今日の朝日新聞

今朝の朝日新聞、東京15面(12版)は、どちらも面白い2つの記事で構成されていた。
ひとつは、『敗北を抱きしめて』で有名になったジョン・ダワー米マサチューセッツ工科大教授へのインタビュー「「戦争」は総括できたのか」(インタビュアー、論説委員・三浦敏章)であり、もうひとつは編集委員松本仁一による、ワールドクリック欄でのコラム「ダ・ヴィンチ・コード−反発に見る貧富の格差」だった。


ジョン・ダウアーのこの本は、なんかタイトルが胡散臭くて、評判は良かったのだが、結局読まずじまいだった。でも、このインタビュー記事を読んで、その過不足ない的確な答えに、やっぱり実力のある人なんだ、との思いを強くした。
歴史問題が戦後60年を経たいまでも、問題になっている現状を踏まえ、東京裁判の正負両面を検討する。大量の死者を出した後、世界にはこうした戦争の問題を国際法や「平和に対する罪」「人道に対する罪」という新しい概念で裁く機運が生まれた。
こうした肯定的側面としては、単に銃殺で終わらせるのではなく、2年半の年月をかけ、A級戦犯には弁護士をつけるという態度が生まれた。結果、裁判をしなければ破壊された日本政府の記録が押収され、保管された。
一方、負の側面としては、「勝者の裁き」であり、双方が行った空襲による民間人殺害の罪は裁かれなかったこと、原爆投下が裁かれなかったことなどがある。「判決が認定した1928年から日本の指導者が戦争の共同謀議をしていたという説をうけいれる歴史家はいません」。それは、法概念でいえば、後に成立した概念で先の事例を裁くという事後法であった。
しかし、ダウアーは指摘する。「裁判は多くの欠点を抱えています。一方、日本がアジアを侵略したことは事実です。日本はアジア諸国に膨大な被害を与えました。裁判に欠点があるからといって、日本の指導者がその責任を逃れられるわけではないのです」。
続けて、米国は占領を円滑にするために天皇を利用し、訴追しなかった。それによって戦争責任問題があいまいにされてしまった。そして、急速な米ソ冷戦が、日本人自身による戦争責任の自己解決の機会を奪った。捕虜虐待でBC級戦犯を裁いた米国は、現在のブッシュ政権のもと、国際法や国際裁判に対して関心も尊敬も感じていない。これは二重基準である。日本政府はそうした米国を批判しようとしない。
そして、話は佳境に入るのだが、日本の保守派に、あの戦争は自衛戦争であるという意見が出ても、保守派が強くなった米国では、日本に改憲再軍備による軍事的役割を強化してほしいという要求がある。つまり、両者とも戦争の記憶があいまいになることに共通の利益があり、目標を共有している。
そして、「靖国参拝には、死者の追悼という面もあります」との質問に、ダウアーは以下のように答える。
「死者を追悼しなければならないのはその通りですが、なぜ靖国なのでしょうか。靖国は、第2次世界大戦を日本の立場から『聖戦』と正当化する歴史観と結びついています。そこへの参拝は、単なる死者の追悼ではないと思います。靖国に参拝することで、追悼と政治がごちゃまぜになっているのです」。
同じことは、中国にもいえて、「日本を非難することで、中国共産党の過去に関心が向くことをそらす効果」がある。「日中双方が、国内向けに戦争の記憶を使って、ナショナリズムのゲームをしているのです」と語る。
最後に、「これが愛国心にからむだけに複雑です」との問いかけに、ダウアーはこう答える。重要だから全文引用しますね。
「私は二種類の愛国心があると思います。ひとつは、正しかろうが悪かろうが祖国を愛するという態度。自分の国がやることは何でも正しいという考えです。もうひとつの愛国心は、自分の国をもっとよくしたいので、過去の失敗から学ぶという態度です。より平和な世界を築いてゆくためには、後者が唯一の道だと考えています」。


長文の引用となったが、感想を書く。
日本の左派市民には、自分の国の市民と同じだけ、ほかの国の市民も幸福になる権利があるという思いがある。だから「愛国心」みたいな言葉は、利己的な気がしてあまり評判がよくない。であるにしても、「愛国心には、国を批判することも含まれる」という考えは、最初に書いた目的を実現するために、当然、持っている。そして、左派の市民が一番恐れるのが、都教委や新しい教科書を作る会のように、この言葉を使って「すべて正しい」という形骸的な強制を生み出すシステムなのである。
事態が右に動きすぎて、ネット右翼現象も『嫌韓論』のピークを境に沈静気味(鈴木謙介国際大学客員研究員)という意見もある(朝日新聞5月19日朝刊)。であるのなら、そうした環境のなかで、このインタビューでのジョン・ダウアーのうまいまとめによって導かれるように、自分を取り巻く世界を構造的に把握し、そのなかで自分が果している役割を客観的に知ることが重要になるのだと思う。それこそが、自分がより主体的に世界に関わる(もしくは関わらない)ことの前提となる条件だと思う。


さてもうひとつのコラムでは、映画『ダ・ヴィンチ・コード』が、貧しいアジアでは熱狂的に排斥されるのに対して、豊かな西欧では、大ヒットするという現象を取り上げている。明日をも知れない命では、宗教に寄りかかるのも自然な成り行きなのだ。だから、その両方を理解する必要があることを、ほかの例もあげて書いていた。
よく、「宗教はアヘン」と言ったとか言われるカール・マルクスだが、むしろ、「宗教は貧困の谷間に咲く涙の花である」の方が有名だ。つまり、経済的貧困と哲学的貧困の2つの貧困を指している。その意味で、マルクスは宗教の必要性を認めていたとも言えるだろう。本当の問題は、宗教自体にあるのではなく、そんな宗教を必要とする貧困を解決することであった。
経済的に豊かになれば宗教は不要になるかといえば、疑問だけれど、そのとき初めて「哲学的貧困」の意味が問われるのではないかと思う。