惜別2010

 今年11月から職業訓練に通い始めて、全5か月のうち1か月が過ぎました。学科は理論と実践の授業で組み立てられており、第1期生ということもあって、運営側が気合を入れて組み立てたカリキュラムは、非常に良くできたものです。
 もし自分がこの訓練に参加せずに、しかも仕事も決まらずに年末を迎えていたら、いま頃どんな気分だったろうかと想像したりもします。
 ひょっとしたら、不本意ながら、収入を得るために、気の進まない出版に戻っていたかもしれない。それとも、初心を通して、自分のやりたい仕事をフリーでしていたかもしれないとも思います。でも、これは、単なる想像です。

左翼・社会主義者としての立場
 そんな学校のクラスメートとの帰り道の話です。僕がブログをやっていることを話すと、ぜひ見たいということだった。それで、政治中心のブログなんでどうかな、とは言ったのですが、話の流れで、僕のブログは非共産党系左翼だという話になりました。「非共産党系左翼とはフランス社会党のスローガンだ」とは説明したのですが、いまひとつわからないという顔をされました。
 こんなとき自分の立場をどう説明すべきなのか、まったく困ってしまいました。
 一言でいえば「反帝・反スタ」なのですが、これさえ「反帝国主義、反スターリニズム」という言葉を説明しなければなりません。
 左翼で社会主義者であること、マルクスの信奉者であることなどが僕の言いたかったことなのですが、左翼と言うと北朝鮮軍事独裁とか中国政府の人権弾圧を支持しているのではと勘繰られます。実際には、全く逆で、むしろ弾圧されている北朝鮮人民や中国人民の側に立つことなどを説明すれば、少しは正確になるのかもしれません。
 こんなとき、社会主義者と言って、そのまま労働党支持と明言できるイギリス人はうらやましいと思ったりします。
 ただ、僕自身は新左翼の流れをくむ者だし、かといって、内ゲバや現在の日本国内での武力闘争を支持するわけではない。武力闘争とは、民衆が追いつめられて、他に道がない時に行われるものだし、それは圧政に対して民衆が通常持つ抵抗権の一種でもあります。他に道があるかないかはいつも問われる問題だし、その判断によって新左翼の中でも意見が分かれて、当然、路線も違う。これについて僕は、様々な立場があっていいと思うし、必要な時に同一の敵を撃てればいいとだけ思っています。
 僕は常に現場をもつ活動家を尊敬しているし、自分がそうした人々より上に立つとは決して思っていません。彼らは常に尊敬の対象です。
 しかし自分がこのブログ以外に現場をもっていないとしても、だからといって自分を卑下する気もないし、いろいろな立場があっていいのではと思っています。その意味で、現場をもつ人々に敵対することだけはすまいと思っています。
 昔した譬えで言えば、喧嘩をしている人がいるとして、その周りで取り囲んで見ているにしても、警察は呼んでも、決して喧嘩をあおったりはしない立場です。そうでなくてもこの世には悲劇が多すぎるのですから。
 そんなわけで、もし今度聞かれたら、自分は社会主義者であることをはっきりと言おうと思っています。
 政治的中間派の人々は別として、右翼には、チベット問題で中国政府を批判するにもかかわらず、過去の日本の満州支配はいいことだみたいなことを平気で言う人がいます。もし中国のチベット支配が誤りなら、当然日本軍による満州支配も、内容が同じなのですから非難されて当然なのです。そんな右翼の立場を自分は取れません。

2010年の世界
 アメリカは今戦争をしている。しかし、来年にはイラクから撤退し、アフガンからも撤退を始めるといいます。
 こうした戦争の他にも、世界にはいまだ貧困や内戦のために多くの人間が死んでいる。ここまで発展した世界にも、その発展の恩恵を受けられない人々がいる。
 日本国内でも、鳩山民主党政権の誕生で減少に転じた自殺者数が、菅政権の登場と共に再び増加に転じて3万人を越えたといいます(http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/2740.html)。日本における自殺者の多さは先進国中異常なもので、俗説に言う高福祉国家の自殺率高さは全くのウソであることもグラフを見れば明白です(http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/2770.html)。第二次世界大戦後最も少なかった1968年頃の日本の自殺者数と比べると現在の数字は2倍以上になります(http://www.mhlw.go.jp/toukei/saikin/hw/jinkou/tokusyu/suicide04/2.html)。
 こうした自殺者数の動きは景気の低迷と比較されることが多いのですが、僕はむしろ政治に希望が持てるか否かによって変わっているのだと思います。
 事実、民主党鳩山政権が誕生したのちは、経済的にあまり変化がなかったにもかかわらず自殺者数は前年同月比で減少に転じています。考えてみれば当然のことで、未来に希望が持てなければ人は自殺を選ぶのです。その意味で、現在の菅政権の政策は犯罪的であると言えると思います。これは小泉=竹中改革の時代と同じくらい犯罪的なものです。
 橋本内閣 1996年1月11日-1998年7月30日
 小渕内閣 1998年7月30日-2000年4月 5日
 森 内閣 2000年4月 5日-2001年4月26日
 小泉内閣 2001年4月26日-2006年9月26日
 安倍内閣 2006年9月26日-2007年9月26日
 福田内閣 2007年9月26日-2008年9月24日
 麻生内閣 2008年9月24日-2009年9月16日
 鳩山内閣 2009年9月16日-2010年6月8日
 菅 内閣 2010年6月8日-
 Wikiペディアから作成した上記の各内閣の在位期間と最初のグラフを比較すると、バブル崩壊後に跳ね上がった自殺者数は小泉内閣登場後も決して減少せず、それが政権交代をもたらした国民の生活苦を表しているように思えます。
 鳩山内閣の時期と菅内閣の時期を比べると、明らかに菅登場以降自殺者数は急増しています。そして、今年も3万人越えが予想される。それはニュースに言われるように、3万人を下回る今年前半の予測に反して、後半で急増したためと言われ、それは菅内閣の登場と歩調を合わせています。

棄民主義から民主主義へ
 話が日本の自殺者数の推移に集中してしまいましたが、政治が国民の生活から目をそむけ、自らの政権維持だけのために、アメリカや官僚の手を借りようとするのは、近年特に目立つものです。橋本内閣の頃までは、官僚も国内産業育成のために努力したと言われます。まさに城山三郎官僚たちの夏』の世界です。でも、「政治は腐敗する。絶対的な政治は絶対に腐敗する」というわけです。国民に目を向けない政治は腐敗するし、官僚も同様です。視聴者ではなく、スポンサーしか見ない民間放送局、新聞も同様です。NHKですら、その官僚機構的特徴から、総務省や政治家の方向を見ても、視聴者の方を見ることはありません。
 こうした勢力こそが、2009マニュフェストに賭けた国民の願いを裏切ったように思えます。
 ことし5月の鳩山退陣や8月の民主党代表選に見られるように、総務省やマスコミ、そして国家官僚や検察の利益を体現した勢力による世論誘導は、ほとんど洗脳に近いものでした。その結末が、現在の菅内閣の低支持率です。
 岡田幹事長や菅総理大臣は、自らの失政による支持率低下を、小沢のせいに転嫁して何とか支持率回復をもくろんでいますが、小沢が排除された後に民主党の支持率が回復するかといえばそれはNOです。
 それは、敗北した参院選挙以降の各選挙の時点での世論調査結果が、政治と金で不支持なのではなく、マニュフェストを裏切っている菅民主党の政策に不信任を突きつけていることからも明らかです。
 ですから、もし民主党に希望があるとしたら、菅・岡田・仙谷・枝野の退陣以外になく、そののちの小沢首班による2009マニュフェストへの回帰しかないと言い切れると思います。それは、官僚との対決であり、アメリカの不当な日本属国化への決別であり、世界のすべての国との等距離外交であり、国民のための政治にほかなりません。
 たぶんそのことを、すでに国民はわかっているのだと思います。
 棄民主義とは、文字通り民を棄てる政策のことです。戦時中の特攻攻撃・玉砕がその代表です。戦時中、国内の高級官僚を生かすため(その存命期間を少しでも延ばすため)に、若者が負ける戦争のために犬死させられた。政策担当者は、こんな攻撃をする前に敗北を認めるのが、本当に勇気ある責任の取り方であったはずです。しかし、歴史的に彼らはそれをしなかった。
 現在の菅内閣は、御厨東大教授が現代の軍部として譬えたマスコミに依拠するかたちで、同じことを行っています。それは、主権在民である民主主義とはかけ離れた姿です。

社会主義者として、2011年に望むこと
 まずは社会民主主義的危機管理だと思います。官僚制改革は、官僚が国民の税金で養われているのだから当然のことです。そのうえで、医療・教育・住宅の無償化を行い、人間が尊厳をもって暮らせる年金の整備が必要になるのだと思います。
 もしこのブログの読者が、そのための財源を心配するのなら、官僚制改革と藻谷浩介氏の『デフレの正体』に書かれた経済政策を行えばいいのです。これを行えば税収は確実に伸びます。要はやる気なのです。そしてそれをやらせるという国民の意思なのだと思います。
 イギリス国民が第二次世界大戦に勝利したのち、その英雄であるチャーチルを排除してまで行ったのが最初に書いたような社会民主主義的諸改革でした。彼らにできて、なぜ日本人にできないのか。それは、ひとえに、日本の有権者が現実を直視する勇気を持てるか否かにかかっているのだと思います。
 そののちは、世界の人々が生命を維持し、尊厳をもって暮らせるだけの暮らしを、余裕のある国の市民が少しずつ金を出し合って保障する世界なのだと思います。こんなことも、じつは、すぐできることなのです。そのために必要なのは、やはり、われわれ日本に住む人々が、現実を直視する勇気をもつことなのだと思います。