国家の暴力装置

 こと仙谷が言ったので、つい僕も自民に同調しそうになったのですが、実際、自衛隊暴力装置ですよ。国家の暴力装置です。警察も検察も裁判所も暴力装置です。だって人を殺す装置なのですから。武力をもって敵を排除する組織だからです。
 こんな自民党側の批判が、あたかも世間の常識かのように通用すること自体、いまだ世間が自民ボケしている証拠だと思います。冷戦ボケと言ってもいい。
 今回の議論の構造を考えれば明白です。
 軍隊を暴力装置と呼んで、それが市民に敵対する存在だとしたのは、マルクスおよび左派的考え方であり、そうした暴力を肯定したのが保守派の考え方でした。事実、歴史において、敵国民であれ自国民であれ、無垢な市民を相手に、殺さなければ自分が殺されるといった戦場に追い込んだのが軍隊です。そして、市民の正当な要求に対して暴力をもって排除したのが警察組織でした。だからこそ、これらの組織に対して法治主義と民主的統制が要請され、欧州においては「軍隊の市民化」というスローガンも生まれたのでした。
 つまり、社会党出身の仙谷が自衛隊を準軍事的組織として暴力装置と呼び、それを保守である自民党が問題発言だというのは当然なのです。だって、保守派はいつでもそうした暴力自体を肯定してきたからです。これは歴史的経緯として厳然たる事実です。
 むしろ、そうした組織の暴力的本質を隠し、暴力装置と呼ぶことをあたかも自衛隊員に対して失礼なことと言うことの方が、ことの本質を隠した、レトリックで人を欺く態度だと思います。
 事実、自衛隊は国内の暴動に対して治安出動するという、市民に銃を向ける作戦計画をこれまでも策定してきました。そのとき銃を向けられた、自らの正当な権利を主張している市民は、自衛隊を暴力と呼ばないのでしょうか? これこそが、軍隊、警察を暴力装置と呼んだ左派の見解の本質です。
 仙谷に対して批判する余地があるとしたら、暴力そのものの戦争機械である武装集団を管理する人間として、そうした組織をより市民的なものにしていく義務が仙谷にはあるという点です。日本国憲法9条の思想とはそうしたものです。批判されるとしたら、その組織の管理者として準軍事組織である自衛隊をより市民に開かれたものにする必要があるのに怠っているのではないかという点くらいです。
 でも、その点にかんしても、今回、仙谷はシビリアンコントロールが必要という文脈で発言したのですから、文脈的には正当なものでした。
 ただここで重要なのは、仙谷自身、実際には、小沢排除という自己の政治的目的で検察を利用してきた。マスコミはそれに目をつぶって、総務省とつるんだこれまでの既得権益を守るために小沢排除に協力し、デマゴーグで世論を誘導した。
 そんなことをしてきた仙谷が、こうした組織をみずから「暴力装置」と呼ぶのは、じつは自己矛盾です。あるいは正直と言ってもいいのですが、それは彼自身が暴力肯定の思想の持ち主だからです。そうした権力的発想こそ仙谷に対しては批判されるべきものです。そして、同類の自民党も同じ批判を逃れることはできない。
 論点を変えれば、自衛隊に関して本当の意味で問題なのは、政治的に中立であるべき自衛隊が、たとえばかつて小泉の息子や小池元防衛大臣によって、自民党の宣伝に使われたという事実です。マスコミはあまり問題にしなかったけれど、民主党による政権獲得後に、小泉の息子は自己の政党の支援者を呼んだ集まりで自衛隊を見学し、自民党という政党の目的に自衛隊を利用した。小池もそれに参加した。こちらの方が仙谷の発言より、より問題であった。これは政治的中立を規定した自衛隊法違反でもありました。
 論を戻せば、もちろん政治家としての仙谷は排除すべきです。しかし、暴力装置発言で仙谷を排除するのは、たとえ最終目的が同じだとしても、同意できる内容ではありません。
 そして、実際、この仙谷発言は、柳田法務大臣発言ほど、世間では重要視されていないようです。それはことの内容上、当然のことだと思います。
 抗議すべきは、仙谷の暴力装置という発言ではなく、仙谷の自衛隊、検察、警察に対する私兵化に対してであるべきだと思います。