上の理由から犯罪的行為と言えるものです。
 また、枝葉末節ですが、「ダッ!ダッ!脱・原発の歌」のユーチューブ・コメントに、「こんなにあっけらかんと歌うのは忌野清志郎を汚すものだ」みたいな書き込みがありましたが、僕は逆に、彼がもし生きていたら、絶対に制服向上委員会を称賛しただろうし、支援を惜しまないだろうとも思います。彼が大切にするのは歌の「魂」であって「形式」ではないと思うからです。ここだけは思い違いをしてはいけない。悲惨に歌えばプロテストソングとしてOKというものでは、まったくないのです。
 プロテストソングで大切なのは、民衆のプロテストの精神を大きく高めることなのですから。その意味を反映して、英語版字幕付きの「ダッ!ダッ!脱・原発の歌」に寄せられた海外のコメントは、おおむね好意的なものでした。

脱原発市民運動
 3月11日以降、各地で行われている反原発デモは、まさに典型的な市民運動であると言えると思います。こうした運動を左翼的と考える人がいるとしたら、その時点で、その人は終わっていると言っていいと思います。もし、放射線被害が左翼支持者だけに出るのであれば、その見方も正しいのかもしれませんが、保守派も含めてすべての人間に平等に放射線障害は現われる。だから、この事実だけを見ても、反原発運動は左翼だけのものじゃないですね。実際にデモで日の丸が振られていたりもするわけです。
 むしろ、北方領土にこだわる右翼の側こそ、原発事故によって立ち入ることもできなくなった日本国領土に対してなにも感じないのかと言いたい。でも、右翼の人は、多少領土が無くなくなっても、核兵器を作るための原発は必要だと思っているのかもしれません。それとも放射能は目に見えないから、政府の言う通りにしていれば安心だと思っているのかもしれません。
 以前、終戦直後にヤミ米を摘発する立場だった検事が配給米だけを食べて餓死したという話を聞いたことがあります。それだけの覚悟があるのならいいけど、そうした右翼的意見を言う人に限って、福島周辺にも住まず、あやしい食品を避けているのなら、原発容認派がいかに無責任なものわかるというものです。
 また、TVなどで、いまでも「原発の即時全面停止はエネルギー事情を考えると不可能」という解説者がいます。しかし、彼らは、原発事故で避難している人々の前で同じことを言えるのでしょうか? 多分言えないと思う。そしてもしそれを言ったなら、「じゃ、お前の家と仕事を俺らに渡して、お前はここで難民暮らしをしてみろ!」と言われるでしょう。そんな覚悟もないのに「原発の即時停止=非現実的」と言うとしたら、それはとんでもない恥知らずだと思います。
 考えてみれば、僕らが1979年の米国スリーマイル島原発事故の直後、原発は危険だから停止すべきだといった時、多くの人が日本の原発は大丈夫だと言って取り合わなかった。そして、その時すべての原発を止めていれば、福島原発の事故はなかったのは事実です。
 今また、福島は事故が起きたが、他の原発は大丈夫だというのなら、それは何も学んでいない全くの非合理的発想だと思います。玄海が事故れば福岡市が汚染され、富山が事故れば関西は飲料水や食料の供給が断たれる。そして、そうした事故が明日、もしくは今日起こるかもしれないのに、何も手を打たないとすれば、それこそ狂気の沙汰というべきだと思います。これは冷静に考えれば、ちっともヒステリーじゃないですよね。
 かつてベトナムに平和を市民連合(べ平連)という反戦市民運動を始めた小田実は「ベトナムの北爆は本当にひどかった。自分たちへの空襲を思い出した。だから、やむにやまれずみんなデモに出たのだ」と語りました。それは革命を模索した共産主義者同盟やその分派による学生運動とは一線を画していたし、それゆえ広範な支持を得ることができました。
 現在の脱原発デモも同じ構造をもっように思えます。福島の事故は本当にひどい。そして、いまもチェルノブイリ原発事故なら当然避難している放射線濃度のエリアである福島市郡山市、その周辺自治体に人が住まわされている。福島市には今も僕の友人が住んで働いています。それ以外の地域にも、政府の不当な暫定基準値のために汚染された食料を食べされてれている人々がいる。このように、原発事故という人災による放射線汚染によって人々は今日も不安に暮らしている。そして、他の原発もいつ事故を起こすかわからない。それではあまりにひどいじゃないか、というのが脱原発デモに関わる人々の思いだと思います。
 放射線は目に見えない。だから、政府は人々をだましやすいのでしょう。しかしながら、真実はネットの中にあります。政府が我々を守らないのなら自分たちで守るしかないとみんな考えています。そして、政府を動かすためにデモをするしかないというのが、今の人々の現状だと思います。
 まさに、「ダッ!ダッ!脱・原発の歌」の歌のとおりなのです。「安全というのなら、お前が住め!」という歌詞は、端的な真理なのだと思います。

ネットVSテレビの行方とは

福島第一原発事故関係URL(放射性物質被曝問題が未解決なので、いましばらくURL掲載を続けます)
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制服向上委員会
 先日紹介した制服向上委員会ですが、調べたらいろいろな曲を発表していました。「ダッ!ダッ!脱・原発の歌」でポッと有名になったグループじゃないですね。不勉強でした。
 彼女たちの歌を聞いているうちに、テレビの存在意義って何だろうと思えてきました。
制服向上委員会/TVにさようなら
http://www.youtube.com/watch?v=yJrPNdb1-DU

 つまり、この歌を聴いて、僕は気づかされることが多かった。
 しかし、その話の前に、まず制服向上委員会の曲の良さを紹介すると、以下の歌があります。

原発さえなければ/橋本美香&制服向上委員会
http://www.youtube.com/watch?v=DnNed1RryIs&feature=player_embedded#at=71

 これは、maximum the hormoneが謳ってヒットした曲

小さな君の手〜maximum the hormone
http://www.youtube.com/watch?v=2YV6IJLoBv4

で、なぜ彼らがTVに向かってゲロを吐かなければならなかったのかを、直接言葉で説明しちゃってるんですね。今「信じる」とか「仲間」だとかいろいろ言っても、「誰を信じるのか」、「誰が仲間なのか」を言わなければ、それらの言葉は「むなしくなる」だけです。これは、いわゆる被災地応援ソングを聞いて、いつも僕も感じていたことです。
 いい歌なら売れるし、売れればチャリティになる、そして、そのお金で救われる人がいるのだから、全面的に否定することはできません。しかし、歌自体の価値としては、TVに載せるための自主規制だらけで、何も言っていないに等しい。だから、ゲロを吐くしかない歌になってしまうのだと思います。たぶん、「小さな君の手」のPVを見た人は、この歌に込められたそうした暗示がわかっているのでしょう。そして、そして、それでもTVに載せるために、maximum the hormoneは後半をメタルにそらしたのだということすら、ファンは理解しているのだと思います。
 もうひとつ、音楽のCS局を聞いていて

K DUB SHINE - 自主規制
http://www.youtube.com/watch?v=me7rOhscMec

を偶然聞きました。全然本音を言わない日本のラップを聞いて、何なのこれって思っていた自分には、このタイトルで歌を作るだけでも、ちょっと注目したのでした。でも、実際に聞いた感じでは、曲の内容が良い子すぎて、まだまだ全然本音を言っていないように聞こえました。「自主規制」というラップを歌いながら自分が自主規制してるんじゃないかとまで感じたわけです。
 でも、これも、いま再び聴き直せば、この曲がTVに載らなないことも覚悟して歌ってるのかなとも思いました。だとしたら、maximum the hormoneにしてもK DUB SHINEにしてもTVに載せることも踏まえて、頑張っているわけで、その努力は称えたいと思います(なにやら、えらそうですいません、何しろラップやロックは初心者なので、なにとぞお許しください)。
 しかし同時に、それほどTVは大切なのか、とも思ったわけです。

 もう1曲制服向上委員会の歌を引用します。

STOP!STOP!STOP!/制服向上委員会
http://www.youtube.com/watch?v=wI-rT95y2Ms

 これは自殺予防の歌だなと思いました。自殺とは自分で選び取っているように見えて、じつは社会に対する無理解によって引き起こされることが多い。つまり、社会に踊らされているうちに出口なしになりがちな問題であることも多いと思います。その意味で、自分の意志のように見えて、じつは踊らされているだけということが多い。自殺行為の自傷に対して、他者を傷つける犯罪行為も同様です。どうしょうもなく見えても、じつはそうじゃない別の道があることに気づいてというのが、この歌のテーマなのだと思いました。
 こんな若いかわいい女の子たちに言われたら、気付かないわけにいかないじゃないかというのが、この歌を聞いた男性である自分の心境です。

ネットVSテレビの現状
 このへんで、制服向上委員会の紹介は終えて、ネットとメディアの関係に移りたいと思います。
 自分がTVや新聞を読むときは、たくさんある番組や記事の中から、なるべく真実に近いものを探すという作業が伴います。雑誌やネットでも同様です。これがよくいうメディア・リテラシーなのですが、それにしてもTVや新聞はひどすぎる。
 1つ例をあげれば、福島原発事故に関して僕らの取るべき基本的スタンスは、まず第一に、東電も政府も「絶対安全」という言葉で、我々をだまし続けてきたということです。
 誰も見ないし報道もされない政府文書や法律に「これ以上のマグニチュード地震が起きたら原発は壊れます。そして住民は被曝します」と書かれていたとしても、僕らは知らされていなかったのだから責任はありません。つまり、僕らは、全員が一方的被害者であるということを忘れてはならないのだと強く思います。
 だから、この事故で我々はすでに被害を被っているわけで、これ以上の、電力値上げとか、公共施設での利用者に犠牲を強いる節電などの被害を受ける必要は、まったくない。これ以上我慢する必要もまったくないという点です。
 再度言えば、僕らは政府や東電にただ怒りをぶつけ、賠償を請求するだけでいい。これ以上、何かを我慢する必要はまったくないということです。
 また、原発事故による放射性物質汚染問題は、公害とまったく同じ性質を持っています。その対象地域はかつての公害問題と比べても格段に広い。そして将来の放射能汚染被害は、それが予測される以上、早急に除染という対策を取ることができる。そして、もしそれに対して政府や地方政府(都道府県)が及び腰であるのなら、彼らも批判の対象とされるべきです。
 外部環境においては1時間0.11ミリシーベルトが上限(先日放送の「情熱大陸」で武田邦彦氏が言っていました)だし、食品については、政府規制値の10分の1が限度という目安があります(上掲、武田氏のホームページ参照)。この限度についても、それよりも低ければ低いほどいい値となります。すべて自分自身の体で合計されるわけだから、なるべく年間1ミリシーベルト以下、そして出来る限りゼロに近づけるのが被害を受けている我々にとって当然の行為となります。
 話がそれましたが、民放はこのように視聴者ではなくスポンサーを見ている。新聞も、その収益の4割に及ぶ広告宣伝費のためにスポンサーを見がちです。我々の視聴料によって支えられるNHKですら、払っている我々の方ではなく、その法律を所管する総務省(=国家官僚)の方を向いている。
 だとしたら、そんなTV・新聞が腐ってしまうのは当然です。最近のTV・新聞の反原発の風潮も、東電からの広告収入が今後しばらく見込めないことが明らかになったが故と言われています(CS朝日ニュースター「パクインジャーナル」内の発言)。これは報道としては最低なのですが、これまでの腐敗構造を知っている我々からすれば、良い変化と言えます。
 しかし、政府の官僚組織とのズブズブの関係はいまだ切れていないから、視聴者・読者の利益より官僚の肩をもって行おうとする組織存続の方がいまだ強いように思われます。

ネットVSテレビの未来
 ここで登場するのが、新しいメディアであるネットです。TVに光回線のセットトップボックスを設置すれば、地上波デジタル、BSデジタル、CS局以外のネット・メディアを高品質で流すことが可能となります。そして、ネットには検索機能もある。
 新聞・雑誌についてもタブレット端末で配信が始まっています。
 朝日新聞デジタルでは月間購読料+1000円でネット配信にも対応するようですが、これは朝夕刊の全記事が掲載されているわけではないので、情報としては紙版より劣化する可能性があります。
 新聞によっては夕刊紙「日刊ゲンダイ」のように、紙面をそのまま配信するものもあるので、これに付加価値を与える方向が望ましいと思います。
 つまり携帯端末もしくは卓上PC、もしくは家庭用TVの大画面で、ネットとシームレスな情報提供が行なわれるのなら、本来の意味でのTVとの娯楽や報道の競争が可能になるのではないかというのが僕の印象です。そうすれば、制服向上委員会も、反原発発言で干された山本太郎も、同じ媒体(装置)に登場し、内容によって勝負(競争)することが可能となります。
 じつはもうそんなTVも発売されているわけで、iPadなどのタブレット端末も同じ機能を持っています。あとは、これらの媒体に合わせたインフラソフト、つまりスムースな視聴を可能とする統合された仕組みさえできれば、意外と早くネットとTVが混然一体となって、健全に競争する時代が来るのではと思います。
 その時、TVはこれまでの役割を終え、放送禁止の歌や出演者が無くなる時代が来るのかもしれません。じつは、昨日引用した「サマータイムブルース」にしても、ほとんど事実上の発禁曲だったのです。ブルーハーツの「チェルノブイリ」にしもて自主制作だし。その当時はお金を出してCDやレコードを買うしか聴く方法がなかった。何しろテレビもラジオも全く流さない。そして、ネットもなかったから。
 その意味で、今はすごく恵まれていると思います。だけど、手軽さという意味で、ネットはまだ敷居が高い。よく言うデジタル・デバイドです。これが標準機能として、電話や光回線とつながり、融合し、一体となった時、本当の情報民主主義が確立されるように思います。そして、そうした時代も意外と近いのではないかと思います。逆に言えば、それだけ現在のTV・新聞・雑誌といったマスメディアの腐敗が進んでいるというべきなのかもしれません。

制服向上委員会「ダッ!ダッ!脱・原発の歌」

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制服向上委員会「ダッ!ダッ!脱・原発の歌」2011
http://www.idol-japan-records.net/live/index.html

 この歌を聞いて、僕は腰抜かしそうになりました。いい歌なのでみんな聞いてください。

斉藤和義「ずっとウソだった」2011
http://www.youtube.com/watch?v=b01yohRgfyc

 音楽的にはこっちの方がいい。それはもちろんだけど、僕は上の歌の、歌詞のストレートさに負けてる気がします。でも必要なことを歌っているだけ立派です。ちょっと見なおした。

RCサクセションサマータイムブルース」〜「LOVE ME TENDER」1988
http://www.youtube.com/watch?v=aJdMa1VI0do

THE BLUE HEARTSチェルノブイリ」1988
http://www.youtube.com/watch?v=co43b5vq1d0&feature=related

 心あるアーティストはちゃんと歌っていたという例がこの2曲です。

 これらの歌をチェックしたのはフジロックフェス事件があったためです。真相はまだ明らかではないようですが、もし漏れ聞くように、出演を要請したアーティストが自主規制したのだとしたら、フジロック側がそれを聞いて正式に呼ぶくらいのことをしてもいいように思います。フジロックが反原発の姿勢を明確にしているだけに残念です。
 ま、これもなんかの行き違いなのでしょう。観客が盛り上げていくしかないのだと思います。
 制服向上委員会の音楽性を問題にする人もいるようですが、ロックってそんなものじゃないという思いが僕にはあります。グラムだってパンクだってロックなんだし。それよりも何を訴えるかが一番重要だし、それこそロックだと思います。
 主題と表現力は常に作品の両輪です。しかし、主題がない(ダメな)作品は、ロックじゃないと思います。このへんは年寄りと今の若い人では意見が食い違うかもしれませんが、僕はそう思います。その意味でアイドルがロック(的な魂を持つ歌)を歌ってもいいんですよね。
 しかし、それにしても日本の政治の後進性は目を覆うばかりです。菅の「脱原発宣言」を支持するのも、周りがあんまりひどすぎるからにほかなりません。せめて共産党や社民にはもう少し頑張ってほしいところです。みんなの党も、脱原発に踏み込めば。少しはいけるかもしれません。
 ともかく繰り返すと、ロックフェスの運営側は、観客の方だけを見てほしいということ。政治家も有権者のことだけを考えるべきなのは言うまでもないでしょう。その基本はまず生命の安全です。

AKB48を批判する大人はそれにふさわしい社会を作ったのか?

福島第一原発事故関係URL放射性物質汚染問題が未解決なので掲載を続けます)
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一生懸命夢を追いかけています
成長してゆくチームB
見にきてください

どんなに売れても
ここで歌っています

結局誰もみんな
チームB推し
ですよね?
−-「チームB推し」アルバム『ここにいたこと』から

 AKB48の知名度が上がるにつれ彼女たちを批判する声が少しずつ聞かれるようになりました。
 アサヒニュースターの朝日新聞論説やいくつかの雑誌などです。その骨子は、AKBがメディアを支配するにつれジャニーズ化が進行して、ネガティブな批判を許さない不可侵領域になりつつある。そのことがメディアのもつ正当な批評という機能の健全性を損なっているというものです。
 AKBに関してはこれまでもいろいろな批判があって、まずやっかみによるアンチAKBがあります。それに関しては、ネットも含むメディア批評というものは自らが評価したものを紹介すればそれでいいわけで、アンチ巨人が実は巨人に心の中で囚われている精神状態であることからもわかるように、そうした批判は意味のないものです。また、有名なものを批判することによって自己意識を相対的に高めようとするもの、売名行為といえるものもある。それ以前に、単に憂さを晴らしているものもあるでしょう。いずれにせよ、これらはここで批評する価値もないものです。
 アサヒニュースターの論説は、もう少し論を進めて、こうした聖域化は、検察特捜部の腐敗と同様に腐敗を生むとまで言っています。これがジャニーズ化の意味でもあります。しかし、私自身の感想は、そんなに騒ぐほどのものではないというものです。むしろその背後には、もっとどす黒い大人の潜在意識が垣間見えるように思えます。この点はより重要なので少し分析してみたいと思います。
 私が思うにAKBの魅力とは、SKEやNMB、SDKも含めて、上に引用した歌詞にあるように、アイドルを目指す若い女の子たちが、小さな劇場から始めて、徐々に知名度を上げていくという課程にあるように思えます。その意味で、劇場というのは非常に現実的かつ象徴的な装置であり、既存のTVなどのマスメディアにない間隙を意味する。つまり、そこには、見に来た人の入場料によって直接出演者が支えられるという現実的構造があります。また、この仕組みは、マスメディアに比べてはるかに透明性の高い構造をもちます。また、新曲を歌うメンバーとセンターからの順番を決めるAKB総選挙における投票権を得るためのCDなどの購入も、同じ意味合いを持っています。
 つまり、日本社会における大人が作った政治経済構造の不透明性に対して、遥かに透明性の高いシステム、つまり現代社会に対するアンチテーゼ(否定の宣言)として機能しているのがAKBである点が決定的に重要だと思うのです。
 上に引用した歌詞は、そうした思想を最もよく表しているように思えます。チームBとは、A、K、4という名のAKB48の各公演チームの1つの名称なのですが、それらの各チームが競争しながら、それぞれのグループの個性や独自性を作っている状態をよくあらわしているように思えるからです。
 また、売れっ子になって忙しくても、それでも劇場に戻って来るという宣言は、たとえそれが現実にはありえないフィクションであったとしても、ファンの心を打つものです。ファンとしては、そうした状況になれば、忙しいなら劇場に来なくてもいい、それより休んでほしい。でも、1年に一度くらいは劇場に顔を出してほしい。いつまでも自分たちだけのアイドルでいてほしいといったせつない思いを体現した歌詞であるように思えます。
 つまり、AKB現象とは、透明性を失い一部の利益団体(例えば、国家官僚や政治家、大企業経営者、司法官僚や警察、マスコミ、体制派労働組合)が彼ら自身の既得権益を守るためにマスコミなどを操作して有権者をだまし続けるという現在の日本社会の状況に対する強力なアンチテーゼであるということです。その意味で劇場システムという透明性は非常に重要となります。
 だから、大人にはAKBを批判する前に、まだまだたくさんのすべきことがあるだろうということを、私は強く主張したいと思います。
 それは一言でいえば社会改革です。努力した人間がその努力に応じて報われる社会。弱者が不可能な行動を強いられない社会。人が人としての尊厳を失わない社会。市民をばかにした情報操作の行われない社会。かりにそうした情報操作が行われても、それに対する反論が即座になされ、そうした反論が許される社会。これらの社会こそ、子供よりまず先に責任を負うべき大人が実現すべきものです。そして、そのためには民衆に開かれた議論の場を可能とする透明性、問題の全面開示が必要です。
 投票権が金で買えるというAKB現象を批判する前に、そういった透明性すら持ちえない現代の日本社会を作った大人自身の後進性を、逆に自己批判すべきです。
 そして、これらをせずして、大人が自らの特権に胡坐をかきながら、単に目立つアイドルグループを批判するとしたら、それこそ、そうした大人自身こそ本当の恥知らずであると言われても仕方ないのだと思います。
 AKBファンの明るい自由さに対して、奴隷状態に置かれた自分たち大人が自らを省みることなく嫉妬するとしたら、それこそ醜い自己の姿を晒す行為に他ならない。現在のAKB批判は、事実、そのように見えます。恥を知るべきです。

菅継続への最適解

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枯枝に
ぬしが名を 刻んだら
めでたし や
枯木に 花が
ひらいたよ。
−-コインブラ地方の古謡
藤村信『西欧左翼のルネサンス−パリ通信』(1977・岩波書店)28頁から引用

 以前引用したブログ『世に倦む日日』(http://critic5.exblog.jp/)の2011年7月7日の記事「浜岡に続いて玄海の陣でも勝利 - 今夏の再稼働阻止」を読んで、現在の政治状況が少し明確になりました。
 菅は自らの延命のための正解を手にしたように思えます。それは脱原発です。これを掲げた時、すべての日本に住むひとびとは彼を支持する。たとえそれが彼の延命のためであったとしてもです。その意味で、以前コメントしてくれたトロスキーさんやチョンボさん、そして僕が喧嘩した友人も、結果的に正しかったことになります。
 これは前回書いた「ポスト菅の条件」を一歩進めれば、当然導ける解でした。つまり、現在菅を引きずり降ろそうとしている連中は、原子力村の官僚・学者・マスコミと一体となって原発再稼働を目的としているのだから、そういった連中と比べれば菅はまだましとなるわけです。鳩山、小沢は官僚と一体かどうか不明ですが、かといって脱原発を明確にしているわけではありません。
 『世に倦む日日』のこの記事によれば、8−9月にも決まろうとする原子力村関連の4500億円の概算要求に対して、ストレステストのために停止中の原発の再稼働が延期されれば、官僚は大打撃を受ける。そのため菅の早期退陣を画策した。しかし、菅がストレステストを理由に再稼働の延長を決めれば、その予算要求を通すことは不可能となる、という構図だそうです。
 自民にしろ公明にしろ、民主党執行部という菅降ろしの連中も、脱原発という有権者の声を無視することはできない。だから彼らの主張は、菅に対する不正献金等の個人攻撃に終始する。原発問題や送電と発電の分離を国会で主張したみんなの党と比べれば、腰が引けているのは明らかです。それは、すべて脱原発という世論のためだと考えられます。
 少し歴史を戻せば、菅の現在の立場を説明できると思います。
 菅は仙谷と組んで、日米同盟とその利権への侵害から身を守ろうとした官僚・マスコミと協調して、鳩山=小沢降ろしを画策し、それに成功した。この時、菅への交代によって党のイメージアップを図り、参院選での勝利を目指した小沢、鳩山の意図は、菅の消費税発言によって裏切られ、参院選での民主党敗北となった。菅にすれば官僚を抱き込んだ結果として、敗北への道は必然だった。
 そして迎えた昨年9月の民主党党首選においても、官僚・マスコミと共同して小沢を叩き、民主党代表の立場を維持した。
 そして、今年3月11日の震災以後、菅は財政規律重視の官僚の言に従い棄民政策を続けたため、有権者の不評を買い、菅降ろしが始まった。現民主党執行部にしてみれば、官僚との協調は既定路線なのだから、菅を降ろしても別の候補を立てれば、路線を変更する必要はない。
 しかし、ここで民主党執行部が読み間違えたのは、脱原発に対する有権者の支持があまりに大きいことだった。それは日々放射能によって生活が脅かされている人々にとって、当然の反応である。
 だから菅にとって、震災以後のすべての失政を補って余りあるのが、脱原発への政策転換となるのである。なぜなら、国民は、震災以後の官僚、マスコミ、そして政府自身の二枚舌に辟易しているし、まったく彼らの言を信じなくなったからである。そして、官僚が菅から離れ、菅降ろしを画策するのなら、少なくともその主勢力である原子力村の連中を切るのが一番の良策となる。こえれは、浜岡原発を停止した時点からも、より進んだ状況と言える。
 菅は、鳩山=小沢降ろしの際に味方だった官僚から見限られ、同時に官僚と一体化している民主党執行部(仙谷、岡田、野田、前原)からも引退の勧告を受けている。そして、彼に残された手は、国民の支持だけになったというわけです。
 ストレステストを再稼働の条件にするかしないかは、11日中に発表するとのことですが、もしこれを条件にしなければ、菅は進退きわまるのではないかと予想されます。なぜなら、脱原発は菅が唯一持っている切り札だからです。これを切れば、総選挙での大勝もかなう。しかし、もし切らなければ、そのときは、菅降ろしの連中と政策的に差異はなくなり、辞任しか残された道はないからです。

ポスト菅の条件

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武田邦彦(中部大学)ホームページ
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提言
 以下、日本在住人民の名において要求する(自分には、本当は代表する権利はないけれど、とりあえず思いついたの書いてみる)。
1.日本国内の原子力発電所の即時および永久停止
2.国産食料品のベクレル表示の義務付け
3.現在のベクレル規制値の10分の1への引き下げ
4.原子力規制法に基づく立ち入り制限地域の設定
5.放射性物質の汚染地域の除染
6.放射性物質福島第一原発および周辺への回収
7.回収後の放射性廃棄物の除染


 『週刊アスキー』に連載中の歌田氏の記事によると、国内世論はすでに「原発のできるだけ早い停止」が主流になっているという。であれば、我々としては一歩進めて、すべての国内原発の即時および永久停止を要求するものである。
 例えば、敦賀湾に関しても、東日本大震災レベルの地震及び津波は明日来るかもしれない。今日来るかもしれない。そして、その時は、必ず福島原発と同規模の原子力災害が起きる。これは過去の大規模地震において、すべての原発が事故を起こしていることから経験的に導かれる予測である(上記武田氏のホームページ参照)。
 海江田経済産業大臣は先日、原発安全宣言を出したが、それはちょっと止めて、また動かしたテストにすぎない。何もしないよりは、はるかにましではあるが、このテストが安全性を保証したとは言えないことは誰の目にも明らかである。
 また、今回の原発事故の補償と将来10万年に及ぶ放射性廃棄物の保管費用を考えれば、原発は商業利用するにはコストがかかりすぎる。つまり、経済合理性から考えても、原発は現実性のない選択である。
 このように福島同様の原発事故が起きる可能性を排除できない以上、原発のもと、いつ事故が起こるかを心配する不安な日常より、原発事業を原発廃棄事業へ転換し、即時停止及び廃止を行ったうえでの新エネルギー開発へエネルギー政策を転換する方が、はるかに民意にかなった選択である。

2および3
 これは3とも関連するが、単品での年間1ミリシーベルト基準への合格は、まったくナンセンスな規制である。現在の制限値はこのように設定されている。そうではなく、内部・外部被曝の合計を年間1ミリシーベルト以下に抑えるべきである。
 また、たとえ10分の1の規制値以下であったとしても、どのような食品を選ぶのかは消費者の基本的選択権であり、誰もそれを侵害できない。
 汚染食品を輸出し、それを突っ返される恥以上に、国民にそうした食品を食べることを強いるのは大きな恥である。言うまでもないが、正常な大人には社会に対する責任がある。無法者を取り締まるのが法であり、その責任を全うしない政府とメディアに現在の政治・報道批判が生まれるのは当然である。


 国内法に放射性部室汚染地域への立ち入り規制が、罰則付きであるにもかかわらず、その法を守らない政府・自治体関係者の行為は明確に違法である。


 表土のはぎとりにより確実に被曝量を下げられる以上、速やかにそうした除染を行うべきである。その費用が莫大になるためできないというのであれば、東電はすべての資産を売却し、倒産手続きを行ったうえで、同様に原発事故に責任のある政府に費用支出の義務を引き継ぐべきである。

6および7
 放射性物質はその発生元に返すのが道理にかなった当たり前の原則である。福島県放射性物質の永久保管場所になることを危惧しているが、だからと言って汚染を日本国内に拡散することが許されるはずはない。原発の立地を許しそれによってこれまで利益を得ていたのが福島県であるのだから、汚染物質を引き受け、東電および国・自治体の責任においてそうした汚染物質の除染に取り組むのは当然ある。

 ポスト菅の条件を考えた場合、上に加えて、民主党が約束した増税なき財政再建の達成を目指すべきである。具体的には官僚組織の統制と無政府状態になっている特別会計と一般会計の統合、天下り禁止、不要な公益法人の解散などである。上級公務員の解任を自由化する特別職化も必要である。
 災害と政権延命を理由とした福祉政策などのマニュフェスト後退は許されないし、もしこれを許したら、その時は政権当事者の思惑とは逆に、政権延命自体が不可能となるだろう。

分析
 以上、原発事故関連の7提言などを踏まえれば、ポスト菅が自民党でないことは明白だ。このことが、現在の未来の見えない不明確な政治状況を生み出している。
 原発事故と震災対策に無能であった菅内閣が退陣するのは当然としても、ポスト菅が上の提言を守れない状況があるため、このような政治状況が生み出されている。
 有権者の態度はすでに明確だ。以上の原発に対する7提言と2009民主党マニュフェストへの復帰がそれである。これは世論調査などを見ても明らかだろう。
 私は、ポスト菅は上記の条件を満たさなければならないと考える。

菅辞任に関するくだらない議論を正す

福島第一原発事故関係URL放射性物質被曝問題が未解決なため、日記内容に関わらず、URL掲載を続けます。)
武田邦彦(中部大学)ホームページ
http://takedanet.com/
都健康安全研究センター
都内の環境放射線測定結果 測定場所:東京都新宿区百人町
http://ftp.jaist.ac.jp/pub/emergency/monitoring.tokyo-eiken.go.jp/monitoring/
東京都ホームページ
http://www.metro.tokyo.jp/

基本状況
 先の内閣不信任案否決以後、ポスト菅をめぐる様々な議論が新聞・TVで行われています。しかし読者視聴者の反応はいまひとつです。その理由を僕は考えてみたいと思います。
 第一に、菅内閣への不信任案は可決すべきであったという点です。それは、菅内閣の震災以降の復旧支援の政策、特に福島第一原発事故に対する対応が全く間違っていたことがその理由です。
 第二に、新聞、TVなどのマスメディアが、政府同様に焦点のぼけた報道、ひどい場合には嘘の報道を繰り返すため、読者の支持を失っている点です。
 第二に取り上げた報道が適正になされているなら、政府や与野党に対する支持は失われたとしても、メディアに対する信頼はかろうじて残り、正当な世論形成が可能ですがそれがない。そうしたことがマスメディアに対する支持の喪失と、インターネットを通じた言論への支持の高まりをもたらしていると考えます。
 第三に、ポスト菅を考える場合、菅不信任案は可決されるべきだったとしても、次を狙う側に、原発政策の継続を望む勢力=自民党が大きく関わっている点です。
 また、与党時代の政策から、自民党が本当に狙っているのは、被災者救援ではなく、復興利権ではないかという疑念がはらされていません。それは、自民党の野党化以来、彼らが自己批判をまったくしてこなかったことからも明らかです。
 みんなの党は、菅内閣不信任案への賛成演説で、自民より明確に菅内閣の事故対応を批判していましたが、原発継続か否かに関してははっきりと発言していません。
 公明党に関しては、自民より反原発なのですが、自公連携を意識してか、その態度は明確ではありません。
 この2点、復興利権と反原発に関する態度表明が不明確である点は、小沢グループ鳩山グループも同様ですが、彼らには民主党の2009マニュフェストにおける自然エネルギーへの転換というバックボーンがあり、それへの復帰を明確にしているので、その意味ではある程度の予測は可能です。復興利権に関しても、2009マニュフェストの精神に反する政策であるから、ある程度は信頼できると考えます。
 共産党社民党に関しては、反原発、復興利権反対で統一されているのですが、自民の不信任案提出理由を理解しているが故に、採決欠席になったのだと思います。

分析
 さて、上記を踏まえて、内容を分析してみたいと思います。
 第一に書いた、菅内閣の震災復興支援の失政に関しては、新聞・TVのマスコミの報ずるとおりです。しかし、原発事故に対する評価は政府・マスコミとも、まったく誤っていると考えられます。
 まず、原発は安価なエネルギーなのかを検討しましょう。今回の事故に対する補償費用を計算すれば原発が安価なエネルギーでないことは明白です。そして「想定外」と強調される地震津波の自然災害ですが、今回の事故で、大規模地震があれば原発は必ず壊れる(原発ごとにその耐用震度は違いますが、マグニチュード3〜4が限度とされます)ことが明らかになりました。そして、その際に、送電設備が故障(これは必ず故障します)し、そうした大規模停電が継続すれば核燃料の熱暴走を防ぐことはできないという事実です。こうした点は、上記、武田邦彦氏のホームページに指摘されているとおりです。
 第2に、原発はコスト的に商業利用できるかの問題です。原子力発電に伴って排出される放射性廃棄物ですが、その安全化には10万年の月日がかかるといいます。これは科学的事実です。そして、現在の原発関係者は、この安全管理に関する費用をまったく計算していない。とすれば、原発はコスト的にも、安全管理的にも、まったくナンセンスな選択になります。ここから導かれる正解は、原発の全面的廃止は、早ければ早いほど、将来失うものが少ないという結論です。マスコミは電力需要うんぬんを繰り返して、こうした真実を報道していないことが、基本状況の2番目に書いたマスコミ不信をもたらしているように思います。政府は言わずもがないです。
 第3に、政府は本当の問題が、原子力発電所の事故の終息ではなく、すでに排出された放射性物質からの被曝に移っていることを、意図的に隠している点です。それは、マスコミも同様です。
 先日の朝日新聞記事には腰を抜かしました。お茶に含まれる放射性物質が政府基準以下であれば、年間飲んでも安全であるという記事です。しかし、政府が基準を設けているのはお茶だけではありません。そして、人はお茶だけを飲んで暮らしているわけでもないので、まったくいいかげんな記事というべきです。
 以下に武田邦彦教授の解説を引用します。これを見比べれば、どちらが正しいのか一目瞭然です。

「規制値以下なら安全」
という名の下に、どのぐらいの被曝を受ける事になるのでしょうか?
・・・・・・・・・
文部大臣からの被曝
(3.8マイクロシーベルト(毎時)×8(時間)+0.4(家の中)×3.8×16(時間))×365/1000=20ミリシーベルト
・・・
生協の食材からの被曝
(特に断らない限り、キログラムかリットルあたり)
お米  規制値 500ベクレル、 野菜  規制値 300ベクレルだから、約400ベクレル(ヨウ素
1日に食べる量         1.4キロ
(ベクレル)×(とる量)×0.0073=年間被曝(ミリシーベルト
実際には、セシウムストロンチウム(測定されていない)、プルトニウム(測定されていない)などが入るので、2倍にして、
4ミリシーベルト×2=8ミリ
・・・
水道局
事故後の新基準 300ベクレル
1日に飲んだり歯磨きしたりする量  2キロ
4.4ミリシーベルト×2=8.8ミリ
・・・
体内被曝計算
グラウンドで遊んだり、帰ってから外で遊ぶ時の被曝(文科省は子供が学校から帰ったら、家の中から一歩も出ないとしている)は、かなり高いが、これを校庭における外部被曝と同じとして、
3.8*8*365/1000=11.1ミリ
内部被曝を重視する学者の先生から見ると、この計算は甘いと言われそうですが、内部被曝を軽く見る人もいるので、一応、これで進みます。)
・・・
合計すると、
20+8+8.8+11.1=47.9ミリシーベルト
これが今、日本の大人が子供にしていることです。
法律では、1年1ミリシーベルト(一般人)、放射線作業者の上限1年20ミリシーベルト(実際の平均値は0.7ミリシーベルト)です。

武田邦彦ホームページ−特設2「たて割無責任社会:大人が強いる子供達の被曝」より引用

 このように菅内閣は不信任されるべき存在です。そして、その時期は、早ければ早いほどよいと判断できます。
 武田氏の議論を引き継げば、政府の食料品に関する規制値は高すぎるということ。被災地支援をと称して汚染された食物を販売することは、たとえそれが規制値以下であっても犯罪的行為であることが言えると思います。少なくとも規制値を、食品は10から20ベクレル、水道はせいぜい20ベクレルまでに下げるべきであると考えます(このことは上記武田氏のホームページ「新しい「信頼される」生産者・流通の時代に!」に記述されています)。
 つまりこれ以上の食物を販売することは、国民を違法に内部被曝させることであり、輸出などはとんでもないことなのです。そして、同時に、政府と地方自治体にはこうした基準を守らせるべく行動する責任があるということです。これは風評被害ではないからです。完全なモニタリングも必要です。
 菅内閣はこれらの政策を取りませんでした。だから、不信任されるべきなのです。
 しかし、次期政権は、逆に言えば、これらの政策を行う主張をもつ人々が担う必要がると言えます。
 こうした視点に立てば、TVを中心にしたマスコミの報道姿勢がいかにいいかげんなものかがわかります。「被災地がひどい目にあっているのに、中央は政局に明け暮れてあきれる」といった被災地の声がさんざん報道されました。しかし、何もしてこなかった菅政権を非難する声は巧みにかき消されています。そうした声はあるはずです。しかし表に出ない。マスコミの意図を感じさせる所以です。だからマスコミは信用されなくなりました。
 震災対策を理由とした菅政権の当面の継続を求める声も、こうした観点からは同様のものと言えます。つまり、これまで何もしてこなかったのだから、菅政権はこれからも何もしないであろう。しかし、被災地ではない自分たちからすれば、政権が自民に戻ってもっとひどくなるよりましと、被災地以外の人間は考えているように思えます。
 しかし、これも、マスコミ・政府同様に非常にエゴイスティックな考えです。つまり、被災地の未来、日本の未来に対して何も言っていないに等しいからです。

ポスト菅をめぐる現状と結論
 菅総理を生み出した仙谷はいま、菅を引きずり下ろすことによって、自民との大連立を模索しています。かけ声は「国難に対して与野党の垣根を外して対応する」です。しかし、この内容は、菅首相の登場以来続いてきた、マニュフェスト否定、自民へのすり寄り、政策のよりいっそうの自民化をもたらさらざるをえないものです。党内に十分な勢力を持たない彼らは、これまで「反小沢」というマスコミの援護射撃のみがその勢力を支える礎でした。そして彼らの政策は、2009民主党マニュエストという鳩山=小沢が生み出した、そして政権獲得を可能にした政策の否定でした。ですから、次に来る仙谷の構想する大連立は、誰が首相になっても民主党の自民化の最終的完成形態になることは必定です。
 これに対する対案とは、小沢=鳩山が民主党内でのリーダーシップを回復し、民主党自身が2009民主党マニュフェスト路線へ復帰すること。そのうえで、民主党同様に生活者重視を掲げる公明党を連立に組み込むこと。そのうえでの復興政策になるのだと思います。ここには官僚の不平等状態を維持したままの増税路線ではなく、合理的行政機構と合理的な負担が可能となります。
 生活者重視を視野に置く限り、公明党の支持は得られます。自民党の政策が生活者重視でないことを浮き彫りにすれば、なおさら可能です。
 2009年に政権交代を望んだとき、僕が重視したのは、究極には「合理的な政治」の1点でした。これまでの、特に末期の自公政権は、こうした合理性とはかけ離れた姿だったからです。合理性のないところに民主主義が成立可能なはずもないのです。合理的なマスコミも存在しえません。鳩山政権末期のマスコミの政権批判の集中砲火、昨年9月の民主党代表選における小沢氏に対するマスコミの集中砲火は、同じ紙面で検察特捜の犯罪を報じる姿とは、同一媒体とは思えないものでした。そして、それによってもたらされた現実が何であるのかは、いまなら、国民・有権者・市民が皆、徹底的に思い知らされていることです。
 政治の腐敗が、単にその国に住む市民の不利益だけではなく、生命すら脅かそうとしている崖っぷちに我々は立っていることに、僕は警鐘を鳴らしたいと思います。
 マスコミとそれを利用する政治家によって踊らされるのは、太平洋戦争突入だけで十分であると言わざるをえません。竹やりでB29を落とせないのは、今ならだれもが知っていることです。ですから、放射能汚染された野菜を被災地支援のために食べることは、玉砕にいたるチキン・ゲームの一種であることを、裸の王様の見える子供は、勇気を持って指摘すべきなのです。
 それは人間として冷たいことではありません。本当に命を守るのは誰なのか、そして被災地の食物の本当の信頼を回復するために、正しい規制値と完全な食品のモニタリングは絶対に避けられない、必要なことなのです。そしてそれは、品質管理で日本のブランドを作ってきた日本市民なら、必ず実現できるものだと信じます。それを阻害しているのは、われわれ市民ではなく、人の命をなんとも思わない腐敗した政治家・官僚なのですから。