価値の相対性と認識の客観性

 以前、武蔵境市主催の国際交流セミナーに参加したときの話です。
 その講師は、ある商品を例に国際交流の一例を説明しました。
 ここに椰子の実オイルで作られた家庭用食器洗剤がある。日本に住む主婦Aは、この洗剤を使っても手が荒れないことを知り、これからはこれを使おうと決心した。その洗剤会社では、このオイルを使うと従来の洗剤より少ない量で食器を洗えることに注目し、輸送費を抑えられる。そして消費者の受けがいいこともあわせて、今後の主力製品にしようと判断した。そして、東南アジアのある国の実業家は、日本で椰子の実オイルの需要が高まっていることを知り、手付かずの原生林を切り開いて、椰子の実オイルのプランテーションを作り始めた。そして、その原生林に住む森の人たる住民は、これまでの採取生活における生活の場を奪われ、低賃金で劣悪な労働環境のプランテーションで働くことを余儀なくされた。また、この背後関係を知った先ほどの主婦Aは、やっぱこの洗剤使うのよそうかしら、と思うかもしれない。
 この話には様々な人間が関わっています。そしてそれぞれにとって何が正しいかは一様ではない。主婦Aは手に優しくてエコロジーな商品を好むけれど、熱帯林破壊には反対する。日本の企業は消費者のニーズがある限り企業利益を追求し、その製品の生産と販売に力を注ぐ。東南アジアの実業家は、自分の利益を確保することが国の発展につながると考えている。森に住む現地人は、何でこんなことになったのかと、怒りを感じている。
 それぞれの人が感じる「善」とそれに基づいた「真理」はこのように相対的に見えます。そしてまた、事態を観察する際に一つの方向ではなく、様々な立場から理解することは、複眼的視線を持つ態度として政治現象理解の重要な手法でもあります。しかし、僕らはこれを科学的観察として、記述するだけで済むわけではない。
 実は、ここに例を挙げた現象に関わる一人して、自分の行動を選択する必要が生じるわけです。そここそが、この講師がこの話題を取り上げた理由でした。
 前々回の日記で、なぜ自分の立場を書いたかというと、日記タイトルの説明でもあったのですが、実は学生時代に思った、自らの立場を固定しない限り周囲で起こる現象と価値の相対性に対して無力にならざるをえないという考えからでした。東南アジアであれ、日本であれ、労働環境が劣悪ならそれを改善するのが善である。たとえ、プランテーション経営者が、労働者が死んだら別の労働者を雇った方が得と判断してもです。
 そして、そうした立場を選ぶのなら、なるべく多くの人々を包摂する立場がより望ましいことになります。だとしたら、自らの労働でしか生活できない労働者、自営農民、漁民、そしてその予備軍たる学生の立場に立つことが、社会的に大多数であるがゆえに、より望ましく、その中での最大限綱領を見出すべく努力すべきであると考えたわけです。
 先ごろ話題になった、養老孟司バカの壁ISBN:4106100037、ベストセラーだったので読んでみたのですが、どこかの首相が引用していた皮相な「話せばわかるものじゃない」みたいな理解ではなく、この本に書かれていたのは、相互理解が難しいからこそ、他者の違いを尊重し許容できる社会が望ましいという主張でした。
 この新書の内容は、ほとんどこれまで養老さんが言ってきたことで、納得できるのですが、ホームレスが幸せだと書いていた点は、少し違うと思いました。事実ホームレスの平均寿命はその他の人々と比べてひどく短く、彼らの厳しい生活環境を反映しているといいます。昔の人は、働いていないだけで、あいつらダメ、みたいに思っちゃうので、ちょっとも問題だと思います(閑話休題)。


 そして、認識の客観性についてですが、現象を記述する際の論理性、科学性といってもいいのですが、これ自体一種の仮説で絶対視はできないものです。しかし、一種の共通言語としての利用価値は高い。たとえば、論理的に説明しようとしても、それは神様の思し召しですとか言われちゃうと、話が先に進まない。だから、論証できるものとしての科学主義を現象を記述する場合利用できる。検証可能である点が、自然科学、社会科学を問わず、こうした言説の有用性であると考えます。


 補足すると、これまでの自分の日記を含めてなのですが、他の人の日記は、文章がうまかったり、記述の厳密さがあったり、情熱があったりと、すごいなと思うので、自分の日記のスタイルとしては何がふさわしいかを考えました。
 そこで、平易に、しかも自分がそれなりに納得していることのエッセンスだけを書くのが、誠実な態度だろうと判断しました。そんなわけでこんな調子でしばらく行こうと思っています。