小沢無罪判決の意味

福島第一原発事故関係URL
武田邦彦(中部大学)ホームページ
http://takedanet.com/
実現させよう原発国民投票
http://kokumintohyo.com/
板橋区子どもを被曝から守る会
http://itabashi-kodomo.jimdo.com/
グリンピース
http://www.greenpeace.org/japan/ja/
都健康安全研究センター
都内の環境放射線測定結果 測定場所:東京都新宿区百人町
http://ftp.jaist.ac.jp/pub/emergency/monitoring.tokyo-eiken.go.jp/monitoring/
東京都ホームページ
http://www.metro.tokyo.jp/

 2012年4月26日、小沢裁判第一審に無罪判決がでた。このブログでは一貫してこの裁判の謀略性について記述してきたが、この判決によって日本の政治が大きく動く可能性について言及したい。
 そのためには、一見遠回り見えるが、昨年10月に出た週刊朝日緊急増刊『朝日ジャーナル−政治の未来図』を取り上げ、そのなかから新藤榮一氏の論文を紹介したい。

週刊朝日増刊 朝日ジャーナル 政治の未来図

週刊朝日増刊 朝日ジャーナル 政治の未来図

 この増刊号は、日本の政治学者を総動員したもので、一冊で現在の日本政治学の現状分析能力を測ることができるという、非常に興味深いものだった。
 様々な問題が語られた。御厨貴東大教授による「現在の政党とマスコミの関係は、戦前の政党と軍部の関係と同じであり、前者が後者に依存するうちに、政党政治の根幹を消滅させ、いずれ戦前のような全体主義体制を招くであろう」という予言。日本国憲法における参院の規定によって、1回の選挙による勝利(衆院選の勝利)だけでは政権の安定が実現できない矛盾とその解決方法など、いろいろな興味深い論点にみちていた。
 しかしその中で、最もシャープに現在の日本政治が抱える問題を突いたのが、新藤榮一筑波大学名誉教授による「グローバル化地方自治−21世紀型地方主権への道」論文であった。
 また、この論文が、中央政界のみに関する論文でなく「中央と地方」の章に分類されている点も興味深い。これまでの日本の政治学文献と同様、政治を中央政界のみで論じる不毛さを踏まえた、トータルな日本政治の分析となっているからである。
 政治とは単なる法制度上の問題ではなく、その法制度のうえで働く中央政府、地方政府の人的力量にかかった問題だからだ。その意味で、日本政府、海外政府の力量の問題も避けられない。また、こうした各政府内部の官僚+政治家の力と同様に、変革期における被支配者である民衆の力も現実の政治力学を正確にとらえるうえで欠かすことはできない。
 変革期にある世界のなかで、様々なアクター、それらの演じる力は均一ではなく、力の大小があり、それゆえ世界のトレンドが形成される。政治的世界の人々の動きとは、このトレンドに大きく影響されながら、政治史の前面に出たり背景に退いたりする。しかし、前面、背景の違いはあっても、その影響力は必ずしも前面であるからといって強いとは言い切れない。
 このあたりの目配りが政治分析の興味深い点だし、その分析力が問われる部分だ。

進藤榮一氏の分析

 進藤氏は、まずグローバル化の意味を分析し、先進国と途上国の格差の拡大、各国内での格差の拡大を指摘する。
 同時に、そうした「グローバル化の長くて黒い影(106頁)」の合間を縫って進行する「フラット化する世界」について記述する。つまり、危機の時代こそ、そうした経済矛盾に対する民衆側の行動が先鋭化することを「フラット化する世界」という項目で論述するのである。ここには情報伝達テクノロジーの発達も含まれる。
 以下、氏の論文を、直接引用しよう。

 そうした時代の波(フラット化する世界:引用者注)は、早くも80年代以降、韓国や台湾に経済発展と政治的民主化を育み、ソ速・東欧革命の波をつくって冷戦を終結させ、中国の急速な経済成長をつくり、東南アジアからラテンアメリカに達してBRICSを台頭させ、いま中東ジャスミン革命を生んでいる。
 グローバル化が、市民社会を成熟させ、格差を伴いながらもグローバルな発展を促していく構造だ。
 かくて米ソ超大国の時代が終わり、米欧日三極体制からG7を経てG20に至る「21世紀世界」が登場した。
 いったいこの光と影を私たちは、どう捉えるべきか。そしてそれは、地方と地方自治にとってどんな意味を持ち、そこからどんな未来展望を描くことができるのか。
 グローバル化がつくる矛盾し合う動きは、経済学者カール・ポランニーにならって、時代転換期の二重運動(ダブル・ムーブメント)と捉えられる。新しい時代はつねに、現存秩序を維持強化する動きと、それを突き崩して新しい秩序に組み替える動きとの、せめぎ合う二重運動として展開する。
 19世紀末から20世紀初頭にそうであったように、21世紀初頭のいま、その二つの異質な運動が交錯しながら展開している。(106-107頁)

 こうした現状分析のもと、進藤氏は日本の分析に入る。その分析のうえで最も重要な「アメリカ帝国の影」に論を進める。引用が長くなるが、この増刊号で、最も現状分析の冴えた部分なので、お読みいただきたい。

 前者、グローバル化の影は、20世紀秩序の担い手としての覇権国家アメリカ−その力と利益とイデオロギー−によってつくられ、維持強化される世界秩序である。ありていにいえば、アメリカ帝国の影だ。
 その世界秩序は、プロダクション・ゲームを軸に展開されてきた。それは、20世紀初頭、フォード、テーラーが開発したベルトコンベヤー生産様式に端緒を見る大量生産システムに始まり、覇権国家が主導する国家間競争ゲームとして展開される。ゲームは、基軸通貨ドルと核軍事力に支えられ、新自由主義政策下で、国境を超えて格差を拡大させながら、帝国の利益の最大化をはかつていく。
 グローバル化の波の中で日本は、帝国に貢ぎ物をする「進貢国」とブレジンスキー米大統領補佐官によって規定された。その規定に沿うかのように日本は、世界最大の軍事基地を貢納金(思いやり予算)付きで提供し、アメリカの「対日構造改革」指南書に従って、ドル安=円高政策に翻弄され、巨額の米国債を買い続けながら、国内企業の海外移転を進め、国内産業空洞化と地方経済衰退化に拍車をかけてきたのである。
 その日本の現実は、バブル崩壊に先立つ90年代、日本の市場開放を求める米国の圧力下で、大店法大規模小売店舗法)が改定された現実と重なる。それによって、床面積1千平方メートルを超える大ショッピング・モールが郊外地に出現し、中心市街地はシャッター街と化していった。
 福島をはじめ東北各地で生産され首都圏で消費される潤沢な原子力エネルギーが、20世紀日本の、プロダクション・ゲーム勝ち残りの条件として位置づけられていた。そのとき私たちは、佐藤栄佐久福島県知事(当時)が、国策に抗して原発設置に反対し、検察に起訴され有罪判決を受ける不条理な現実を知ることができる。
 そしてその延長線上に私たちは、民主党政権誕生後、小沢一郎幹事長(当時)が、配下の議員140人余を率いて北京とソウルを訪問し、新しいアジア重視外交の展開を誇示した数カ月後に検察から起訴され、事実上の政治活動を封印された、日米関係の闇を垣間見ることができる。
 それと同じ文脈の中で私たちは、鳩山由紀夫元首相が、普天間基地の県外、もしくは国外移転をめぐってワシントンや外務省主流派と対立し、政権の座から降りざるをえなくなった、日本の悲劇に想いを馳せることができる。だからこそ米国は、それと相前後し、安価な自国農産品と精強な兵器群と先端サービス分野を最大輸出品目とした「5年で輸出倍増計画」の一環としてTPP(環太平洋経済連携協定)推進を打ち出し、日本の参入を求め始めた。
 世界的経済学者、宇沢弘文氏や伊東光晴氏らが指摘するように、それは日本農業を壊滅させ、地方と農村を衰退させるだけでしかないだろう。疑いもなく、「黄昏の帝国」アメリカが進めるそうしたグローバル化の一連の動きは、地方の衰退を促し、地方自治の事実上の形骸化を進めていくことになるだろう。福島であれ沖縄であれ、地方が中央に蹂躙され、自国政府が地方を、帝国の利益に供する構造だ。(107頁)

 以前僕が「日本はアメリカの植民地であり、福島・沖縄は東京=中央政府の植民地である」と書いたのは、説明不足のため一見新左翼的お題目に見えたかもしれないが、こうした進藤論文的意味においてである。
 「外交とは武器を使わない戦争」というのは、文字どおりの意味である。戦場において良い上官の下につけば、それだけ生き残る可能性が高くなる。それは現実政治も同じだ。あるいは、ビジネス世界における職場でも同様だろう。

小沢判決の意味

 今回の小沢判決とは、こうした流れのなかでの判決である点が、極めて重要だ。だからこそ、戦前のロシア皇太子傷害事件における大津判決と同じく、日本の司法の、政治からの独立が問われる歴史的判決であった、と僕はとらえていいと思う。その意味では、小沢秘書に関する判決とは好対照をなす。
 小沢陸山会事件の経緯とは、民主党をつぶしたい自公政権が、アメリカ政府や中央官僚の意を体現して行った謀略裁判だった。それが、アメリカに対抗して自主的な日本政治を作ろうとした小沢氏の政治力をそぐために、自公政権に続く仙谷一派による小沢追い落としクーデターに利用されたと見るべきだと僕は考える。
 なぜなら、これまで国内政治において修正申告だけで済まされてきた帳簿上の問題を、あたかも大政治疑獄であるかのように報道し、いまだに小沢流=旧自民党的体質として非難することができるかのように報道する新聞社の姿勢(とくに朝日新聞)は、仙谷の民主党内の政治的クーデターに加担し、旧来の記者クラブ体制という情報の独占の既得権益維持を目的とした報道と官僚との癒着体質を語って余りある状態だったからだ。
 それは、鳩山内閣の対等な日米関係に対して、そんなことをしたら日本はとんでもないことになるという自公と外務省に同調したマスコミの報道姿勢とも密接に関連する。
 アメリカ政府に対して自主的な外交を模索しただけで、この反応である。これは、旧自由党自民党時代の吉田・鳩山内閣から橋本内閣の時代から比べても、大幅な政治的後退である。だから、この裁判は単なる司法手続きにあらず、戦後一貫した日本政治の懸案である日本独立の問題であると僕は考えたのである。
 そして、そうした手続きを経ずして、日本のアメリカからのこうした意味での独立、外交政策におけるフリーハンド、しいては国内における沖縄・福島、そしてすべての原発立地地域への中央・地方という植民地関係の解消は、ありえないと僕は考えるのである。

進藤氏の処方箋

 進藤氏は、「ポスト・グローバル化ヘ」という項目を立て、こうした中央の政治状況に対する処方箋を提示する。
 中央政治におけるこうした混迷を打開するには、地方政府における自主的な、しかも行政単位を越えた模索、なおかつ国境さえ超えた連携が重要になるという指摘である。そして、そうした動きはすでに出ていることを進藤氏は記述する。
 知事や首長が誕生する度に中央政府に請願しに上京する姿勢を、これまで我々はたびたび見てきた。しかし、本当に大切なのは各自治体における自主的努力であり、各自治体同士の連携である。
 それは、僕らが様々な場面で、とくに現在の、東日本大震災の復旧・原発再稼働に対する反対の報道で見ているものだ。そして、それだけでなく、地方の経済的独立のためのさまざまな動きとして、進藤氏は実例を記述している。
 中央官僚によって、そしてアメリカの意を受けた中央省庁によって蹂躙されてきた地方政府と日本民衆の力は、地方政府の改革の意欲を持つ政治家と官僚の力と連帯することによって逆転することができる。それこそが「日本の政治の未来」に対する希望である、と進藤氏は考えているように思える。

結語

 そしてまた、そうした状況を可能にし、より促進するためにも、地方のこうした動きを促進するために、指導力のある政治家の登場が望まれる。それは、野田総理大臣とは、全く逆の政治姿勢だろう。
 2009年の衆院選挙で我々が期待したのも、こうした方向性を持つ民主党マニュフェストだった。マニュフェストへの回帰を主張する小沢氏の復権民主党代表への返り咲きを切望してやまない所以である。