黄金律

 先日、大学時代のゼミ同窓会に出席しました。このゼミの先生は政治思想史でJ.S.ミルを研究されている方です。先生はサイデル『正義論』をコミュニタリズムであると批判された後、僕らが大学生だった時代から先生自身の考え方が変わった。いまは、昔のように万民平等を信じられなくなった、などと述べられました。先生はいま、何をもって万民平等を説けるかの基礎となる理論を探していて、それで本を書くということでした。
 酒の席だったのですが、「カントの『人格を手段としてではなく常に目的として扱え』はどうですか?」と聞いたら、「あれは定言命法で論理的説明が弱い」との返事でした。であれば「黄金律の『己の欲せざるところ、他に施すことなかれ』はどうですか?」とも聞いてみたのですが、先生としては、もう少し理論的に詰めたいといったことを語られました。
 話題は、自分がそれ以上思いつかなかったので、そのあたりで終ったのですが、先日、少し思いついたことがあります。「関係性の正当性」といった問題です。

黄金律
 黄金律とはウィキペディアにも載っているように宗教文化貫通的なもので、僕が引用したのは孔子の『論語』ですが、聖書にもユダヤ経典にもコーランにもヒンドゥー教にも類似の言葉があることから、黄金律と呼ばれるものです。
 キリストの言葉として聖書に伝えられるのは、もう少し積極的なもので、「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」というものだそうです。博愛的ですよね。
 先生としては、社会学言語学精神分析、経済学など政治学の他領域のリサーチもして論文をまとめるということだったのですが、とすれば、廣松渉デュルケーム倫理学の批判的継承」(『世界の共同主観的存立構造』所収(1972・勁草書房)の社会学的に分析した倫理問題に行きつくのかなとも思いました。
 結局のところ、直観によるのでなければ、こうした帰納法的分析にならざるをえないと思います。
 カントの仮言令法(もし〜なら……すべき)ではない定言命法(いつでも……すべき)を基礎づけるとしたら、それは人間世界における普遍妥当性が要求されるわけで、人間自体とそれを取り巻く世界に対する分析が、その判断の前提として必要となります。カントもその道筋を通って定言命法に至っているようです(Wikiによる)。

推論
 こうした議論を取っ払って、一気に結論を書くと、道徳とか善とかはそれぞれの言語の中で定義づけられる概念であり、言葉の定義とはその社会に固有のものである。当然文化が変われば「善」も「道徳」も変化しうる。しかし、世界的に拡大したこの世界史の中で言語の標準化も進む。マルクス的に言えば「世界市場を獲得した資本主義は、それに見合った言語と思考様式を世界に広める」といったところでしょう。
 メインカルチャーにおける言語とその定義とはこのとおりなのですが、「だとしたら人間はこうした社会(または言語)の奴隷なのか?」という疑問が生まれます。
 ここにメインカルチャーサブカルチャーの相克があるのですが、資本主義社会はそのあり方から、メインとサブの両面を生み出す。まさにそうした階級闘争的政治力学によって、言語定義におけるサブがメインにとって代わる瞬間が生み出される、みたいな説明になるのだと思います。
 もう少し科学領域の説明に切り替えると、言語の定義はこのままでOKだとしても、概念を学術的に操作する「メタ言語」という概念があります。「メタ言語」とは、通常使われる言葉の意味とは別の、より厳密に定義された意味の言葉です。通俗的にこうだと定義された言葉や、その言葉に従った推論があるとしても、「メタ言語」や「論理的推論」を通じて、これまで言われてきたものと違った「定義」や「推論における結果」を生み出すことができる。そしてそれは科学的な「論証」によって確定できる。だとすれば、この科学者の言説は、上に書いたサブとメインの逆転に相応する事態を生み出すことが可能となります。
 私が思うに、カントにおける「先験的」と「後天的」の区別は、現代風に書き換えると、「DNA」と「社会学習」に置き換えることが可能だと思います。つまり「生物としての人」と「悟性としての人」です。
 身体論でよく議論となるように、身体=生物を抜きに人間の思考は完全には理解できないというのは正しい見方です。そして身体は社会によって違うのだから話はややこしくなるのですが、ここでは資本主義的に標準化されたものと考えて、もしくはDNA的に標準的な人と考えてみたいと思います。
 DNA的に人を説明すると、「感覚」、「学習」、「推論=シミュレーション」は生物として他の動物と程度の差はあれ共通するものです。アプリオリ(先天的)なものと言っていい。
 他方、「言語操作」「高度な推論」などは社会的に学習されたものです。アポステリオリ(後天的)なものです。しかし、社会も上に書いた資本主義化によってほぼ標準化されています。世界の共通語としての科学領域においては、特にその標準化は著しいと考えていいと思います。
 この科学(もしくは哲学)における推論の技法を使って、最初に書いた定言命法と黄金律を考えた時、他者を攻撃しなければ自己の権利を守れないと考える近代以前の状態と現在の資本主義的民主社会の状態は当然異なる。国内の人と人との関係と、国際社会における各国政府との関係も当然異なります。
 日本のような社会において、無条件に孔子的立場を取ることは可能ですが、キリスト的立場を取ることは、ちょっと危険な感じがします。カントは努力目標としてはありだと思うし、これが努力目標たるゆえんは、「万人平等」といったフランス革命的な命題よりも、より1歩進めた「基本的人権」のあり方を示しているからだと言えます。
 こうした判断ができるのは、「対人関係的妥当性」、つまり「関係の正当性」における判断としてです。ここで「妥当性」、「正当性」という言葉は定義が必要ですが、この定義はいまの日本において社会的なものとして通用している普通の意味で使います。

 こうして考えると、以下の図式が成り立ちそうです。

 孔子「己の欲せざるところ、他に施すことなかれ」→現代の日本社会でも通用する法則(メインカルチャーによる道徳規範)
 カント「人を手段としてではなく常に目的として扱え」→現代の日本社会では通用しないが、あり方としては正しい革命的な関係性の法則(サブカルチャーによる道徳規範)
 キリスト「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」→マルクスの想定した共産主義社会の道徳規範

 孔子については、言葉の意味を確かめようと検索をかけてみたのですが、iwatamさんのサイト(http://iwatam-server.sakura.ne.jp/column/26/index.html)の意見が参考になりました。ただここで孔子が言っているのは「自分にとって悪い行為を他者にしない」という意味だと取れるから、「いい行為はした方がいい、ただしその善の程度を考えながら、相手に迷惑にならない範囲で」という意味であるような気がします。
 カントの言葉はひどくラディカルなもので、通常の人間関係においては正当なものなのですが、産業社会においては常に踏みにじられる考え方です。それを不当な行為を受ける側が受容するか拒否するかによって態度は分かれるのですが、拒否した場合は社会通念に照らして法的保護が受けられるという考え方です。つまり労働規律に関しては、それが妥当なものであれば事業者側に有利な判決が出るものの、業務目的に反するものは被雇用者側に有利な判断が下されることになります。法的にはです(後ろにより正確なカントの言葉を引用しました。こちらなら、よりわかりやすくなります)。
 キリストの言葉は生産力の飛躍的発展によって労働が廃止された共産主義社会なら当然正しい行動になるのだと思います。それでも越えられない限界もあるのですが。たとえば自分の生命を他者のためにさし出すような。
 でも、これも前後の文脈から見ないといけないですね。江礼宮夫の聖書の呼ぶ声(http://www.asahi-net.or.jp/~zm4m-ootk/24.needs.html)を参照しました。このサイトによれば「隣人を自分のように愛する」という言葉の意味としてあげられている言葉のようです。
 「銃殺されそうな人の代わりに自分が銃殺された神職者」といった究極の例にあるように、キリストの言葉を厳格に守るということは、厳しいものです。ただ、キリストは現世のみならず死後の世界で罰されないことを重要視しているから、現世で不利益を受けても来世で不利益を受けるよりも、その両方で罪を犯すよりも、死後に救済される方がまし、となるわけです。
 僕のような来世を信じない者はどうしたらいいのかというと、類的存在としての人類を神の位置におくか、あるいは連綿と続く哲学的科学的正しさに価値を置くということなのかなと思います。ひとこと、「プロレタリアの大義」と言ってもいいです。

結論
 カントの定言命法は、人の存在と尊厳が脅かされそうになった時、現代社会において当然守られなければならない規範であると言えそうです。その意味で基本的人権と言ってもいいのだと思います。
 憎しみによる殺人の場合、殺す相手が目的でナイフは手段みたいに見えますが、実際には、相手のいない状態が目的で、相手の生死はその手段であると見るべきなのかなと思いましたが、人を殺すこと自体、その生に含まれる人格を目的として扱わないことなのだから、この例のように生命を目的や手段に分ける必要はないですね。
 わかりにくくなってすいません。
 カントの引用文は、正確には「汝自身の人格およびあらゆる他の人格の内なる人間性を、常に同時に目的として取り扱い、決して単に手段としてのみ取り扱わないように行動せよ」でした(論文を参照しました。http://ci.nii.ac.jp/naid/110000469273)。この論文の解説によると、「人格とは理性によって与えられた道徳法則に従って行動しようとする人がらであり、人間性とは人間の中の人間らしさである。人格は他の物件と違って、絶対的価値をもつ」と説明されています。
 定言命法とは、根本方式から発して、第1から第3方式まで展開される考え方ですが、この論文で初めて知りました。僕の引用したのは第2方式でした。
 ともかく、人には他者から絶対にされたくないことがあるわけで、カントの定言命法の第2方式はそれをうまく言い表していると思います。それは単にフランス革命というブルジョア革命における「平等」以上の意味をもつ、「結果の平等」をも含む表現なのだと思います。そこから現代の人権保障という考えが出てくる。
 黄金律もこうしたカント的考えを含めて考えれば、すべての人間間の相互保障という意味合いで理解できるのだと思います。
 つまり、ゼミ同窓会での議論とは、結局、「カント的に考えなくてもいいけど、もし自分の人格が軽んじられた時、あなたは満足できるの?」という質問によって、簡単に解決できる問題だと思います。「自分は絶対にそんな立場にはならない」と言える人ならいいのですが、そんな人はいても、「それでも、もしそうなったら?」と言われたら「NO!」と明確に答えると思います。もっとも、「それでも、絶対にそうならないのだからいい!」という人もいると思います。その場合には、単に、「思いやりが足りない」と答えればいいのだと思います。
 つまり、何でもしてやれではなく、「人が人として生き、尊厳をもって暮らすことを保障すること」とは、政治の最低限の目的であると言えるのだと思います。これは「人格や人間性の社会における保障」だと思います。
 論理展開上問題があったり、議論が荒いところが読み返して目立ちますが、このへんは宿題とさせてください。叱咤ご鞭撻を求む。