アレクサンドル・ソクーロフほか『映画『太陽』オフィシャルブック』映画『太陽』オフィシャルブック作者: アレクサンドルソクーロフ,Aleksander Sokurov出版社/メーカー: 太田出版発売日: 2006/07/26メディア: 単行本購入: 1人 クリック: 15回この商品を含むブログ (48件) を見る

 若い人は思うだろう。私とは関係ない遠い時代のお話だ。感じないフリをするために言い訳に「天皇」という設定を使うだろう。老いた人は史実と違うと指摘し続けるだろう。棚に上げるために。自分とは関係のない物語。無関係であった方が安全だからだ。
 それが賢い選択であるなら、この作品はファンタジーである必要なんかない。それを観なくてもいいかも知れない。昭和天皇人間性になんて目を瞑ってしまえばいい。安全な場所から覗き見するするみたいな人生でいいかも知れない。天皇を神として接する従者のように。でも、それは違う。覗き見される側と覗き見する側の垣根を取り払ってフラットな関係を望み、ヒロヒトは決断した。思慮深く、なるべく多く相手を傷つけないように言葉を選び、行動した。その結果なのだ。そもそも太陽自身、退屈な終わらない日常の中で直視されることを望んでいたのだから。ずっと。ごらん、その太陽は紅くはない。黄金のように輝いている。どこまでも暮れずにいつまでも雲の下間から消えずにこちらを直視している。目をそらさないでと見つめている。君は見つめ返すのだろうか。それとも目をそらしてしまうのだろうか。
−−吉田アミ「希求したのはくれない太陽だったのだ」より

監督自身やシノプシスを書いたユーリー・アラーボフを含む34人が参加し、文章を寄せたオフィシャルブックの中で、一番僕の映画を見た後の感想に近かったのが、上にあげた吉田アミさんの文章だった。そして、この評論集はみごとに吉田さんの予想のように展開した。
そもそも天皇をリアルに描くこと自体を拒否する西部遇などは、問題にならない。彼は良く知っているのだと思う。力がその本来の力をもっとも発揮するのはそれが隠された時であることを。そのほかにも多くの人が、史実に違う、もっとロシアの卑劣な参戦を描くべきだなど、さまざまに主張している。右も左もである。しかし、この映画の骨格は、監督のインタビューやシノプシスを読めば明確になる。監督は公にされている歴史的事実をあえて無視し、それ以外の、歴史に隠された部分、特に敗北を受容し人間宣言にいたる昭和天皇の心理に焦点を当てているのである。「ソ連の卑怯な参戦を描いていない」とは、桶谷秀昭の言葉だけれど、ソクーロフはしっかりとレーニンの死を描いた『牡牛座』を撮っている。そしてそれが暗示するソ連の狂った時代の到来を。だからソ連の参戦を肯定する映画でないのはいうまでもないだろう。そして、そもそも、そうしたことを言う前に、何故自分達日本人が、こうした昭和天皇の人間的内面を描けなかったのを自問すべきだと思う。それ迫ることこそが、この映画の価値であり、こうした議論自体、この映画を媒介としなければ実現されなかったという事実を、よく考えるべきだと思う。
その意味では、松本健一インタビュー「「あっ、そう」の力」の方が、はるかに昭和天皇という存在自体に向き合っている気がした。この著者は、昭和15年に翼賛体制が成立してから、政治家として重要な決断を下したのは天皇だけだった。二二六事件しかり、終戦決定しかりである。そして、戦後における昭和天皇の行動自体も、きわめてすぐれて政治的であったことを指摘する。
ソクーロフが言うように、どう状況が転がるか不明確な時点で、単独でマッカーサーに会ったこと自体、きわめて勇気ある決断であると考えることも可能だ。もちろんこれは、すべてお膳立てが整えられていたと考えることも可能かなとも思うのだが。とすると、人間宣言にいたる決断こそ、この映画がもっとも強く主張するものかもしれない。
いずれにせよ、僕は、この映画において昭和天皇を演じるイッセー尾形の一挙手一投足がいとおしかった。現実はたぶん様々な政治家が介在し、その路線を引いたのだろうと思う。でも、天皇自身の決断は、彼によって担われなければならない。その意味で、彼は孤独だったはずだ。そして、映画が描く昭和天皇の姿は、おおむね正鵠を射ていると思える。
映画のすべてのドラマが終わった後、エンディングロールで廃墟となった東京を白い鶴が一羽静かに飛び回る。その姿を見て、すべての敗戦の汚辱を生きなければならないこれからの日本人、そして、その汚辱を受けること決意し、生きることを決断した昭和天皇の姿が、重なって見えたのだった。
これは、同じ監督が描くヒトラーの最後「自分の死後も、ドイツ国民は最後まで戦え」と言い放って、自殺する行動と対象をなすものだと思う。人として生きることが希望になりえることもある証左である。
最後に、この本で誰も書いていないので付け加えると、天皇の悪夢に現れる東京大空襲は『ハウルの動く家』の戦闘シーンとそっくりだった。これは絶対にどっちかがまねしてると思う。
この本について付け加えると、天皇、皇族が描かれる日本映画、ドラマの系譜記事は、日本人がいかに天皇の内面を人間として描くことができなかったかを実証している。ま、人が殺されたりしているのだから、わからないでもないが、それでもこれはすべての表現者にとって恥だろう。そして、それを例証するのが、巻末の年譜「天皇とその時代」である。この資料は、風流夢譚事件など、天皇制という狂気がもたらした様々な事件をきちんと含んでいて、参考になった。