AKB48を批判する大人はそれにふさわしい社会を作ったのか?

福島第一原発事故関係URL放射性物質汚染問題が未解決なので掲載を続けます)
武田邦彦(中部大学)ホームページ
http://takedanet.com/
都健康安全研究センター
都内の環境放射線測定結果 測定場所:東京都新宿区百人町
http://ftp.jaist.ac.jp/pub/emergency/monitoring.tokyo-eiken.go.jp/monitoring/
東京都ホームページ
http://www.metro.tokyo.jp/

一生懸命夢を追いかけています
成長してゆくチームB
見にきてください

どんなに売れても
ここで歌っています

結局誰もみんな
チームB推し
ですよね?
−-「チームB推し」アルバム『ここにいたこと』から

 AKB48の知名度が上がるにつれ彼女たちを批判する声が少しずつ聞かれるようになりました。
 アサヒニュースターの朝日新聞論説やいくつかの雑誌などです。その骨子は、AKBがメディアを支配するにつれジャニーズ化が進行して、ネガティブな批判を許さない不可侵領域になりつつある。そのことがメディアのもつ正当な批評という機能の健全性を損なっているというものです。
 AKBに関してはこれまでもいろいろな批判があって、まずやっかみによるアンチAKBがあります。それに関しては、ネットも含むメディア批評というものは自らが評価したものを紹介すればそれでいいわけで、アンチ巨人が実は巨人に心の中で囚われている精神状態であることからもわかるように、そうした批判は意味のないものです。また、有名なものを批判することによって自己意識を相対的に高めようとするもの、売名行為といえるものもある。それ以前に、単に憂さを晴らしているものもあるでしょう。いずれにせよ、これらはここで批評する価値もないものです。
 アサヒニュースターの論説は、もう少し論を進めて、こうした聖域化は、検察特捜部の腐敗と同様に腐敗を生むとまで言っています。これがジャニーズ化の意味でもあります。しかし、私自身の感想は、そんなに騒ぐほどのものではないというものです。むしろその背後には、もっとどす黒い大人の潜在意識が垣間見えるように思えます。この点はより重要なので少し分析してみたいと思います。
 私が思うにAKBの魅力とは、SKEやNMB、SDKも含めて、上に引用した歌詞にあるように、アイドルを目指す若い女の子たちが、小さな劇場から始めて、徐々に知名度を上げていくという課程にあるように思えます。その意味で、劇場というのは非常に現実的かつ象徴的な装置であり、既存のTVなどのマスメディアにない間隙を意味する。つまり、そこには、見に来た人の入場料によって直接出演者が支えられるという現実的構造があります。また、この仕組みは、マスメディアに比べてはるかに透明性の高い構造をもちます。また、新曲を歌うメンバーとセンターからの順番を決めるAKB総選挙における投票権を得るためのCDなどの購入も、同じ意味合いを持っています。
 つまり、日本社会における大人が作った政治経済構造の不透明性に対して、遥かに透明性の高いシステム、つまり現代社会に対するアンチテーゼ(否定の宣言)として機能しているのがAKBである点が決定的に重要だと思うのです。
 上に引用した歌詞は、そうした思想を最もよく表しているように思えます。チームBとは、A、K、4という名のAKB48の各公演チームの1つの名称なのですが、それらの各チームが競争しながら、それぞれのグループの個性や独自性を作っている状態をよくあらわしているように思えるからです。
 また、売れっ子になって忙しくても、それでも劇場に戻って来るという宣言は、たとえそれが現実にはありえないフィクションであったとしても、ファンの心を打つものです。ファンとしては、そうした状況になれば、忙しいなら劇場に来なくてもいい、それより休んでほしい。でも、1年に一度くらいは劇場に顔を出してほしい。いつまでも自分たちだけのアイドルでいてほしいといったせつない思いを体現した歌詞であるように思えます。
 つまり、AKB現象とは、透明性を失い一部の利益団体(例えば、国家官僚や政治家、大企業経営者、司法官僚や警察、マスコミ、体制派労働組合)が彼ら自身の既得権益を守るためにマスコミなどを操作して有権者をだまし続けるという現在の日本社会の状況に対する強力なアンチテーゼであるということです。その意味で劇場システムという透明性は非常に重要となります。
 だから、大人にはAKBを批判する前に、まだまだたくさんのすべきことがあるだろうということを、私は強く主張したいと思います。
 それは一言でいえば社会改革です。努力した人間がその努力に応じて報われる社会。弱者が不可能な行動を強いられない社会。人が人としての尊厳を失わない社会。市民をばかにした情報操作の行われない社会。かりにそうした情報操作が行われても、それに対する反論が即座になされ、そうした反論が許される社会。これらの社会こそ、子供よりまず先に責任を負うべき大人が実現すべきものです。そして、そのためには民衆に開かれた議論の場を可能とする透明性、問題の全面開示が必要です。
 投票権が金で買えるというAKB現象を批判する前に、そういった透明性すら持ちえない現代の日本社会を作った大人自身の後進性を、逆に自己批判すべきです。
 そして、これらをせずして、大人が自らの特権に胡坐をかきながら、単に目立つアイドルグループを批判するとしたら、それこそ、そうした大人自身こそ本当の恥知らずであると言われても仕方ないのだと思います。
 AKBファンの明るい自由さに対して、奴隷状態に置かれた自分たち大人が自らを省みることなく嫉妬するとしたら、それこそ醜い自己の姿を晒す行為に他ならない。現在のAKB批判は、事実、そのように見えます。恥を知るべきです。