罵倒語の授業をめぐって

 日本語講師養成課程の講義も終わりに近づき、最終模擬授業が行なわれた。
 その中で、同講座の学生であるA氏によって、超上級(大学院受験レベル)外国人日本語学習者向けディスカッション模擬授業として「日本語において罵倒語にどう対応するか」という授業が行なわれた。
 まず、この課題を設定したA氏と、その授業を許可された主任教官に謝意を示したい。
 なぜなら、通常日本語教育の全課程においては、授業の進行を妨げる問題には触れないという方針が徹底して貫かれているからである。国際間の政治紛争しかり、差別問題しかり、宗教問題しかりである。
 もちろんこうした内容に関する会話がなされたり発話されたりした時点で、教員は、素早くこの会話から離れるよう誘導するのであるが、内容を吟味することは、避けるように指導しているように思われる。
 しかし、実際問題として、日本語において罵倒語が存在し、その対応は、日本語を話すすべての人間にとって重要な問題である。我々の講義内容たる「外国人に対する日本語教育」においても、じつはこの問題は避けて通れない。そこで、A氏による、この実践授業が企画され、実演されたわけである。
 以下、授業内容の検討と、それを見ての感想を書いていきたい。

 A氏の講義内容は、学生のディスカッションのために材料を提供するかたちで行われた。
 罵倒語とは何か、その具体例、罵倒語がなぜ使われるのかに関する社会・歴史考察、罵倒語を使う社会階層の分析、大脳生理学的な罵倒語発話の分析などが行なわれた。最終的に、罵倒語を使わないことの重要性が導かれるという流れになっている。
 講義を監督したある教官の意見は、やはり、この問題に触れるのは難しいというものだった。それは、上に書いたように、通常の日本語教育の流れから当然出る結論である。同じ講義を監督した主任教官の意見は、実験的なものであり、やはり必要だというものだった。
 学生としてこの講義を聞いた私は、罵倒語が差別と関係するがゆえに、否定する教官の意見も理解できるし、逆に必要性を感じた主任教官の意見も理解できると感じた。
 そこで、この講義に関する私の感想を書こうと思う。

 罵倒語は日本人の日常生活にみられるものであり、日本語を学ぶ外国人学生がそれに接した時、それへの対応が迫られるものである。また、状況に応じて言語がコントロールされるべき日本語においては、日本語学習には会話の場面場面における状況の把握が必修となる。それゆえ、この問題の学習は、他言語と比べて当該国文化の把握が重要となるように思われる。その意味で、罵倒語の研究は、実は必修のものと考えられる。
 もう少し平たく言えば、一般的な外国語学習者にとって、喧嘩の際に使用できる言語とは、関心がもたれるものだし、ある意味で必要なものでもある。それは我々日本人が外国語を学び、その国の社会で生きる場合に、当然関心を持つのと同様である。

 通常、外国人日本語学習者は日本語における罵倒にどう対応するのだろうか。それは各外国人が背景として持つ出身国の文化・社会的背景に基づく対応となるだろう。しかし、そこに日本文化に対する適切な理解がなければ、自ずから対応はちぐはぐしたものとならざるをえない。
 そこで、いくつか論点を分けて考察したい。

1.基本的視点
 1)日本語学習者にとって、何が罵倒語であり何が罵倒語でないかの識別は必要である。これは通常の授業中で、ある程度、フォローされているものである。つまり教員から使ってはいけないという表現によって示される。
 2)避けられない人間関係、例えばアルバイトなどの場合。日本語学習者にとって一番問題となるのは、自分に向けられた罵倒語である。罵倒であることは認識できるのだが、その罵倒の程度や、社会的許容限度を知らなければ、対応できなくなる。
 3)罵倒語やダーティーワードは、それが出現した時点で、コミュニケーションの継続を困難とするものであり、差別語や差別的態度同様に、学習者の理解が必要なものである。なぜなら、それらの言葉の理解なくして、正確な対応が難しい。
 4)そこで、上級者以上の学生に対して、このようなディスカッションが必要となる。
 5)それを使って喧嘩の応酬をしたいと思う学生に対しては、喧嘩の応酬ではなく、うまくそれを避ける方法を教える方が、学習としては実用的であろう。
 以上は、A氏と私が共有できる視点であるように思う。

2.議論の展開として考えておきたいこと
 1.「差別語・不快用語」としての罵倒語
 A氏の講義は、そのすべてが15分という短時間に行われたもので、その時間的制約を考慮しなければならない。しかも、講義自体がディスカッションのための素材提供という別の制約を持っている点も考慮する必要がある。
 そのうえで、1点気になったのは、罵倒語を使用する社会階層についての考察である。これは学生との質疑応答によって導かれた例だが、以下のようになった。

 罵倒語を使う人
  貧困層
  がらの悪い人
  スポーツマン  つまり、いけない人
 罵倒語を使わない人
  セレブ
  おぼうさん
  神父
  先生
  レディー  つまり、ちゃんとした人

 このような分類である。
 この分類は非常に短時間に学生から導かれたものであり、その制約がある。しかし、もしここから「罵倒語を使う社会階層と付き合うのはやめましょう」といった誤った結論が、ディスカッションを通じて導き出される可能性がある。
 ここで分類された「いけない人」の概念に、例えば、犯罪者、精神異常者、同性愛者、女子供、老人、若者などが加わるとしたら、それはダイレクトに、それぞれの言葉の後ろに「差別」が付くような事態になりかねない。すでに「貧困層」というタームは実際の授業で出現している。
 また、「ちゃんとした人」に分類される「セレブ」にしても、まさに合法的に、大勢の従業員を自社の利益のために必要もなくリストラしたり、宗派対立に血道をあげるおぼうさんや、ラテン語で「異端者を殺せ」といつも歌っているカトリック神父も含まれることを考えると、単純に良い悪いで分類することはできない。
 またそうした罵倒語を使うからダメというのではなく、なぜそのような言葉が使われるのかに関する、社会的背景の考察が必要になる。つまり、単純に「罵倒語=いけない人」とするのではなく、彼らがなぜそのような言葉を使う必要があるのかに関する議論を避けるとしたら、議論の公平性を欠くものとなるだろう。そして、それは授業目的に到達するうえでの障害になるように思われる。

 これらの考察はA氏の教案では、たぶん、ディスカッションの導入部分ではなく、その結論を議論する際に考慮される予定になっていたのだと思う。

 では、その際考慮されるべき点について触れてみたい。

 「差別語・不快用語」とは、実は、共同通信社の『記者ハンドブック−新聞用字用語集{第10版}』(2005)に立てられた項目名である。これは記者が使ってはいけない言葉とその言い換えのリストである。このハンドブックは、雑誌などの文字校正・校閲でも利用されるため、その影響力は共同通信の記者にとどまらない。

記者ハンドブック 第12版 新聞用字用語集

記者ハンドブック 第12版 新聞用字用語集

 なぜこのような言い替えが必要となるかについては、この本の同項目の冒頭に記されている。以下はその引用である。
 「性別、職業、身分、地位、境遇、信条、人種、民族、地域、心身の状態、病気、身体的な特徴などについて差別の観念を表す言葉、言い回しは当事者にとって重大な侮辱、精神的な苦痛、あるいは差別、いじめにつながるので使用しない。
 ……(中略)……
 言い換えの例示をしているが、単純に言葉を言いかえればいいということではない。原則は「使われた側の立場になって考える」ことが肝要である。
 基本的人権を守り、あらゆる差別をなくすため努力することは、報道に携わる者の重要な責務だからだ。」(490頁)
 この本は、この文章以下、様々な該当用語を取り上げ、その言換えと言い換える理由が示されている。
 私がこの冒頭部分で注目したいのは、「言い換えの例示をしているが、単純に言葉を言いかえればいいということではない。」という文である。つまり、この文は「原則は「使われた側の立場になって考える」ことが肝要である。」と続くのであるが、もし罵倒語を差別の文脈で理解するのであれば、これらの差別語・不快用語を使わないで行われる差別が存在する場合に私は注目したい。
 例えば、かつて歴史的に存在したエタ・ヒニンといった不可触センミンの名称がある。これらの言葉はもう日常ではあまり使われないが、例えば、会話の中で「川向こうの人たちとは付き合っちゃだめよ。だって肉屋をやっているし……」といった言葉が交わされるとしたら、それが指す対象はまさに明確な差別=差別表現として扱われることになる。
 また逆に、たとえ文学作品などの中で差別語が使われていたとしても、その作品が最終的に差別に対する告発を目的とするものであれば、理由を作品外で明示したうえで使用が許可されるように思われる。
 このように、差別語・不快用語としての罵倒語とは、単に使わなければいいという結論で処理できる問題ではない。こうした内容の認識・議論が必要だろう。
 もう1つの視点としては、このような共同通信社の記者に対する注意書きとは、多分に組織防衛の視点で描かれていることに注意が必要だ。つまり、会社が批判される隙を作らないことに内容がシフトする可能性がある。
 その意味でも、単に差別表現を使わないと言うだけではなく、文脈を通して、差別表現を使わないにもかかわらず差別になるようなものは極力注意する必要がある。差別語・不快語規制には、多分にこうした視点が漏れてしまうものだからである。

 2.喧嘩のための罵倒語をどう扱うか
 喧嘩のための罵倒語という理解からすれば、私はその必要性を認める者である。
 なぜなら、現実の社会には罵倒されなければならない者も存在すると思うからである。
 日常生活の矮小な喧嘩を離れても、例えば、罵倒もしない無垢で気の弱い人々、それゆえ他者にやさしく配慮ができる人々に対して、その気の弱さに付け込んで無謀な行動をする権力者、特に中央地方政府の首長や官僚が存在するからである。この場合、一概に使わないこと=善とは言えないだろう。政治的現象、経済的現象、社会的現象にはこうした局面が現われることも多い。
 しかし、ここで注意されなければならないのは、罵倒語とはキャッチ―なもので、それを発することによって注目を集めることは可能であるとしても、実際には、罵倒するような低能な奴とは付き合わないというリアクションを伴うことがほとんであり、使った瞬間に使ったものが排除される可能性が高いということである。
 会話であれば、相手があることで、「お前、それはどういう意味だ!」と会話が継続するのであるが、それは話者間の信頼関係に依存するリアクションである。つまり、信頼関係がなければこうした議論すら存在する余地がなく、関係性の断絶につながるがゆえに、非常に注意する必要がある。
 セクシャル・ハラスメントについても、話者間に信頼関係があれば、冗談で済ませたり、たしなめたりすることが可能だが、これが権力関係の会社が受ける被害だとすれば、信頼関係がない上に社会的力関係で被害者が抑えつけられる関係になり、より問題がこじれ、最終的に法的救済を求めるといった悲劇につながりやすいため、注意が必要だろう。
 また別の視点から言えば、完全に罵倒語を排除する立場は、逆に、思想信条の自由に関わるため、結局は、それを聞いたり見たりする人の判断や反論を待つ結果になるように思われる。

 3.日本社会における罵倒語の少なさと、その社会文化的背景
 また、なぜ日本に罵倒表現が少ないかの考察も、より深めた形で提示される必要があるように思う。
 模擬授業では、「日本人は丁寧で真面目だから、社会的性格から言えない」という意見が出された。これは、日本人の同講座学生による超上級の外国人学生になりきっての発言である。
 しかし私は、日本人の「穢れ(けがれ)」と「禊ぎ(みそぎ)」といった日本社会の底流にある考え方に、その理由があるという説明も必要なように思う。栗原彬編『日本社会の差別構造』 (講座 差別の社会学3)(弘文堂・1996)で読んだ考え方である。

日本社会の差別構造 (講座 差別の社会学)

日本社会の差別構造 (講座 差別の社会学)

 ここで扱う「穢れ」と「禊ぎ」とは、私の推測だが、その言語の発生にさかのぼれば、古代人が対応できなかった疫病といったウイルスに対して、体を水で清めるといった行為を指して生まれたものと理解していいと思う。ここにあるのは、極めてシャーマニズム的な対応であり、その内容を問わないという姿勢である。
 差別行為の対象となる人々には「穢れ」があり、その「穢れ」は簡単な「禊ぎ」では祓えないという思想が、現在においても、日本人の差別意識の根底にあるように思われるという考察である。それは戦前の民主主義や平等思想が、敗戦によって全面的に日本社会に広げられた現代においても、依然、残る思考様式である。
 例えば、推定無罪という言葉があり、法思想や社会思想において明白であるにもかかわらず、起訴されたらすでに罪人扱いされるということにその思考様式の一端がみられる。ここには、検挙した者はほぼ100パーセントの確率で有罪になるという、日本の刑事裁判の歴史と、ある意味神話的な検察の「実績」も影響しているだろう。しかし、検察・警察の取調過程における問題が頻出する現在でも、こうした考えが流布するとしたら、それは検挙=穢れといった概念があり、それに該当する人々に触れること自体も穢れを自分自身に移す行為になるという恐れの概念が影響しているように思う。
 そのため、日本人は自らに穢れを寄せ付けないために、穢れ=犯罪=罵倒から身を引こうとする態度となって表れているように思う。このことが、日本人に罵倒語が少ない理由となるように思う。
 このことは単純に外国から褒められるだけではなく、当然、負の側面を持っている。
 つまり、その被差別対象に、本当の意味での有責性があるか否かではなく、穢れを持つという、まさにその印象と、そうした社会的評価によって、対象が人格的に葬られることを意味するからである。
 この点、西欧のキリスト教的倫理観にもとづく善悪の概念とは、明瞭な対照をなすように見える。キリスト教的倫理観は、前述したカトリックの問題があるように必ずしも常に正しいとは限らないが、少なくともそこには神の前に平等な善悪の区別がある。そして、日本には、残念ながらそれがないという違いが重要だと思う。
 また、ここでは、日本社会における「内」と「外」の区別も重要な役割を果たすように思われる。「うち=内、家」といったように、日本語には発生を同じくすると思われる概念があり、それだけ概念として古くからあり、日本に住む人々の心に奥深く根付いている。ある論者の意見によれば、日本のような和を大切とする文化において、なぜ強烈な企業間競争が行なわれるのかといえば、それは企業を「内」と「外」に明確に区分する考えが存在するからだと言われる。
 家族主義的経営概念とはこうしたものを指す別の言葉でもある。しかし、小泉=竹中改革以後の新自由主義経済政策によって、家族主義的経営は危機に瀕し、現在は、企業単位ですべての従業員を「内」とした発想から、正規従業員とそれ以外といった区別が導入され、「内」が含む従業員数の縮小と、その内部においても「内」であることをめぐる強烈な競争が生み出されているように思われる。
 また、この「内」概念とは、そのメリットして、自然に起こる内部の安定を目指す集団特性から、逆に外部を排除する姿勢にもつながる。いわゆる「外人」という呼称や、ホームレスの人権に対する不当な無視にもつながる事例がそれを示すように思われる。ここにはすべての人が神の子であり、平等であるというキリスト教的倫理は通用しない。結局、場を支配するのは「穢れ」がある人とそうでない人の区別だけになる。いまだ死刑制度を支持する人が多数となる日本社会の理由もこのあたりにあるように思われる。
 この議論には、よく知られる「言霊思想」も付け加えていいかもしれない。

 4.日本には、なぜ差別を規制する法律がないのか
 こうした議論を経ると、非常に興味深い分析が行えるように思う。つまり日本人は、差別行為に対して、それが善であるか悪であるかはあまり考えない。むしろ、「穢れ」としてそれを遠ざけようとする心理的圧力が生じる。つまり、「穢れ」を見たらそこから離れることが肝要であり、その「穢れ」が果たして本当の穢れか否かを考察することをしない、もしくは、そうした議論を避けようとする傾向があるのではないかという問題である。
 現実問題として、日本以外の各社会にも、同じくらいの心理的に追い詰められた人々が存在し、そこには罵倒語が発生する局面があるのだと思う。西欧的理性に沿って対応するのなら、もしくはキリスト教的倫理観で対応するのであれば、そうしたダーティな局面に対して、その内容を吟味する余地が生まれるように思う。そしてそこから、なぜ差別が生まれるのか、それをどう解消するのかといった議論が生じる。その結果が、復讐から離れた教育といった近代法思想であり、犯罪の発生を減らすための社会政策であり、それでも残る差別に対する法的規制であったように思う。
 しかし、それを「穢れ」と「禊ぎ」としてとらえると、理性よりも感情が前面に立ち、結果、法的対応が遅れるように思う。冤罪の指摘がなされても、いまだ、死刑制度に賛成する人々が多いという日本社会の特性も、こうした背景によって生み出されているように思う。
 島国であり、労働力として移民を大規模に導入するといった政策をとらなかった日本には緊密な人間関係があり、それが日本人の礼儀正しさを生みだした。同時に経済的成功が豊かな社会を生み出し、礼儀に考慮するだけの精神的ゆとりを生みだした。
 それゆえ、日本人はこうした差別への対応をせずに生きることを可能とされてきたのかもしれない。しかし、そこにもし差別が存在するとしたら、我々は冷静な対応として、憲法に保障されたすべての人が文化的に生きる権利として「反差別立法」を検討する必要があるだろう。それが、石原東京都知事のような人々のネガティブな感情を糧に票を集めるような前近代的政治家の跋扈を阻止する理性的対応になるのだと思う。

3.結論
 このような考察から導き出されるものは、単に「ダーティワードは使わないようにしましょう」という結論では済まされない、日本社会の歴史的背景についても我々が考える必要性があるということだと思う。
 そして、こうした議論は、すべて学生から自発的に導き出されることが望ましいが、もし導き出されないとしたら、教官が議論のヒントを与えることが、より議論を深めるために有効なのではないかと思われる。
 そして、これらに導かれる私の結論は、超上級の学生に限られるとしても、このような議論は重要だと考えるということになる。