検察審査会の小沢氏強制起訴に反対する

強制起訴について
 ついに恐るべき議決がでました。そもそも小沢氏の秘書3人に対する起訴に対しても疑惑がもたれるし、小沢氏に関しては同様の捜査が行なわれているにもかかわらず不起訴になった経緯があります。
 以下に、第1回の起訴相当議決に関するものですが参考になる記事をアップします。

検察審査会を仕分けしろ!: きっこのブログ
http://kikko.cocolog-nifty.com/kikko/2010/04/post-a17e.html

郷原信郎検察審査会の「起訴相当」議決について...とんでもない議決、あぜんとした
http://www.the-journal.jp/contents/newsspiral/2010/04/post_558.html

 僕の意見を付け加えると、今回の「起訴相当の議決」は、法的根拠がないのに、マスコミの風聞に迷わされた審査会11人のうちの8人が起訴すべきと議決したものと判断できます。そして、その議決には、法律の専門家として審査員に解説する審査補助員である弁護士が最も影響力を与えられる立場にあることは明白です。ついで、資料を提供する検察の存在もあります。
 前回の審査補助員は、検察をやめて、現在も実質的に検察の支援のもと(つまり検察とのコネや検察をよく知っているという知識を使って弁護活動を行うという意味)法廷弁護を行う、検察をやめた弁護士が担当したものでした。今回の担当は不明ですが、同じことが考えられます。
 マスコミの風聞とは、これまで書いてきたように、新聞・TVの既得権益総務省の官僚と共に守ろうとする官僚報道複合体の執拗な小沢つぶしキャンペーンという意味です。これは自民党による民主党つぶしから始まって、仙谷官房長官と仙谷に操られた菅首相が政敵である小沢氏を排除するために引き継いだ路線です。なぜそう言えるかといえば、菅政権における天下り容認、官僚依存の政策が、官僚の無駄を排除するのではなく官僚と既得権益側に立つという立場を、如実に示しているからです。

ファシズム的日本報道について
 今後、今回東京第5検察審査会が出した決議文の全文も明らかにされるでしょう。その過程で、その内容のいかがわしさの分析も行われることになると思います。
 しかし証拠はないけれどあやしいという素人集団の決議を受けて、仙谷は早速、小沢氏の民主党からの排除、つまり除名を行うことは明らかです。そして上に書いたマスコミのデマゴーグによって先導された「世論」がそれを「当然」と後押しする。ここで世論にカッコをつけて書いたのは、「小沢氏=黒」とだけ報道する、正義ではなく自己の利益のためのマスコミ報道が、異論を締め出す形で論陣として張られ、世論調査は、結局、そのデマゴーグ「報道」を後追いする形になると予想されるからです。同様の現象は民主党代表選挙の時にも見られました。
 その後は、法廷闘争となる。しかし、無罪判決が出た時には、もう遅いという事態になることを僕は恐れます。
 そもそも、その時民主党があるかどうか自体疑わしいことです。

民主党反小沢派の犯罪性
 なぜなら昨年の民主党衆院マニュフェストに最も忠実であったのは小沢氏の先の民主党代表選挙での政策だったからです。そして、それを骨抜きにし、消費税増額というマニュフェストを裏切る行為までして、今年夏の参院選での大敗をもたらしたのが、ほなからぬ菅内閣であった。こうした菅の姿勢によって選挙民はすでに民主党から離れていた。にもかかわらず、代表選になると全マスコミによる小沢叩きによって、菅は民主党代表の座を守った。そのうえで、補正予算規模や2011年度予算編成に見られるように官僚や自公に屈服した姿を示しているからです。
 これは民主党の存在意義すらなくす行為です。天下りを容認し、行政の無駄を容認する。だとしたら、どこに民主党の昨年夏の政権交代時の約束が残るのでしょうか?
 小泉構造改革は、民力活用をスローガンとしましたが、公団などの名前を変えただけで天下りや公金支出の実態は変更しませんでした。結局、この構造改革は労働者の利益という聖域だけを切り崩したものであったと僕は総括しています。その意味でこの新自由主義政策は、グローバリズムと歩調を合わせた、大資本の生き残り策でしかなかったと思います。資本家の利益を守るために労働者の権利を制限するという政策は、ファシズムの運動と全く内容を同じくするものです。

ファシズムとは何か
 歴史的に見て、台頭する左派勢力を抑え込むためにファシストが資本家と結託したのが日独伊のファシズムの姿でした。その時、マスコミもファシズムに協力した。民衆はファシストとマスコミのデマゴーグによって地獄への道を歩み始めた。
 検察審査会の議決がおかしいという理由は、提訴した団体がいまだ匿名であること、そして疑惑のささやかれた他の政治家、特に自公、反小沢派民主党政治家が全く検察のターゲットになっていないことからも例証されると思います。なぜなら、彼らは官僚の利益、マスコミの利益の擁護者だから除外されたと考えるのが正当な判断だと思います。
 これらの判断から「民主党代表選が日本の民主主義の分水嶺である」と以前、僕は日記に書きました。そして、その結果が出たのだと思います。
 取調過程の可視化、天下り、中央官庁の権限独占、弱者切り捨てという棄民政策などに代表されるように、日本の民主主義が欧米なみにすらなれないのは、決して特殊なアジア的、日本的な文化的要因ではないと思います。
 それは、日本の選挙民の政治的成熟がまだまだ足りないことによるものだし、その不利益は日本人自体が負わなければならない負債なのだと思います。

判断における責任について
 「小沢氏の問題はわからない」と判断を保留することはたやすいことです。でも、その言葉を発する時に目をつぶる検察容認の姿勢は、こうした問題に目をつぶった人間が責任を負わなければならないものです。自分を含めて書きますが、判断とは必ず責任を伴うからです。そしてたとえ匿名性によってそれを避けることができたとしても、本人はその判断を自分がしたことを知っているのですから、自己の記憶を消さない限りその責任を逃れることはできません。
 蛇足ですが、なんか鈴木宗男とか佐藤優批判を繰り広げているブログがあるみたいですが、検察という本当の敵を見失うと、単なるくだらない内輪もめになってしまうのではないかということを僕は恐れています。これこそ第二次世界大戦期のドイツ共産党の最大の誤りであった「社民主敵論」に相当する行為です。