ネット+1

レジまぐ版ブログ
 最近よく見ているブログに『世に倦む日日』がある。アップ直後は全文が読めるのだが、少し時間がたつと、レジまぐ版の有料ブログになる。ブログは1か月分が315円(税込)で売り出されていて、クレジットカード決済もできる。販売は月単位なので、先月の8月分を読むためには、別に支払う必要があるようだ。会員登録を済ませれば、課金は購入毎に行われるので、支払いシステムは合理的なものである。レジまぐのブログ・ランキングで『世に倦む日日』は1位になっていた。
 先日、『週刊アスキー』の連載、歌田明弘「仮想報道」でネットの有料配信について読んだことを思い出した。「ネット=無料ではない潮流ができ始めている」というのがその内容で、アメリカの新聞有料配信などの話がのっていた。iPadの発売もあり、ネット雑誌の配信が始まったので、その意味では課金配信はありなのかもしれない。僕自身も『日刊ゲンダイ』をネット配信で読んでいる。紙面版より安いのが魅力だ。また、仕事をしていれば、いつでも駅で買えるのだが、そうでない場合、こうした配信は便利だ。
 有益なブログを有料で売り出す方法は、会社によって独占されている出版・放送を個人単位で行うことを可能とするという意味で非常に魅力的な方法だ。
 『世に倦む日日』は、以前の日記にも書いたように、丸山真男に関する著作もある作者によるものであり、またその緻密な議論を見ると、ここまで書けば金払ってもいいやと思わされるものがある。また、同じブログ書きという視点からみると、ちょっと嫉妬するほどの取材と論理構成なので、いいブログを書きたいと思う自分には励みになるものだ。
 もちろん、すべてが同じ意見なら、自分がブログを書く必要はない。意見の違う部分もある。古田古代史を抜きに丸山「古層」論を語る部分とかは、いま一つといった感じだ。しかし、そんなことは瑣末な問題である。違いよりも共感する部分が多いから読むのである。また、違いがあるからこそ自分もブログを書く意味がある。
 ともかくこんなブログが書けるように、自分も頑張らなければと思う。
 一般的には、ブログの有料化は、これからもっと注目していきたい。

エンデの遺言
 このブログ『世に倦む日日』で「エンデの遺言」という話を知った。ブログ主によると、これはマルクス批判であるとのことだった。http://www3.plala.or.jp/mig/will-jp.htmlで内容が紹介されているので、参照してみた。
 ざっと見た感じでは、これはマルクスによる貨幣の廃絶の議論と同じものではないかという印象を受けた。特に「老化する貨幣」(貨幣に利子がつくのではなく、時間の経過に従って価値が減ずる貨幣・地域通貨)は、それによって蓄積は保証せず、生活に必要な消費のみを保証する方法として、マルクスの発想に近い。つまり、これが実現されれば、資本主義的貨幣は廃絶されるわけである。
 またここで紹介されるスイスの実験は、現存通貨と地域通貨の両方を同時に流通させる方法で、過渡期ならこれがいい。
 マルクス批判の側面としては、大企業が投機に使う巨大マネーと我々が生活に使う日常貨幣とは別のものであり、その意味で、企業を国家に置き換えたマルクスは間違っているという内容だった。つまり、本質的に重要なのは後者で、前者が普通に生活する市民の生活を左右するのはおかしいし、マルクスはその2つの貨幣を一緒に論じて混乱しているという主張である。
 まず社会的背景からみていこう。
 ヨーロッパでは冷戦の崩壊を経て、一般の会話ではコミュニズムの評判はひどく悪い。ソシアリズムならOKと言われる。共産主義は旧東欧・ソビエト国家による社会体制を指し、社会主義社会民主主義を含めた社会主義思想一般をさすからだと説明される。
 日本でも共産主義=旧東側諸国という文脈で、その大元のマルクスが批判されることが多い。新左翼ではマルクス=旧東側諸国にはならなくて、マルクスレーニンスターリン=旧東側諸国となる。そこでスターリン批判を経た新左翼はちょっと違ってくる。しかし、旧東欧諸国からスターリニズムを引けば、マルクスの言った社会であるという通説も新左翼側にあって、スターリンは批判するけれど、レーニンマルクスは批判しないという姿勢になる。この場合レーニンの言説が重要になるわけだ。
 かたや、イタリアのアントニオ・グラムシは、このレーニンの革命戦術を批判することによって構造改革派という新しい左翼を作るのだが、革命戦術としては有名だけれど、革命後の社会には言及が少ないように思う。まず何をもって社会主義共産主義社会と呼ぶかが不明確だし、実際イタリアでグラムシの党が政権を取っていないのだから、それを言うのはむずかしい。あえて言えば、クーデターで崩壊したチリの共産党政権がそれに近いのかもしれないし、南米の現在の左派政権下の国家がそうなのかもしれない。しかし、これらの諸国は社会民主主義に区分されるのかもしれない。
 ともかく国有化で問題が解決されるわけではなく、貨幣と生活の問題こそが本質的なものであるというのがエンデの主張なわけだ。ただ、外国企業による買弁化が、その国の国民生活を阻害するものであるのなら、国有化政策は有効なものとなる。
 別の視点からこのエンデの主張を批判すると、別にこれはマルクス批判ではなく、既存の社会主義国システムの批判であると考えたほうがすっきりする。中国はすでに市場経済を導入しているから、このエンデの批判は当てはまらない。とすると、非常に少数の国家に対する批判となるのだろう。
 また、イギリスにおいて製造業が急激に衰退した時代に、「イギリスには製造業は必要ない。なぜならシティ(=金融資本)があるからだ」といった議論があった。しかし、実際には、製造業が雇用を保証し、働く場がある人々が生活物資を購入することによって生活する以上、こうした主張は無意味なものであることが明らかになった。
 この例はエンデの主張の正当性を裏付けると同時に、マルクス批判を否定するものであると僕は思う。つまり、貨幣の自己増殖こそ悪であり、その物心崇拝が諸悪の根源であると主張したマルクスの主張とエンデの主張は非常に重なるのである。
 いまアントニオ・ネグリマルクスを越えるマルクス』(作品社・2003)を読んでいる。ここで主張されるのも、不況という現実下の労働者の生活の困窮こそ本質的なものであり、それがマルクスの作品で一番明確に表現されているのが『経済学批判要綱』であるというものだった。
 つまり、エンデの主張は正しい。そして、それはマルクスの主張に矛盾するものではないということではないのだろうか。そして、エンデの主張する「老化する貨幣」としての地域通貨が拡大する過程で、巨大資本との軋轢が生じる瞬間こそ、マルクスの言う革命の瞬間になるというのが、僕の印象である。そして、その移行は、決して簡単でない気がする。
 現代は経済より行政が優位にある時代である。資本主義もさまざまな政治制度によってかろうじて支えられるシステムである。そのため現代資本主義は修正資本主義と呼ばれている。だから、有権者の意思によって、資本主義がエンデの主張するものに代わる可能性もあるかもしれない。いずれにせよこの話題は、もっと論理的に深める必要があるだろう。

われらは遠くから来た そして遠くまで行くのだ………
 白戸三平のマンガ『忍者武芸帖』に載った影丸の最後のセリフ、「われらは遠くから来た そして遠くまで行くのだ………」 。その出典をめぐって、記述されたサイトがあるという情報をえて、調べてみた。
http://asa8.com/s/sakuhin/bugei_tooku.html
 このサイトによって、出典はイタリア共産党のパルミロ・トリアッティの言葉「われわれは遠くからきた。そして、われわれは遠くまで行くのだ」と知った。
 ところが、この点については、以下のサイトで議論が続いてた。
http://www.geocities.jp/mandanatsusin/tookukarafr.htm
 白戸三平の下で働いていた人の証言で、これはゴーギャンの絵「われわれは何処から来たのか? われわれは何か? われわれは何処へ行くのか?」から、白戸氏がオリジナルで作ったという証言が出ている。
 結局、作者本人からの証言はないので、トリアッティ説が近い気がするのだが、結論は出ていない。でも、影丸→トリアッティときて、猛烈にも燃えた(萌えた)ことも事実だ。
 問題意識をもってネットを見ると、いろいろな考えるきっかけがある。呆けていないで、僕も頑張ろうと思う。

小沢氏支持に関する補遺
 最後に、『日刊ゲンダイ』の新連載「私は小沢一郎を支持する」第2回で魚住昭氏は「安全保障に対する考え方など、小沢さんの政策には(私にとって)相いれない部分もあり、支持は「期間限定」ですが、今の局面では小沢さんに勝ってほしいと考えています。」(2010年9月4日3面)と語っている。僕も同意見である。