小林よしのり『いわゆる「A級戦犯」』の問題点

今日、仕事の帰り、思い切って、小林よしのり『いわゆる「A級戦犯」』を買っちゃいました。朝日新聞に大きな広告が出た日でもあるし、書店にも並んでました。良識ある書店には並んでませんでした。
なんで買ったかというと、彼の『戦争論』については、「煽るけど自分は絶対に戦場には行かないのが小林よしのり流」であるという反論が成り立つ(ま、その分若い連中に死んでもらえれば自分は安心だろうし、ここから「教育基本法の改正は、喜んで国のために死ぬ人間を作る、これにつきる」と発言する自民党議員の発言までは、ほとんど差がないといえます)。『靖国論』に関しては、高橋哲也『靖国問題』(筑摩新書)という有効な反論の書があるし、その本を持ち出さなくても、祭られている遺族が、自分達の流儀で家族を供養したいと申し出ても、絶対に祭ることをやめない靖国神社の傲慢さ、宗教を超越した存在として自らをとらえている姿勢がうきぼりにされているのだから、その神社として特殊な性格や奇怪な軍国主義時代の過去の栄光を求める姿が如実である点から、すでに反論され尽くしていると考えていたことに関係があります。
であれば、彼が新しく東京裁判に関して書く本はどのようなものか知りたくなりました。というか、最近、小林よしのりシンパの青年と話した経験から、またこの本を根拠に朝日新聞批判とか左翼批判をする人が出るのなら、事前に準備しておいた方がいいと判断したからです。
でも、神保町では、僕が、ほぼ最初の方の購入者となってしまったこと、印税が小林に行くことなどは何とも皮肉な話なのですが。

さて、小林氏のこの本は、日本が日中戦争、太平洋戦争に突入したのは歴史の趨勢であって、東京裁判で裁かれた被告達の責任ではないという基調で貫かれています。
結論部分の、この裁判の判決を受け入れたサンフランシスコ平和条約11条は、判決を受け入れただけで、東京裁判を受け入れたわけではない。だからその裁判に関する批判は可能であると書いてあるのですが、判決を受け入れるという言葉と、裁判を受け入れるという言葉は、おんなじことだと思うのですが、どうでしょうか? だから、この部分は無視していいと思います。もちろん政府の意思として、平和条約を結び、議会が批准したわけですから、国際的な約束事として成立しているわけです。
小林氏の議論を聞いていると、かつて日本の軍国主義を最初に批判し、戦後政治学を立ち上げた丸山真男の、日本的政治の基層にある、政治とは誰かが行うものではなく、自然とそうなってしまうものという指摘を思い出しました。「する」ではなく「なる」こそ、日本政治の基本的パターンである。そして、こうした既成事実容認から生み出される政治的態度こそ、結果に対する無責任を生み出す。誰も責任を取らない政治風土を作り出すことになるわけです。
アメリカや欧米諸国から挑発されたから「自衛のために戦争をした」。こうした発想こそ、日本人には誰にも責任がなく、そこに追い込んだ欧米にこそ罪があるという「自己免罪の発想」であるように思います。外交とは、歴史のはじめからそうした厳しいせめぎあいでした。だから、それに乗ってしまう政治家の方が悪いし、無能である、それゆえに責任があると言わざるを得ません。
そして、ここからの僕の分析は、丸山によって「天皇ファシズム」と呼ばれた、戦前の軍国主義体制の話に入るのですが、小林の議論から徹底的に抜け落ちているのが、東京裁判で被告の立場に立った軍人たちが主導した、天皇を神として絶対服従すべき存在に祭り上げた、徹底的な思想統制の問題です。「国民は戦争を望んでいた」と小林は語りますが、その背後には、戦争に反対した人間、特に左翼、労働運動家に対する、徹底した弾圧があった。そして、重要なポイントとしては、軍人は天皇を輔弼する存在として、民主的統制(つまり有権者のチェック)を受ける必要がなかったという、日本帝国憲法の欠陥があります。それが軍部の独走を許した。
かたや、丸山はファシズムとは、労働運動に代表される左翼を軍事的に弾圧するために、軍部と財界が手を結んだものととらえます。冷戦の終わった今では想像すらできませんが、当時はソ連も健在だったし、そうした労働者の祖国を目指さざるを得ないほど国内の労働条件は劣悪だった。
小作が廃止され独立自営農民が生み出されたのは、マッカーサーの指令によってでした。巨大な貧富の格差を生み出した財閥に対する解体指令もマッカーサーによってだった。つまり、戦前は、こうした、今からは考えられない差別の構造があった。5・15、2・26といった軍事クーデターも、最終的に天皇の権威を認めていたために瓦解しますが、その発端は農村部における民衆の疲弊を憂いての行動だったことはよく語られることです。
小林の本には、「左翼運動から日本を守るために仕方なかった」とか、「共産主義から日本を守るために仕方なかった」みたいな主張が次々と出てきます。しかし、左翼とは、経営者の感覚から労働現場の人々=労働者を守ろうとする発想です。リストラで株価を上げるより、現場の人間を有効に活用して、皆が働ける場を作ることを優先する発想です。能力がないから失業するではなく、資本主義のシステムが労働市場における競争を要請し、必然的に失業者を生み出すのだから、政府は当然、再雇用を援助し、職業訓練の場を与え、それでもだめならシビル・ミニマム(市民としての最低限の権利)である失業給付を与えるべきであるという主張です。これが、イタリアで大統領に選出された、旧イタリア共産党グラムシのとなえた労働者階級のヘゲモニー(知的道徳的指導力)の発想なのです。
そうした労働現場での意識を無視して、左翼を単に外国政府の傀儡であると考える右翼にとっては、左翼思想は弾圧すべき思想となるのでしょう。それが、経営者、資本家と結託してファシズムを生み出した。この構造は、第二次世界大戦当時のドイツ、イタリアと日本がすべて共通する点です。
こうした右翼的発想から、小林は、「東京裁判人民裁判も完全否定せよ」という結論に達する。
そこには、自分の立論が、一見、政府・マスコミ批判に見えるように書かれています(本人もそう考えているのでしょうか?)が、その実、アメリカと日本と、そして中国共産党ガリガリの保守派すらもを利するだけである、その露払いになっているだけである点が見えていません。それは、先日、日記に書いた『敗北を抱きしめて』の著者インタビューの要約の通りです。
最後に、欧米の方がもっと悪いことをしてきた、というのは正当な主張です。でも、その同じ方法で植民地支配政策をとったのが戦前の日本政府であったことも事実です。だから、パール判事の意見を待つことなく、アジア諸国の人民は反植民地闘争に立ち上がったのだし、その成果は、やっと近年見え始めてきました。だから、日本の植民地政策に対する中国人の闘争は、小林の言うような「反日テロ」ではなく、「反植民地闘争」として正当化できるものです。
A級戦犯として裁かれた人々は、たしかに歴史に翻弄された人々かもしれません。しかし、だからといって開戦を決定した責任からは逃れられない。とくに、アメリカの占領政策によって免罪された昭和天皇の戦争責任は最も重いというべきです。
なにやら、はてなにも、天皇制に反対するだけで「悪」と考える人がいるみたいですが、それはどうかしているといわざるを得ません。まるで、フランス革命以前の、王党派みたいじゃないですか。
天皇家とは、九州の片田舎から出発して、大阪湾で撃退され、熊野まで逃げ延びて、それこそだまし討ちなどのさまざまな卑劣な手段を使って南奈良盆地に居を構えた一部族にすぎません。その部族の支配者が神武です。そこから、日本すべてを支配するまでに発展した。これが天皇家です。その卑劣な歴史を正当化するために書かれたのが、『古事記』であり『日本書紀』でした。自分達を正当化しない歴史資料はすべて燃やした(このへんの考証は歴史学者古田武彦氏の説による)。日本に住む人は、こんな天皇家によって、何か利益をもたらされたのでしょうか?
戦前の軍国主義が「天皇ファシズム」と呼ばれる理由がここにあります。すべては天皇との距離によって価値付けられる。天皇に近いほどえらいわけです。つまり、上から下にぶん殴り続ける(抑圧委譲の法則:丸山の指摘)。そして下層の軍人は、一般人や、日本人ですらない外国人をいたぶることによって、自らより下の人間がいることを確認し、自らを慰めるわけです。こんな、いじめ学級のような社会が、戦前のファシズム体制であった。
そして、それがゆえに、天皇制さえ守れれば、若い兵士が特攻しようが、原爆を落とされようが、日本に住む人間がどれだけ死のうが、かまわないという発想につながります。政権を担った「天皇に近い人間」は、近いだけに、より、そのように発想します。だから戦争はぎりぎりまで、日本に住む人間が死に絶える間際まで引き伸ばされた。
だから、敗戦に際して、民間人が軍部や官僚を憎んだのも当然なのです。戦時下の統制経済の中で一番食うものに困らない生活をしていたのはこれらの人々だったのですから。
いま、小林のような人間が自らのゴーマンをかますのは結構です。でも、こんな意見に付和雷同してしまうとしたら、それこそ歴史を誤ると、僕は考えます。
ちなみに、現在の小泉政権は、丸山流に言えば「アメリカ制ファシズム」と呼んでもいいと思います。統一教会のシンパでもある安部が首相になったら、この流れはさらに続くように思えます。すべてはアメリカからの近さによって価値付けられる。ただの市民は虫けらのように扱われるわけです。