倫理の行方−『これから「正義」の話をしよう』から始める考察

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サンデルからの議論

これからの「正義」の話をしよう (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

これからの「正義」の話をしよう (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

 マイケル・サンデル著『これから「正義」の話をしよう−今を生き延びるための哲学』(ハヤカワ文庫・2011)は、著者によるNHKEテレのテレビシリーズ講義『ハーバード白熱教室』を以前見て、もう一度復習したいと思い購入した書籍です。
 折しも、防犯パトロールという警備関係の仕事についていたこともあって、何が正しいことで何が正しくないことなのかを根本的に考えたいというのが、読むことにした理由でした。
 読む前に気になっていたのは「もっともよい音を出すフルートは誰が持つべきか」という命題です。サンデルは「最も演奏のうまいフルート奏者である」と答えます。しかしその理由は、「その人が持てばみんなが聞いて楽しめるから」といった功利主義的な説明ではないと言います。そして功利主義的説明に代わりうるものがアリストテレス『二コマコス倫理学』に書いてあると言います。
ニコマコス倫理学〈上〉 (岩波文庫)

ニコマコス倫理学〈上〉 (岩波文庫)

 そんなわけでアリストテレスも読んだんですよ。この『二コマコス倫理学』は岩波文庫から出ていて、有名な『政治学』(1、3、4、5、7巻の抄訳・中央公論社世界の名著8・1979)の前半をなすものとして書かれています。『政治学』は昔読んだのですが、『二コマコス倫理学』はまだ読んでいませんでした。 この答えは、フルートには演奏されるという「機能」があり、一番いいフルートには一番よく演奏されうるという機能がある。だから一番いい演奏者が演奏するべきである。という考えです。そして、そうした行動は「徳」にかなっている。
 徳とは、人が「幸せ」になるために必要なものというのがアリストテレスの定義です。徳には2種類あって、「卓越性の徳」と「中庸の徳」があり、良い演奏というのは前者のことを指すのだと思われます。
 後者は、何事もやりすぎてもダメだし、不十分でもダメという意味です。これは物事のレベルにおいてもそうだし、そのレベルに応じて同じ行動が別の言葉として評価されるといったものでもありす。勇敢のやり過ぎは無謀だし、不足は臆病と評される。このようにアリストテレスの論理は言語を共有するところの社会に大きく依存しています。それは価値というものが他者の存在にかかる社会的なものであることを前提としてます。
 しかし、だからといって社会通念が常に正しいかと言うと、そうではなく、その正しさを保証するものこそ、「哲学的議論」であるということになります。哲学的議論を保証するものは、すべての人間が持つとされる「理性」です。それを担うのが哲学者、その能力は卓越性の徳ですね。
 ここで、サンデルに戻ると、読後に印象に残ったのは、現在のリベラリズムは価値の相対化およびすべての権利を許すという人権思想をその基本とする。それゆえ政治的判断には、理想の追求という大きな空白が生まれ、つまり何が理想であるかを政治は示し得ない点に大きな欠陥がある。それゆえ、その空白を埋めるべく、米国ではキリスト教原理主義といった誤った思想が流入しがちである。だから、それをコミュニティの倫理で埋めなければならない。コミュニタリアンの立場に立つサンデルらしい考え方です。
 ここでも、コミュニティの社会通念をそのまま理想とすることの危うさが指摘されるのですが、その危険性を阻止するものこそ、サンデルが自身の講義でも取っているスタイル、ソクラテスメソッドと呼ばれる、議論を通して真理を追求していこうとする姿勢です。この意味では、非常にハーバマスの議論による民主主義に近い考え方になります。アリストテレスの立場でもありますね。
 ここでふと思ったのは、僕のようなマルクス主義の立場に立つ人間は、政治はこうあるべきといった理想があるということで、欧米流のリベラリズムとは立場を異にするということです。「すべては労働者の利益に」という発想であり、ナショナリズムに対してはインターナショナリズム、つまり敵国といったって、相手も同じ労働者なんだから対立するのは無意味という発想です。
 ここには、そもそも、政治的価値がある。アリストテレスも『政治学』で言うように、古代ギリシャにおけるポリス(都市国家)の自由市民にとってどのような徳が必要かという観点から議論を進めている。その意味で、今のマルクス主義者は、現代資本主義社会における労働者の立場を離れることはできません。
 サンデルの議論は、ハーバードで世界中のエリート政治家を教育する政治哲学の教授というものですから、マルクスを出すのは適当ではない。しかし、その役割をコミュニティに置き換えることによって、同様の役割を負わせているように思えます。

ウェーバー理論による補完

 さて、最後に、政治的倫理の実現に関してです。ここで参考になるのは、ちょっと古いんですが僕が学生時代に読んだ本、向井守・石尾芳久・筒井清忠・居安正著『古典入門−ウェーバー支配の社会学』(有斐閣新書・1979)です。この本は大著マックス・ウエーバー『経済と社会』の解説本です。
 ウェーバーは政治の本質を「支配」として考えた、徹底的なリアリストですが、同時に20世紀初頭という当時のドイツ官僚制を研究することによって、官僚独裁に対する警鐘を鳴らした人物としても知られています。国民の利益ではなく、官僚という組織利益を優先する姿勢は「官憲国家」として表れるのですが、それは明治政府や当時のプロイセン官僚制を意味し、現在の民主党執行部が官僚に操られる事態をも含めていいように僕には思えます。これに対立するのはカリスマ的リーダーによって率いられた「ファシズム体制」なのですが、ここでサンデルの議論が関連してきます。つまりコミュニティという共同体の倫理は、その倫理の内容が吟味されなければファシズムに転化しやすい。これがデマゴーグによる支配、ポピュリズムの正しい理解と言えると思います。
 このどちらをも持避ける方法はあるのかが次の課題となります。
 その前にひとつ議論を追加しておきたいのは、市場倫理と社会倫理の対比です。ウェーバーによると、市場倫理とは「約束を守る」のひとつだけである。その意味で市場は反倫理的というよりも無倫理的な存在である(同書52頁)ということです。経済市場の考え方がもたらす倫理的側面はここにしかなく、その他の追加的な倫理はすべて社会の中で通念となった倫理である。だとしたら、そうした社会倫理を政治の場に持ち込むものこそ政党であり、その倫理が問われなければならない。ウェーバーは、日本の武士集団にも似たレーエン封建制から生じた主従関係に基づく近代政党を考えました。この集団の日本とちょっと違う点は、レーエン封建制は主人の正しさに基づく忠誠であり、主人が自分と考えを異にした場合には忠誠を尽くす必要はないという点です。
 つまり、無倫理である市場倫理に支配された社会に、コミュニティの倫理を持ちこむのは政党の役割であり、その政党の倫理的質を判断するのは選挙を通じて行う国民の役割であるという構図になります。
 ファシズムを恐れるあまり正義を語らなくなった現代リベラリズムのに対するサンデルの警鐘に応える道は、その倫理の質を問う姿勢に加えて、ウェーバー的な方法で支配の強権性をそぎ落としていくプロセスによって実現できるように思います。

「能力に応じて働き、必要に応じて取る」という言葉の意味
 蛇足ですが、この『ウェーバー支配の社会学』を読んでいて、あのマルクスの言う共産主義の2段階の第1段階、つまり「能力に応じて働き、必要に応じて取る」社会の意味がわかりました。これって「家族」なのでした。どこの家でもそうです。
 つまり労働者の連帯という紐帯を重視するマルクスにとって、革命後の社会とはこうしたものになる。そののち生産力が飛躍的に発展した第2段階においては、それこそ「労働が遊びになる」社会が実現するわけです。
 その意味で、小泉改革前の日本の「家族的経営」とは社員を家族のように遇するという経営方針だから、ある意味で社会主義的、共産主義的発想に基づくものだった。そして、こうした終身雇用といった経営は、第二次世界大戦中に興亜院がソ連他他国の強力な制度を導入し国力を高めるために作ったわけで、その意味で自然な成り行きであったとも言えます。
 小泉改革によって業績主義に切り替えられた家族的経営は、社会倫理から市場倫理という無倫理への切り替えと言えます。無倫理とは最初の契約に従うということ以外のすべてを無視する倫理なき社会です。もちろん労働者保護法という社会倫理は存在するけれど、市場倫理優位の社会においてはその支持基盤が弱くなる。
 ここまで書いてきたことを踏まえれば、だからこそ、今「正義」が語られなければならないと言えるのだと思います。