田中宏和『丸山真男の思想がわかる本』−その2

 前回この本について書評を書きましたが、1点重要な部分を書き忘れたので、追加したいと思います。
 これは、この本で、ただ1つ、僕がものたりない、いや論及が不足していると感じた部分です。
 著者は「第4章 丸山真男における「国民主義」の問題について」の第3節「4-3「日本的原像」把握の課題と方法」の「日本的原像理解」において、以下のように書いています。

結論から言うなら、日本書紀あるいは古事記の史料研究を基礎として日本古代の実像を浮かび上がらせようとする限り、誰の手による仮説においても、必ずこうした「古代国民国家」的な歴史認識として結果せざるを得ないだろう。その法(のり)を克えることができるのは、歴史学者ではなく、歴史認識から科学的方法を排除して心を痛めることのない哲学者のみである。

日本史学の世界
 周知のとおり、日本史学の世界には、社会科学とは一味違った独特の伝統的な学問様式が存在する。それは「東京学派」と「京都学派」という二つのグループによる対立的協業の構図である。単に国立大学や歴史博物館の研究職員だけでなく、広く在野の歴史小説家までインボルヴしてこの対立的構図は能動的に機能しているのである。一般的な印象を言えば、東京学派がオーソドックスな科学と考証の基準を守ってスタンダードな日本歴史像を慎重に提供、継承し、一方、京都学派が自由奔放にその枠を破って新説・珍説・奇説の類を乱発するという構図である。マスコミや出版社や歴史マニアが飛びつくのは京都学派の自由な想像力だが、一旦、歴史教科書記述というような深刻な問題になると、歴史学は科学と常識のスタンスに厳粛に立ち戻らなければならない。
 −−同書104-106頁

 日本古代史に関する学会状況に関しては、著者の言う通りです。それは、「古事記」「日本書紀」がすべて真実であるとした戦前の歴史学、「古事記」「日本書紀」のうち前半部は神話であるとした戦後歴史学の、それぞれ両方に共通するものです。
 しかし、引用中「その法(のり)を克えることができるのは、歴史学者ではなく、歴史認識から科学的方法を排除して心を痛めることのない哲学者のみである。」に関して言えば、この記述は誤りです。
 それは、科学的に厳密な文献検討によって成立した古田史学の結論、とくに古田武彦『「邪馬台国」はなかった』と同『盗まれた神話』における著述を参照していない、もしくは無視しているからです。もちろん古田氏は「古事記」「日本書紀」の2冊を、それのみ単独で研究したわけではありません。同時代資料、両書に引用されている文献などを文献学的に検証したうえで、これらの本を書かれています。邪馬台国問題については当然ですが。
 ですので田中氏の、「一旦、歴史教科書記述というような深刻な問題になると、歴史学は科学と常識のスタンスに厳粛に立ち戻らなければならない。」も、誤った記述であるといえます。この「科学と常識のスタンス」という表現が問題です。正確には「政府=文部官僚の公認である主流派学説」とすべきである。そして、それは「科学と常識のスタンス」ではない。
 「常識」=「現在学会で主流の考え方」とするのなら、田中氏の指摘は正しいのですが、「常識」=「古田氏の著作を読んだ人の常識的判断」とするのなら、誤った記述であると言えます。
 だって、常識で考えても、ジュブナイル小説じゃないんだから、古代大和朝廷が政府の正統性を主張すべく企画して作った「正史」に、いいかげんなことを書くわけがない。神話にしても、自己の正統性を主張するものであれば、それなりの納得のいくものを書くはずです。つまり、戦後史学の取った立場である空想の産物ではない。
 それは、古田氏の指摘のように、過去の神話から自己(大和朝廷)を正当化すべく「つぎはぎ」されたものと考えた方が、遥かに常識に沿う考え方です。もちろん、常識は単なる常識だから、そののちに科学的検証が不可欠です。古田史学の業績はそこにある、と僕は思っています。それは、古田氏の本を読んだ人なら、だれもが知っていることです。
 もちろん、上に引用した田中氏の指摘は、日本の古代史に対する学会や文部省=政府の保守的な姿勢が丸山の古層理論そのものであることを指摘するために記述されたものです。ですから、その目的には、かなった文章です。
 しかし、田中氏のような丸山古層論という批判視角をもった人物が、古代史に関しては日本アカデミズムの言説をそのまま受け入れ、日本の古代史を理解しようとするのなら、これほど残念なことはありません。
 日本の古代史は、戦前戦後を通じて滅茶苦茶な文献操作を不当にしてきた、そのことを古田氏は自らの著作で指摘した。それゆえ、その古田理論が厳密で正しいがゆえに、学会に所属するほとんどの古代史学者は、一部例外を除いて、反論できず、無視するしかなかった、というのが、古田氏の指摘どおり、僕には実情に思えます。それはこの問題に関心のある人が、直接、古田氏の本を読んで、自分の目で確かめるしかないことなのですが。
 学術的問題を、学術的に議論するのではなく、毀誉褒貶によって葬り去ろうとする「ノータリンの姿勢」は、脳が足りなだけに、僕には肯定できる立場ではありません。
 もちろん、このように考えるので、論証抜きの「超古代史」を支持する立場も僕はとりませんが。
 上に書いたことは、同時に、丸山古層論がいまも生きている証拠です。「科学」や「常識」ではなく、支配者にとって都合のいい「古代史像」が打ち立てられているといえるでしょう。
 最近見たNHKの歴史番組で、古代史学者が「日本に大和朝廷以外の先行する国家があるのは当たり前」と言っていました。それは、京都学派的なものかもしれませんが、いまや、そこまでの認識は得られています。問題は、その具体的な内容に目を閉じていることなのかもしれません。

PS 東日流外三郡誌(つがるそとさんぐんし)問題でも、すでに裁判で「原告の指摘する点に関して、偽書とは言い難い」と結論が出ているにもかかわらず、ウィキでは、いまだ「偽書である」との記述がなされています。僕は、これに関する古田氏の本『真実の「東北王朝」』(駸々堂)を現在読んでいるので、この問題については自分自身の目で判断したいと思っています。百歩譲って、かりにこれが偽書だとしても、上に書いた論証の価値は失われないと思います。これがダメだから、他もダメだろうというのは、推測であって科学的思考ではありませんから。