職業訓練

 昨日は職業訓練の第一日目でした。87人の応募者の中から生き残った24人の中に入れたわけです。
 開校式のあと、午後から安全衛生の授業がありました。
 開校式では、いろいろな式辞のあと、同期生の自己紹介があったのですが、すごい経歴の人ばかりで、正直ビビりました。
 特に、教員や塾の先生といった過去に教えた経験のある人は、心からうらやましいと思いました。そんな経験、まったくなかったからです。
 海外経験に関しても、何十年もアジアで仕事をしてきた人とか、中東に6年住んでいた人とかが大勢いて、自分なんて全然、といった感じでした。
 そうした経験のない若い人たちも、それぞれモチベーションの理由となる経験をいろいろ具体的にもっていて、単に海外でできる専門性のある仕事と簡単に考えていた自分とはすごく違うなと驚かされたり落ち込んだりしました。
 さて、午後の授業では、厚生労働省規定のカリキュラムだったのですが、教科書通り教えても無駄が多いだろうからと、オリエンテーション的授業となりました。この授業を一言でいえば、「自分の頭で考えることの重要性」といったものだったと思います。
 具体的には、上級クラスにおいて、大学院進学を予定する学生の論文指導に関してでした。
 最近のコピペで論文を書く悪習の批判から始まって、講師の説明は、400万年におよぶ人類史において農業革命、産業革命を経たわれわれが抱える問題とは何か、といった話でした。その間、終始、講師は受講生に質問するかたちで授業を進められていて、これが自分で考えることのトレーニングなのかなと思いました。
 しかし、そうした説明に、押さえてはいても講師自身の思想性が出るのは自然なことです。講師は、フランシス・フクヤマ『歴史の終わり』とサミュエル・P・ハンティントン『文明の衝突』について、それぞれ冷戦終結と9.11テロを予言したものとして説明していました。
 今、Wikiで調べてみたら、フランシス・フクヤマ社会主義に対する資本主義の勝利を歌い上げたというのは誤りで、自由民主主義政治体制の最終性を主張した、その意味での歴史の終わりということでした。そして、その政治体制が機能するためには「機会の平等」が保障されなければならない、と述べます。
 また、フクヤマにおけるニーチェへ賛辞は、たぶんに精神主義的な側面をもつように思えたのですが、唯物史観が主な問題としたのは、ほかならぬこの現実世界における「機会の不平等」からでした。ですので、もし完全に機会の平等が保障された社会が世界のすべての国で出現するのなら、それは「歴史の終焉」と呼んでもいいものとなるのだと思います。
 その意味で、Wikiに引用されていたヘーゲルの主人と奴隷の弁証法も根拠をもつものです。つまり人間における生活基盤(物質的基礎)がこのように意味をなさなくなる状態を語っているからです。その意味では、唯物論の必要もなくなるのでしょう。
 ハンティントンの文明の衝突論についても、最終的な結論として、ハンティントンは「多様な文明圏の平等な地位」を志向し、それのみが世界的な政治の安定をもたらすとしています。
 両者の議論は、いずれも長期的スパンで語るもので、まだ現状が不安定なことを否定するものではありません。
 その意味では、フクヤマの言う「自由民主主義的政治体制」を脅かすのも、ハンティントンの言う「文明の衝突」を引き起こすのも、じつは唯物論的理由であることが明らかにされる必要があるのだと思います。つまり、米国における貧富の格差が国内における「機会の平等」を脅かし、自由民主主義的政治体制からファシズム的なものに向かう可能性、そして、そうしたアメリカの行動によって世界規模で引き起こされる文明の衝突といった事態です。これこそが、エマニュエル・トッドが『帝国以後』で描いた世界です。
 その意味で、この2人とは歴史スパンが違うものの、エマニュエル・トッド『帝国以後』の重要性を指摘する必要があります。これは衰退しつつある帝国・アメリカがその衰退ゆえに世界に害悪をもたらすことに警鐘を鳴らした本です。
 不安定から安定へと歴史は一方的に流れるわけではありません。スパンが長いだけに揺れ戻しは必ず起こる。だから、フクヤマの言う政治体制という意味においても「歴史はまだ終わっていない」とも言えるのだと思います。
 そして、文明の衝突といった様相を呈する紛争においても、その原因は意外と唯物論的なものだったりするわけです。
 大学院進学の論文指導だとしたら、指導教授のイデオロギー分析(論文の傾向)が重要となりますから、フクヤマ&ハンティントンでもいいかもしれませんが、現状分析の社会科学的正確さを求めるのなら、エマニュエル・トッドは外せないと思いました。また、世界経済のもう少し細かい分析には、藻谷浩介『デフレの正体』による人口動態調査の手法も必要になると思います。
 あと、コピペ批判にしても、結局、入試論文は手書きで資料を見ずに書かなければならないものですから、練習でもコピペはダメなのだと思います。
 もっとも、僕にしても、この講師にしても、自らの論はさまざまな本を読んで、それを参照するかたちで展開します。ネットで参照した文章を自分の言葉にして、論文として展開するのなら、何ら問題ないことなのだと思います。
 これでガイダンスは終わり。水曜日からは実践的内容の授業が始まります。あー、怖!