ネットと現代革命

ネット世論の評価をめぐる議論
 『世を倦む日日』の著者、田中宏和氏は昨日のブログで、菅勝利、小沢敗北の結果は、そのままマスコミの勝利でありネット世論の敗北を意味すると書いていました。それゆえ、ネット側には深い反省が必要であるという指摘です。
 折よく、『朝日新聞』2010年9月17日朝刊21面のオピニオン耕論「ネットと民意」で、3人の論者が、新聞とネットで逆転した小沢支持の乖離について論じる特集をしていました。
 田中氏の意見には僕も同感だし、ネットの力で小沢勝利を目指した彼のネット運動もよく知っているから、余計にその失望が大きいのもわかります。
 僕自身も中立ではなく小沢氏の勝利が絶対に必要であることをブログでこれまで訴えてきた経緯があります。
 『朝日新聞』では、70年代生まれの論客3人を、立場的にネット支持派、ネット否定派、中間派に分けて記述させる、いつもの方式を取っています。
 1973年生まれの城繁幸(じょうしげゆき)氏(Joe's Labo社長)は「若い世代が秩序破壊求める」という見出しで、ネットの小沢支持は虚妄の数字ではなく、重複投票を避けた正当なものであると主張します。城氏自身が「ワカモノ・マニュフェスト運動」というものをネットで立ち上げ、2008年から運営し、そのネット調査で小沢支持67.8%、菅支持31.3%という数字を出しました。その分析に関しては、労働組合員といった既得利益に関心をもつ民主党サポーターは菅支持に流れ、ネットで投票した20代、30代の若者は、既存のシステム自体の破壊を目指した。その結果が小沢期待になったのではないかと分析します。
 そのうえでネットの世論を作るためには、匿名性を廃し、「人の属性を特定できるようにして母集団を明確にする」、「政策提言としての純度を高める」の2つが必要であるとします。
 1976年生まれの菅原琢(すがわらたく)氏(東京大学特任准教授)は「「ネット小言」を報道が増幅」という見出しで、信頼できるのは「報道機関などがおこなっている世論調査と、選挙の開票結果しかない」と説明したうえで、ネットの「喫茶店政談」を一部メディアが大きく取り上げたのが問題であり、そんなものは「冷静に否定していくべき」と主張します。
 まるで官僚のようなアホな意見で、こういうのを保守反動と呼ぶのでしょう。ま、東大の准教授だから半ば官僚化しても仕方ないのですが。
 もうちょいまじめに書くと、ここには城氏のような主催者としての冷静な数値分析もなく、単にレッテル貼りで切って捨てる姿しかありません。学者として失格だと、僕は思います。
 ま、こんな短い文章だけ読んで批判するのは少しかわいそうだし、ネットの数字=世論というのは、その内容を分析しなければ、乱暴な議論でもありますね。
 1978年生まれの宇野常寛(うのつねひろ)氏(批評誌『PLANETS』編集長)は、「脱「戦後」の世界観を反映」という見出しで、以下のように主張します。
 「まずは、単純にユーザーが若いということ」として、ブログ論壇を形成しているのは団塊ジュニア世代である37、38歳以下が多いと指摘します。「この世代は、イデオロギーに対するロマンチックな幻想はない。グローバル化など不可避の条件に対して、いかに最適な政策に調整するかというふうに思考する人が多い。憲法9条や靖国神社をめぐるイデオロギッシュな問題よりも所得の再分配規制緩和などのシステム設計の問題への関心が高い傾向がある」と分析し、それ以上の世代とは根本的に発想が違うことを強調します。
 「もう1つ、ネットは自意識よりも無意識を正確に表しやすいツールだということが重要です」と主張します。それは、ネットで声高に叫んでいる人を、ネット世論をリードする人と見るのは旧世代の考え方で、むしろ、ネットの無意識とはアマゾンに対する個々の批評の中身より、その件数によって関心の高さを測る方が、ネットの読み方としては正しいのではないかと主張します。
 世論調査は、電話で家にいる老人や専業主婦を対象とする。単身者や共稼ぎ家族はつかまりにくい。この前者の集団(クラスター)は菅がイメージ戦略のターゲットとしたものであった。それゆえ「ネットでの支持と世論調査の乖離が余計に大きく見えた」と結論づけます。
 三者三様の意見で、城さんや宇野さんの意見は面白いなと思いました。僕自身は、ロスジェネならぬ、団塊と新人類に挟まれた谷間世代なので、宇野さんの意見に従えば、まだ「イデオロギーに対するロマンチックな幻想」がある世代です。ネットの力にも期待するところがあります。

ネット世論はどう評価されるべきか
 しかしそれでも、ブログの田中氏や城氏のような匿名性をなくす方向が正しいとも、僕には思えないところがあります。
 僕がイギリスにいた25年ほど前、感じたのは、日本人は遠慮しすぎだということです。特に政治的意見について周囲に配慮しすぎて、専門的でもないこともあって、自分の意見を言わない姿勢は間違っているということです。根拠なんてどうでもいいから、とりあえず自分の意見を言うイギリス人の姿勢が、本当は正しいのではないかと感じました。論証は後でいい。自分の生活実感から自分の意見を素直に言うべきだと感じたわけです。その意味では、名前を出すか出さないかはとりあえず問題にはなりません。ネットでは特にそれがいえるのだと思います。
 もちろん、誹謗や中傷、恐喝や犯罪行為、単なるスパムになるようなものは、僕の擁護の対象にはなりませんが、自己の意見を言う、よりよい解決のために他人の意見も聞くというものであれば、その内容が幼くてもいい、というのが僕の意見です。とりあえず発言するところから始めよう、というのが僕は一番大切なことだと思います。
 ネット発信の意見についても、匿名かそうでないかは、両方あっていいものだと思います。
 田中氏や城氏の意見とは、ネットで運動を担う者の意見として正当性をもつものです。だからそれはネット世論を作る上で必要な条件と考えられます。ただネットとはもっと広範なものだし、政治だけで利用されるものではないのだから、それ以外があってもいいということです。もちろん政治関係でも匿名でもいいし、政治以外でもカルチュアルスタディー的にいえば、政治の刻印が背後にあったりしますので。
 さて、現在の日本におけるネットの位置づけ、およびネットにおける政治的意見の位置づけは過大評価できないものです。若者であればネットにつながない人はない。しかし、中高年に関して言えば、ネットよりワイドショー、新聞、ラジオの影響力の方がはるかに大きい。そして若者も含めて、かりに携帯、スマートフォン、パソコンでネットにつないでいたとしても、それらの人々にとって政治的意見を聞く機会は全体に比べてはるかに小さいと思います。
 ましてや、ネットニュースとして配信されるヘッドラインは、そのほとんどが大手新聞社、TV局発信のものです。これらの影響力から逃れている人はごく少数だと思われます。たとえば、『日刊ゲンダイ』の読者は東京・大阪・名古屋の三大都市と札幌を合わせて公称168万2千部(北海道版は除く)(Wikiペディア)です。これらのタブロイド版は駅売りがほとんどだと思うので、このエリアのサラリーマン以外には目に留まることのないものです。
 このタブロイド紙読者は小沢支持でほぼ固まっていると思います。しかし問題はそれ以外にある。彼らはほとんど大新聞、TVの影響下にある。そしてそれらのメディアが圧倒的に菅を支持し、それに基づいた報道を行う。仮に『日刊ゲンダイ』の読者以外がネットにつながっていても、政治に関心がなければそれで終わりです。
 代表選直前の僕の予測とは、代表選に関心のある民主党サポーターが代表選の民主党サイトの動画という生情報を見れば、小沢氏の具体的な政策を支持するはずだというところが根拠でした。しかしTVで簡潔に要約される報道ではそれは望めない。
 そして結果は菅氏の勝利となったわけです。そこには、関心はあっても、既存の秩序の破壊は望まない城氏の言う保守的な民主党サポーターの存在もあったのかもしれませんが、メディアの特性もそれに影響していたと僕は見ています。

現代革命論からの解法
 官僚支配の打破、検察支配の打破、アメリカ依存からの脱却といった項目は、ある意味、革命的といえる政策です。実際、鳩山政権はそれでつまずいています。それを思った時思い出したのは「現代革命」に関して僕が以前書いた論文でした。
 それは、要約すると、革命論に関してはレーニン型の機動戦ではなく、グラムシ型の陣地戦であり、革命後の社会に関しては、多党制の中で労働者の知的道徳的指導力(=ヘゲモニー)によって支持された革命党が政権を取る、民主的選挙制度という多党制の政治制度でした。
 ここで革命を担う革命党という革命組織論の問題が出ましたが、その時の論文では保留しておいた問題です。
 しかし、革命論と革命後の社会をこのように構想するのなら、現代の君主たる革命党は別に左翼政党らしい名前の党である必要はない。じっさいイギリスにおいて左派を担うのは労働党であり、アメリカでは民主党です。であるのなら、日本では民主党であってもかまわないというのが最近の結論です。要は、広範な労働者階級に対して、知的道徳的指導力を保ちうるか否かであるわけです。
 機動戦と陣地戦とは、ひらたくいえばロシア革命のような資本主義も市民社会も未発達の社会においては軍隊を使って一気に中央を占領すれば、そこから国全体に社会主義的政策を広げることができる。しかし、第二次世界大戦の頃のイタリアといった西欧においてはこの作戦は取れない。かりに中央を一気に占拠しても、それは市民社会、資本主義制度といった合意のシステムによって破壊されてしまうだろう。であれば、取りうる戦略は陣地戦しかないといった考え方です。ごれは第二次世界大戦時に獄中にあったイタリア共産党の指導者、アントニオ・グラムシの手記に基づいた考え方です。
 陣地戦とは、近代市民社会を支えるものとして、軍隊・警察といった暴力装置だけでなく、学校、教会、メディア、工場、オフィスといった、力によってではなく、権力に対する自発的服従をもたらすイデオロギー装置を重視する考え方です。後にルイ・アルチュセールがその著書『国家とイデオロギー』のなかで「国家のイデオロギー装置」として位置づけたものです。つまり、先進国に残された革命の方法とは、こうした諸イデオロギー装置を労働者のヘゲモニー(=知的道徳的指導力)のもとにおくことが必要不可欠であるという結論です。それは、もちろん暴力的なものではなく、いろいろな問題に関して、労働者にとって良い結果となる解を普及するという、まさに文化戦略でなければならないものです。
 リストラを不可避のものとして考えるのではなく、雇用の方向で何とか調整するとかいう本来の労働組合がもたなければならない考え方を普及することによって、革命を主体的に担う党への支持を獲得する。それによって革命を行うという戦略でした。
 30年ほど前のユーロ・コミュニズム運動の中で、ソ連型とは違う西欧共産主義社会主義運動が模索される中で、こうしたグラムシ構造改革路線が再評価されました。しかし、日本共産党においては、それは「敵を利するもの」であるという宮本=不破路線によって葬られた戦略でした。
 官僚制打破、アメリカ依存からの脱却、警察・検察の民主的改革といったものは、すでに西欧民主主義諸国によって一部獲得された労働者の権利なのですが、日本ではまだ言い始められたばかりの政策です。
 かたや、ポストモダン派からは、ネグリ=ハートの『帝国』における革命を担う勢力としての新しい議論があります。党ではなくネットによって繋がったマルチチュード論です。でも、今一番近いものとしては、べ平連くらいしか、僕には思いつきません。
 たぶん、これはもっと違うもので、国境を越えた市民運動といったものなのでしょう。グラムシが、マキャベリになぞらえて「現代の君主」と呼んだ西欧革命党と同じ役割をマルチチュードが担うのかもしれません。
 むしろ、国内においては革命党が、国際的にはマルチチュードが担うと考えればいいのかもしれません。ここでいう革命党とは、国内のマルチチュードからの支持を受ける政党でなければならないわけですから。
 革命後の経済制度についても、僕が以前書いた論文で触れていない部分です。一国だけの社会主義はありえないわけですから、それは高度福祉社会といったものになるのかもしれません。そうであれば資本の海外流出も防げます。そのうえでのマルチチュードからの国際連帯を展望すればいいわです。
 社会民主主義的政策とは資本の暴力的側面をそぐ政策です。そのうえで他国との関係を模索すればいいといえます。

結論
 共産党社民党の衰退を見て、左派の意味はないというのは、冷戦に毒された古い考え方です。むしろ、左派はソビエト革命以前から存在した。左派の語源は、フランス革命当時に国民議会の左側の議席を占めたジャコバン派から来ているともいわれます。
 つまり、政治的な左派とは中間派を挟んだ保守派と同じ両翼の片方を指します。ここには「公式教義」たるマルクスレーニン主義とは違った姿があります。つまり、労働者にとって理想的な社会を作るために何が必要かということこそ革命論の本質であり、それゆえに、その内容はあらゆる方面に開かれ、同時に非常にプラグマティックなものです。
 その意味で、ネット世論を作ろうとする城氏や田中氏の行動もその中に含まれると言っていいのだと思います。大切なのは、労働者のヘゲモニー(=知的道徳的指導力)をいかに確立するかです。つまり、ネットにおける世論の確立とは、官僚、政治家、財界、大マスコミによって毒されたマスコミのヘゲモニーを労働者のもとに取り戻すという行為です。
 主権在民とはそもそもそう言った意味をもつ言葉です。エリート支配はそれに反する言葉だし、現在の大マスコミは資本家のイデオロギーによって占拠されているといっていいのだと思います。
 民衆を衆愚というのは簡単ですが、最も社会における矛盾を背負うのもまた民衆です。その力を自壊ではなく、生きる方向へまとめあげることこそ、労働者のための変革を求める側の肝要な戦略だと思います。
 僕などは、もう一度言うと、宇野さんにいわせれば上の世代でオールドタイプなんで、読みにくいところも多々あると思うのですが、ここまで読んでもらえれば、革命戦略とは非常にプラグマティックであり、かつ実際的なものだということがおわかりいただけたと思います。
 そしてそれはソ連派でも中共派でもない。っていうかソ連はもうないですよね。どこかの国のためにする行為ではありません。労働者国際主義のために行動するものといっていいと思います。そしてそれは、ネグリ=ハートのマルチチュードの目指すものでもあります。