前島賢『セカイ系とは何か−ポスト・エヴァのオタク史』(2010・ソフトバンク新書)

セカイ系とは何か (ソフトバンク新書)

セカイ系とは何か (ソフトバンク新書)

 私が「セカイ系」という言葉に興味をもったのは、Rが「エヴァってセカイ系でしょ?」と言う言葉を聞いた時の違和感からでした。「セカイ系?」「セカイ系って何だろう?」と思ったわけです。そんなわけで、セカイ系を知るために前島賢さんの『セカイ系と何か』を読んでみました。
 自己言及の多い物語としてまとめられる「セカイ系」とは、TVアニメ『新世紀エヴァンゲリオン』(1995・TV東京、ガイナックス)によって触発された、その後の作品群をさし、短編アニメ『ほしのこえ』や『涼宮ハルヒの憂鬱』などによってポスト・エヴァの精神が継承された物語を意味するということでした。
 エヴァという物語の後半を、アニメがオタクに消費される玩具から、文学へと開いたものととらえる前島さんの視点は、私も共有するものです。
 私自身、エヴァには何とも萌えて、インターネット前史であるパソコン通信の会議室であるアサヒネットやピープルのアニメ部屋でさんざん議論してきました。すごく魅力的な作品だったのです。
 エヴァの前に見たアニメといえば、サイバーパンクっぽい『装甲騎兵ボトムス』(1983・TV東京、サンライズ)ぐらいだったので、12年ぶりに語るべきアニメが出たという印象でした。
 オタク史を語る上で、自分自身はオタクではないけれどオタクに関心がある者と、私自身をとらえています。私の1983−1995年の12年は、ゲーム『スーパーロボット大戦』をプレイしていた時期で、スパロボをプレイしては、過去のアニメを見たりするという日々でした。ガンダムシリーズも、リアルタイムではなく、スパロボの影響でCATVでまとめて見るといった感じでした。
 なぜオタクではないのにオタク世界に関心があるのかというと、本当の文化はマージンルな領域(=辺境)に出現するという経験をもっていたからです。
 それは、24年組と称された少女漫画家が出現した時代に、大島弓子萩尾望都などの作品を読んだことから、メインストリームの文化領域ではなく、顧みられない領域にこそ、顧みられないがゆえに作家性を発揮する余地が生まれ、その作家性こそが新しい文化領域を切り開く力をもつという自己の確信からでした。
 少年向けアニメであるがゆえに、庵野秀明監督が、スポンサーやTV局の思惑にかかわらず勝手に作ってしまった、TV版エヴァンゲリオンシリーズには、その確信を裏付けるものがありました。
 TVシリーズの結末は、それ自体ありうるとは思っていたのですが、もっと説明がほしいとも思いました。そこで、劇場版を待つという態度になりました。
 私自身の『新世紀エヴァンゲリオン』とは、TVシリーズのみではなく、劇場版完結編2作品を合わせて理解しています。1987年に発売されたVTR版もそうした構成でした。
 いまビデオの箱を見直して、そう言えば『DEATH (TRUE)² / Air / まごころを、君に』(1998)もあったんだと気づきましたが、VTR版が1997年に完結してから、僕は続きは見てなかった。VTR版で完結したと思ったからです。
 このVTR版は、壱話から弐拾六(最終)話までのTVシリーズに、劇場版25話『Air 』と26話『まごころを、君に』を追加したもので、TVシリーズの方にも、劇場版でのストーリに合わせてシナリオが修正されいるという点で、決定版といえるものです。
 このVTR版シリーズにおいてエヴァの魅力の一つである伏線にみちた謎はすべて解明され、もう1つのモチーフ、「シンジ=庵野監督」としての、「アニメを自分自身どうとらえるか」という問題も解決が図られたと私は理解しています。
 前島さんにとってのエヴァ理解、つまり庵野監督からの「アニメを捨てろ!」というメッセージであったという理解と、私のエヴァ理解とはこの部分で異なるところがあります。
 それは上のVTR版から来る理解の違いかもしれません。前島さんの、劇場版26話最後のアスカのセリフ「気持ち悪い」に代表されるアニメファンを突き放したという理解ではなく、私はこの26話の中の「夢は現実の中に、現実は夢の中に」という綾波のセリフに、庵野監督が込めたメッセージの最重要なものがあると考えました。この視点の違いによって作品理解に違いが生じたのだと思います。
 このセリフのシーンにあるのは「夢=オタク的世界」を単に否定するのではなく、「夢の中にこそ現実を洞察する鋭い力があり、その意味で夢と現実は相補的な存在である」という力強い理解です。
 その意味では、アニメの制作者自身が最後に生き残ったのはシンジとアスカの2人だけであると理解しているにもかかわらず(出典:VTR版パンフレット、Wiki)、作品自体には、一体化することを拒否した人々がすべて再生するという結末、それゆえにアスカとシンジという2人以外にも生き残っている人々がいて、そうした人々によってエヴァ以降の物語が続いていくという理解が可能な点も挙げられます。
 しかもその世界は、神話的力を具現する綾波も、エヴァ・シリーズといった人類以外の力をもった神的存在もない世界、神が死んだ世界が具現化された世界と、私は理解したのでした。
 そこは、ゼーレも(別のゼーレは、また現れるでしょうが)、悪の正体が単なる自己のエゴイズムだった碇ゲンドウも存在せず、むしろゲンドウは妻の裏切りによって孤独に死ぬという、ゲンドウ本来の目的すら果たせなかった世界です。
 これが私のとらえるエヴァンゲリオンという物語の完結でした。それゆえ私は「エヴァセカイ系」と言われた時に違和感を感じたのでした。
 たしかに自己言及が多いという意味ではエヴァは「セカイ系」といえる作品なのかもしれません。しかし、「世界との断絶」という意味では、僕の理解するセカイ系ではなく、むしろ世界とつながっている。つまりエヴァは自己以外の世界との折り合いが付いている物語であり、正統派アニメで完結するよりも、より文学的かつ結論のついた物語であると理解したのでした。
 だから、その後の『ハルヒ』にしても、『ほしのこえ』にしても、『最終兵器彼女』にしても、自己言及が肥大化しすぎて、逆に世界を拒否する姿勢、そして、それゆえに世界から自らを閉じるセカイ系諸作品とは違った印象を、私はエヴァに持っていました。
 もちろん、いまではすでに終わってしまった現象としての「セカイ系」という作品群の意味がないとは思いません(ほとんど終わったというのは前島さんの指摘です)。
 それは、一見、自分とは関わりのないところで世界の悲劇が繰り返されるという印象をもつ世代の物語であり、それゆえに逆に、よりリアルなイメージをその受容する世代に与えるという前島さんの理解は正しいように思えます。
 しかし、それすら、世界の構造に対する無理解が生み出した一種の幻想のように私には感じられます。
 しかし、孟子の言葉「胡蝶の夢」を持ち出すまでもなく、これは非常に古くからある世界認識です。一種の幻想ではあるけれど、それが一概に否定できないのは、世の中というものはそうした機制によって成立している部分が多いのではないかと私が理解しているからです。
 前島さんがこの本の中で取り上げる、宇野常寛セカイ系批判の言葉、「レイプ・ファンタジー」としての戦闘美少女観、つまり自分が「萌え」をもちながら、それが対象の悲劇を生みだしているという自己責任(認識)から逃避しているという指摘は、前島さんや宇野さんは言及しませんが、別にオタク特有の心理ではなく、風俗やAVといったポルノ産業に対する世間の大人の態度とまったく同じものです。楽しみとしては享受するけれど、自分のまわりには置きたくないという心理、これはまさに「レイプ・ファンタジー」そのものといえます。
 私が、大山加奈という全日本バレーの選手に萌える心性だって、自己がバレーをするでもなく、単に観客として「美しくて強い選手」を見ているという戦闘美少女的ファンタジーに属するものです。その意味では、オタク的萌えにも、こうした憧れるけれど自己の影響は届かないものであるという諦めといった断絶によって、「萌えている」自己を守るという卑怯な構造が存在します。
 この本のなかで簡単に紹介される石原東京都知事の『ほしのこえ』絶賛も、石原氏の、戦時中は軍隊の訓練所で世間の苦しみ(特に、飢え)から断絶されており、戦争が終わってみれば、世間にあったのは精神的な混乱だけだったという彼の印象から生まれたものだと思います。苦しみからは、そもそも断絶されていた。戦う者の苦しみも感じることなく、しかし、自己が戦わなかった追い目から、他者を戦いに駆り立てるという、狂った自覚することなきパラドックスが、そこにはある。むしろ、石原氏は、世界とはそういうものだし、そのように自分は政治家をしてきたという狂った認識が脳内を支配しているのかもしれません。だから、自分は責任を負う必要はなく、責任を負う必要があるのは自分のデマゴーグによって踊らされた人間だけであるという、非常にひねくれた卑怯な考え方ができるのだと思います(石原氏の生い立ちにつていは、小熊英二『民主と愛国』参照)。
 しかし、石原氏のこうした感想は、第二次世界大戦下で苦しめられた人々からは「ふざけるな!」という感想しか引き出さない。そして、そうした人間に対する対処方法は「だまされない」という一言に集約されます。
 「セカイ系」とはこのように、自己の享楽だけを無際限に、その結論として引き出すとしたら、現状を拒絶する無理解な自己を肯定することしか生み出さないように、私には思えます。
 だからこそ、無力な自分、旅立つ前から疲れ果てている自分という自己反省の契機が生み出され、最初からダメダメな碇シンジというキャラクターを生み出し、庵野監督がよくインタビューで言っていた、「分裂(統合失調)症気味の少年でも救えるのではないか?」というエヴァ制作前の制作意図が生み出されたのだと思います。その反省の契機こそ、アニメを文学たらしめたエヴァンゲリオン物語の神髄であり、本当の意味だったように私は思えます。
 そしてその結論とは「夢は現実の中に、現実は夢の中に」というセリフに象徴される芸術至上主義的なアイデア、つまり「オタクによって生み出された(べつに、オタクでなくてもいい)作品の中にこそ、未来を拓く力がある」というものだったのだと思います。
 小説、マンガ、映画、アニメはエンターティンメントとしてだけでも存在意義があるものです。しかしそれだけで飽き足らなかったからこそ庵野秀明エヴァを作った。いま進行する新劇場版エヴァシリーズは、もしこれがエンターティンメントで終るのなら、それは成長ではなく、退化であるように思います。もちろん、現実は、新劇場版エヴァがあろうとなかろうと、存在し、これからも存在しつづけていく。だからこそ、エンターティンメントはエンターティンメントとしてだけでも存在する意義があります。
 でも、エヴァにあらわれたように、「オタク文化はエンタメだけじゃないよ」という部分もある。
 前島さんが、本書で、青臭くてもセカイ系の提起した文学的契機は重要だと主張する意味は、私のエヴァ理解を肯定するにしろしないにしろ、たぶんこのあたりにあるのだと思います。