マイケル・サンデル『ハーバード白熱教室』

 NHK教育テレビの放送全12回を先程見終わりました。若干それに対する感想を書こうと思います。
 この日記を書くためにWikiペディアも参照したのですが、そこ書かれていたこの講義に関する「ドイツの反響」と「日本における西部遇氏の批判」は正当性を欠くように思えます。
 まず、西部氏は、テレビ版ではなく、この講義の書籍版『これからの「正義」の話をしよう:いまを生き延びるための哲学』(鬼澤忍 訳、早川書房、2010年)を指して、エミール・デュルケームの集合表象としての正義について触れられていないと批判します。
 しかし、この指摘はテレビ版に関しては正しくありません。たしかにサンデル氏は、名前をあげて集合表象としての正義については語っていません。しかしその事例として1950年ころの南部における奴隷制に対する意見を取り上げています。これは集合表象としての正義の例であり、正義の概念は社会において異なることを示しています。このことは何度も繰り返されます。
 デュルケームは、廣松渉著「デュルケーム倫理学説の批判的継承」(『世界の共同主観的存立構造』所収(1972・勁草書房)の中で紹介されるように、社会学的に道徳の存立する仕組みを解明しようとした社会学者です。ですので、西部氏の指摘する集合表象としての正義(道徳、倫理)の成立機序については、サンデル氏は具体例を示すことによってこの講義の中で説明していると言えます。
 また、西部氏は「『ある種全体主義的な国家をはじめとするコミュニティにおける、全体的な政治的な決断の場面』が抜け落ちている」と批判しますが、むしろそうした決断自体が、議論に値するものであるのかを問うべきだと思います。
 サンデル氏は、コミュニタリアンの立場を取っていますが、講義の中でも紹介されるように、コミュニタリアニズムの二つの側面、(1)共同体主義的側面、(2)道徳を正義概念に持ち込もうとする側面のうち、(1)にのみ依拠する立場を否定します。講義の中でさんざん家族とか地域社会の紐帯が強調されるのは、僕自身不愉快ではあったのですが、そうしたローカルな倫理や義務が、多元主義的他集団と重なる際の複数の義務間の葛藤についても議論しています。つまり、そうした際に、サンデル氏は、(2)の重要性を持ち出して、一つの共同体における独善的な道徳に固執する立場を批判している。つまり、この方向性からすれば、西部氏の批判のうち後者である「全体主義的政治的決断」という現象は、おのずから無価値なものであって、議論の対象にはならないわけです。つまり、その理由を簡単に言えば、西部氏が重要と考える「政治的決断」は失敗例だからです。
 同時にサンデル氏は、個々の事例に突き当たった時、原理と現実との間を横着せずに哲学的に考えることの重要性を語っています。それゆえ、Wikiに載っているドイツの政治学者レーゼ=シェーファー氏の主張する、サンデル氏の議論はドイツ国内における共同体的紐帯を破壊するものであるという指摘も、誤りであると言えると思います。
 西部氏やレーゼ=シェーファー氏のような極端な保守主義者には、道徳や倫理についての根底的(=哲学的)なとらえ返しではなく、無反省な郷土愛を愛着する姿勢があります。その姿勢が強すぎるために、ファシズムのような1つのイデオロギーによる民族的一体化を、たとえそれが全体主義であっても、擁護するような姿勢があるように、僕には思えます。サンデル氏の、権利や自由によってではなく、アリストテレス的な目的論による善であることの可能な道徳の位置づけ、そしてそれによる正義の位置づけは、こうした両氏の考えとは相容れないものであるように思えます。
 ですので、日本版Wikiペディアに紹介されるような『ハーバード白熱教室』の解説は、不当なものだと結論付けることができると思います。
 むしろ、このサンデル氏の講義に対する正当な批判とは、家族や共同体に沿って説明される道徳の形成に関する説明だけでなく、同じ学生、同じ労働者、同じ人類といった普遍的な集団における倫理の志向に対する説明も同時に可能であり、その中でアリストテレス的目的論に沿って正しい道徳の在り方を考えるべきでではないのか、という点にあるのだと思います。なぜこれらの集団が普遍的と言えるかといえば、国籍を越えて、同じ生活様式を行っており、それゆえ同じ利害関係を持つからです。
 アメリカという共同体がこの講義で何度か言及されました。しかし、同じアメリカ人でも、ビル・ゲイツより、他国の同じ貧乏学生とか、同じ生活のために苦労しているサラリーマン、労働者の方がよりシンパシーを持ている人も、ハーバードにはたくさんいるのではないかと思うからです。そして、事実、そうした主張をした学生もいました。
 サンデル氏のロールズ正義論に対する批判とは、つまるところ権利と自由による正義の説明だけでは、国家のあるべき姿を説明することはできず、そこには道徳的裏付けが必要であるというものです。そして、それを示そうとした。その例として、国家が同性愛者の法的結婚を認めることを善とする法の道徳的意味を肯定的に見出せるというものでした。
 サンデル氏のロールズ批判とは、道徳的国家とその法はありうるのか、そして、その道徳はその共同体の1人1人の構成員に対して抑圧的でないあり方は可能なのか、という問いに応えようとするものであるように、僕には思えます。ですから、西部氏やレーゼ=シェーファー氏のような薄っぺらな批判の対象にはなりません。
 むしろ、廣松渉氏の先に上げた論文ような、集合表象と個人表象としての道徳、倫理の葛藤を如何に解決するかに議論は集約されるべきなのだと思います。サンデル氏が示した、哲学的反照関係といった、原理と事実との絶えざる検証は、その1つの答えでもあります。しかし、サンデル氏が、同時にこの講義の中で語っていたように、我々はこの12回の講義を終えた今も、問題の入口に立ったに過ぎないということでもあります。
 結論をズバッと言ってくれないサンデル氏の姿は、最初、ちょっと物足りない気もしたのですが、それは彼の知的誠実さ故と善意に解釈することもできると、いまは思っています。
 僕としては、Wikiやその他の著名ブログの感想をうのみにせず、自分の目で見て、確認することの重要性を再確認したし、ここで再度指摘したいと思います。
 そして、サンデル氏の試みは、廣松渉氏の事的世界観を通しての道徳科学への深化の試みと重なる部分があったり、もっと言えばエンゲルスの統一科学へもつながるし、トマス=クーンの科学批判もつながる側面があることなどがわかった点が収穫であったように思えます。