マスコミの震災追悼番組は見ない

福島第一原発事故関係URL
武田邦彦(中部大学)ホームページ
http://takedanet.com/
実現させよう原発国民投票
http://kokumintohyo.com/
板橋区子どもを被曝から守る会
http://itabashi-kodomo.jimdo.com/
グリンピース
http://www.greenpeace.org/japan/ja/
都健康安全研究センター
都内の環境放射線測定結果 測定場所:東京都新宿区百人町
http://ftp.jaist.ac.jp/pub/emergency/monitoring.tokyo-eiken.go.jp/monitoring/
東京都ホームページ
http://www.metro.tokyo.jp/

 今日は東日本大震災から1周年。福島第一原発事故からも1周年だ。

これからの「正義」の話をしよう (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

これからの「正義」の話をしよう (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

犠牲のシステム 福島・沖縄 (集英社新書)

犠牲のシステム 福島・沖縄 (集英社新書)

 休みなので赤羽でバス定期を買って、神保町へ出た。マイケル・サンデル『これから「正義」の話をしよう』(ハヤカワノンフィクション文庫・2011、初出2010)と高橋哲哉『犠牲のシステム 福島・沖縄』(集英社新書・2012)、『思想』(岩波書店・2012年3月号)、『世界』(岩波書店・2012年4月号)を買った。買い物の目的は達成したので、帰宅後、確定申告の準備をする予定。それが終わったら自由時間なので、ゲームでもしたい。録画した劇場アニメ『綿の国星』と『AKBと××』も見たい(帰宅後、これは見た)。
 昨日見た朝日ニュースターの「月刊国際観察」最終回(http://asahi-newstar.com/web/52_kokusaikansatsu/?cat=18)は知らないことが多くあって衝撃的だった。諸悪の巣窟「記者クラブ制度」には、官僚と記者との構造的癒着があり、東電の広告料とともに、日本の報道を大きくゆがめる原動力となっていること。そしてそのシステムは、あの人気絶頂期の小泉政権の飯島秘書官ですら、大きく変えることができなかったという事実。それゆえ民主党記者クラブ解体政策が頓挫するのも当然であった。
 ずっと気になっていた枝野官房長官(当時)の「ただちに人体に影響を与えるものではない」という事故直後の発言に対して、IWJ(インディペンデント・ウェブ・ジャーナル)記者・岩上安身が改めて質問したところ、「そんなことは言っていない」と嘘をついたことなど、ありえない話を聞かされた。つまり、枝野は彼自身の過去の発言が法的犯罪を構成するという認識はかろうじてあるようだ。しかしさんざん録画された政府記者会見の記録を無視してこう言い張る勇気はどこから来るのか。それは、そうした問題をマスコミという政官報癒着の広報部が決して追及しないという確信によるのだと思う。
 いまや官僚は政府とマスコミを押さえた。そしてかろうじて残るネットとCS、BSの独立局の押さえ込みにかかっているように見える。ネットに対しては覚せい剤使用ログに対するプロバイダーの強制捜査、CS独立局に対しては系列テレビ局による買収という戦略によって(TV朝日による朝日ニュースターの買収、その後の番組改編=改悪がその典型だ。このブログで言及してきた「パックインジャーナル」の強制終了もその1つである)。
 その意味で、『日刊ゲンダイ』が正当に警告したように、昨年夏に成立したネットに対する監視法と今成立を画策している機密保護法案、そして国民背番号法案の成立は、将来の独裁と民主制を分かつ分水嶺といえるものとなる。
 民主党が官僚に取り込まれるだけならまだかわいいものだ。それはいつもあることだからである。しかし、官僚自身が自己の利益を擁護するために、より攻勢に出たものが、これらの法案といえる。
 これはかつて自民党保守本流経世会に対して、福田派が仕掛けた、経済権益から締め出されているがゆえにそこにしぼらっざるをえなかった国防戦略としての機密保護法とほぼ同じだけの危険性を持つ状況といえる。こうした動きに、当時大学生だったわれわれは危機感を持って反対したのだった。それは日本の戦後民主主義の死を意味するからだった。
 この戦いは曲がりなりにも低成長続けていた日本経済とそれを背景とした経世会の強さによって、そして学生・市民の反発によって跳ね返すことができた。しかし、今回は不況と震災後の混乱に乗じて、理念なき政権維持を最優先する仙石一派は、官僚という悪魔に魂を売るかたちで、こうした思想統制を実現しようとしている。だから、戦いはいまだ中ばであり、勝敗は未来にゆだねられているといえるだろう。
 こうした状況において唯一の希望とは、政府と官僚・マスコミの癒着に気づいた反原発派の動きである。これに対してもこの番組において興味深い話があった。政府は瓦礫処理によって反原発派の分断を狙っているという推測である。放射能の危険を知る反原発派にとって「事故によって拡散した放射性物質の狭い1地域における集中管理」は当然の理屈である。長い将来にわたる立ち入り禁止区域があるのだから、放射性物質はそこで集中管理されるべきなのだ。しかし、原発放射性物質の危険性に気づいても、まだマスコミを半分信じている人々にとって、こうした汚染瓦礫拒否の態度は、「絆」に反した「不人情」に見える。そしてそうした「感情」を利用して、官僚は反原発運動の分断を狙っているのではないかという推測である。
 もちろん官僚が瓦礫の二割を全国で処理することを画策したのは、全国の土建屋に対する利益供与に他ならない。そして、この政策はかつて「被災民救済のため」という言葉で強行採決された東電救済法と同じく、官僚が繰り出す狂気の政策にすぎない。なぜなら、かろうじて福島だけが危ないという海外の評価を、日本全体が危ないという状態に変える、きわめて将来を考えない「後は野となれ山となれ」的な政策であるからだ(事故直後に「放射能は安全」という自らの記事・報道に反して、家族をいち早く九州や国外に避難させたのは記者クラブの連中だった)。東電救済法に「原発(再稼動)推進」の言葉を滑り込ませた官僚である。瓦礫処理政策には、こうした意図が滑り込まされている。
 繰り返すが、その意味で、新潟県知事の言う「放射性物質は国が一箇所で集中管理すべきである。放射性物質を全国すべてで均等に管理せよというような国がどこにあるのか」という言葉は、正当なのである。そして、少しは若者の立場で編集されているように見えてきた集英社週刊プレイボーイ』の今週号ですら、「瓦礫処理に協力してほしい」という自民党河野太郎議員の発言を載せることによって、読者ではなく官僚の方を向いて編集していることが明らかとなったのである(政府基準値以下の瓦礫の危険性については、武田邦彦氏のホームページを参照されたい)。
 同じ『週刊プレイボーイ』には、同様に4号機の危険性を指摘する記事も載っていて、確かに危険なのだが崩壊した燃料プールの燃料棒を東電が放置するはずはないという武田邦彦氏のオームページでの指摘を無視するかたちで、現在の放射能汚染というより切実な「今ここにある危機」から目をそらそうとしているという、武田氏の指摘を裏付けているように見える。
 また、この番組は「除染は無理である」という、海外の原子力関係者のチェルノブイリ以降の共通見解を紹介した後に、それでも政府が除染しているのはゼネコンを潤わすためと結論付けている。
 今も福島には年間20ミリ前後の被爆を受ける地帯に住民が住んでいる。しかも、公式の数値を政府によって低めに情報操作されながらである。公式の数値は、徹底的に除染した後に目標である低い数値が出るまで何度でも測り直す姿が確認されている。政府はそこに多くの放射能被爆専門の医師、専門家を派遣するという。これは一言で言えば「住民をモルモットにする行為」である。人に対して絶対に行ってはいけないことだ。
 だから、住民はすぐに自分の手で放射線を測定し、年間5ミリ以上になる場所であれば即座に避難すべきである。これは、熱核戦争に備え、それゆえに迅速な対応ができた旧ソビエト連邦政府の対策を基準にしている。彼らはチェルノブイリ原発事故の後、政府がバスをチャーターし、年間5ミリシーベルト(0.23マイクロシーベルト/時)以上の土地に住む全住民を強制避難させたのである。日本政府はこうした過去の経験を、まったく無視した。
 同様に福島県がこうした避難に消極的なのは、税収が減るからだということも番組で言われた。なんと言う思考停止と腐敗だろうか。つまり、結論としては、国や自治体のいうことは信じられない、自分の身は自分で守るしかないということなのである。
エアカウンターS

エアカウンターS

 僕はエステーの簡易型放射線測定器・エアカウンターSを5千円くらいで購入した。東京板橋区にある自宅は0.05マイクロシーベルト/時だった。同じ区内にある職場はもう少し高かったが、許容範囲だった。しかし、親戚の集まりで行った北海道帯広市内のホテルやRの実家であるアパートは0.09マイクロシーベルト/時と、東京より高い数値が出た。それでもまだ許容範囲だ。換算すると年間0.8ミリシーベルト程度だったからだ。
 この測定器は、東京より低いと思っていた北海道の汚染度を試すために持っていったので、少々ショックだった。しかし、太平洋側はやはり汚染を免れていないことが示されたように思う。
 いま日本人は民族の存亡を賭けた試練に直面しているように思う。そしてその解決は、野田内閣のような官僚独裁の「官憲国家」でもなければ、橋下・石原流の「ファシズム」でもない。なぜなら、その道をとったら、日本は政治的に死んでしまい、国民の幸福には結びつかないからだ。そして、どちらも命すら脅かされるだろう。
 反原発運動の進化による、より徹底した政府情報の公開と日本に住む住民の徹底した人権保障の先にしか、われわれに望ましい未来はないものと確信する。そのためには腐った既存マスメディアを崩壊に追い込む独立系マスメディアの誕生と、ネットの徹底的な擁護が必要になる。
 そして、表題なのだが、今もここにある放射能汚染に脅かされる人々という重大な危機を報じず、感動の復興話だけを、震災がすでに終わったものとして伝えようとするテレビ・新聞には胸糞が悪くなるということを示している。こうしたマスコミの態度は限りない無責任であり、正義とはま逆の、報道と官僚との癒着を隠蔽する偽善でしかないからだ。だから「マスコミの震災追悼番組」は見ないと書いたのである。