秘密警察による政権

 以前、KGBやCIAが政府を乗っ取ったらどんなふうになるだろうと考えたことがあります。そうか、こうなるんだと思ったのが、いまの日本政府の状態です。
 プーチンに代表される秘密警察出身の政治家はいるのですが、いまの日本政府は、公安や内閣調査室、警察、自衛隊出身の政治家というよりも、これらを利用できると踏んだ素人が作った政府です。ですから、当然そうした謀略機関に対する統制はできない。要は、自分達はうまく謀略機関を利用しているという妄想に基づいて政策運営がされている、実は素人の集団だったというのが、より正確な表現であるように思えます。
 公安部外事3課から盗み出されウイニーで公開されたテロ関連資料や、今回のユーチューブで公開された尖閣諸島衝突事件の映像も、すべてこうした自分が主導権を握っていると勘違いした素人政治家による統制力のなさを物語るものでした。公安のものは内部犯行説が言われているし、海上保安庁の証拠ビデオも同様です。
 どちらも、これら組織の性質上、見つかった犯人は公表されず、闇に葬られるのではないかと予想されています。そして最後に残るのは、日本政府はこうした機密情報すら保持できないという対外的信用の転落のみだと考えられます。
 かたや中国のリアクションを生み出した尖閣諸島問題は、メドヴェージェフ、ロシア大統領の北方領土訪問へと波及し、いまはアメリカの大幅金融緩和というドル安政策にまで進んでいます。本日発売の『日刊ゲンダイ』では、こうして中露米の3カ国に睨まれてカエルのようにすくんで身動きできない日本の姿が取り上げられています(高橋乗宣さんのコラム「日本経済 一歩先の真相」)。
 海上保安庁のビデオの流失は、このような菅政権の、外交を放棄し、ただただ責任を検察といった行政機関に押し付けようとする姿勢に反発する勢力によるものだと思える理由があります。中国政府の説明に反する中国側からの衝突は、明らかに政権交代後の対中政策の覚悟のほどを測ろうとする中国政府による観測であった。いまや中国国民も政府の説明と食い違うビデオを見て、自国政府への不信を募らせています。これはいいことです。
 しかし、結果として中国政府の反発に動じた菅内閣の無策外交が明らかになった。それがゆえに、ロシア、アメリカへと問題が波及しました。
 もともと菅内閣は、自身の政策によって選ばれた政権ではありません。2009年の勝利は小沢と鳩山が作ったものです。それを、検察と結託した仙谷一派が簒奪したものです。菅内閣にできたのは、小沢=鳩山路線の否定だけだった。そして、その菅内閣の独自政策の不当性は、2010年衆院選結果に如実に表れました。
 また、小沢氏のニコニコニュースへの出演は、小沢氏によるマスコミへの絶縁状であり、これを見た人は、マスコミの騒ぐ「政治と金」問題の真相とは、じつは通常修正で済む政治資金報告をことさら大問題だと騒いでいるだけであることを知っています。その後に残るのは、小沢氏の、菅や仙谷と比べて、雲泥の差がある政治家としての資質だけでした。それは、彼が民主党代表選で表明した政策に明らかです。
 マスコミはいまだ、これまでの無理な検察捜査を支持してきた行きがかり上、小沢批判を続けています。しかし真実が明らかになったいま、マスコミのしていることは恥の上塗りでしかありません。いまや、マスコミを支持する有権者は、インターネットすら見れないメディアディバイド下にある高齢者だけです。
 秘密警察が、その性質上、民衆を力によって支配することはできても、本来の政治をすることができないように、それをうまく操っていると幻想する素人政治家集団にも、本来の意味での政治はできません。そもそも彼らは自らのグループの勝利を導くことができず、他者の力による政権に乗っかっているだけなのですから。
 官僚組織に対する統制の乱れは天下りや予算の浪費を生むだけでなく、官僚組織の腐敗を必ず生み出します。利用しているという幻想が、本当に幻想にすぎず、自らの政権の地盤が砂上の楼閣であることに気付いた時、本当に政治を担うべき者が誰であるかは、おのずから明らかになるのだと思います。それは、小沢一郎であり、先の代表選で小沢氏を支持したグループです。
 国民をだますことはできても、そののちに来る国民の不幸をなくすことはできません。そしてその責任を小沢氏に転嫁しようとしても、小沢氏はそもそもその間の政権を担っていないのだから、無理な話でしょう。納得するのはアホなマスコミとそれを支持するデジタルデバイトドの有権者だけです。
 いま僕にはエルバ島を脱出しパリへと行軍するナポレオンの姿が見えているような気がします。迎撃に向かう政府軍は、本当の指導者が誰であるかを知っているがゆえに、ナポレオンを撃つのではなく、彼の仲間となりました。ナポレオンを悪魔とののしっていたパリの新聞は、彼の軍隊が近づくにつれて、救世主の到来を歓迎し始めます。デマゴーグの最後とは、常にそうしたものなのです。