NHK教育『1週間de資本論』第4回「歴史から未来を読み解く」+1

1週間de資本論
 第4回目だけを偶然見て、こんな番組やってたなんて知らなかったと驚いたのが、NHK教育『1週間de資本論』(http://www.nhk.or.jp/tamago/program/20100930_doc.html)でした。調べたら、以下の時間に再放送されるようです。必見です。

 チャンネル:NHK教育/デジタル教育1
 放送日:2010年10月4日(月)〜7日(木)
 放送時間:午前5:35〜午前6:00(25分)
 第1回「資本の誕生」、第2回「労働力という商品」、第3回「恐慌のメカニズム」、第4回「歴史から未来を読み解く」

 僕の見た第4回は、神奈川大学教授の的場昭弘さん、経済評論家の田中直毅さんがゲストで、途中、ジャック・アタリのインタビューが入る構成でした。最終回らしい、これからの世界を考える構成です。
 見ていて田中さんのトンチンカンな発言が笑えたのですが、的場さんが「マルクスマルクス主義者ではなかった」、つまり既存の社会主義国マルクスの考え方を区別すべきと言っているのに、田中さんからは「社会主義国家が生み出したのは政治抑圧の体制だった」みたいな、マルクスの思想と既存社会主義国家の政治体制を混同した発言が続いて、笑ってしまいました。でも、一般の理解ってこんなものかなとも思いました。
 また田中さんは、マルクスに対してアダム・スミスを持ち出したりして、そんな話をしているんじゃないだろって感じでした。
 不況に対して文句を言うのではなく、技術革新で乗り越えるべきという田中さんの意見も、シュンペーターあたりから来てるのかなとは思いましたが、そんなことはマルクスもすでに織り込み済みだろうと思いました。つまり資本主義は、番組でも説明されていたように、資本家が資本家を収奪するという寡占から独占へ向かう運動でもあり、その中には当然、資本家間競争に勝ち残るための技術革新も含まれます。
 ジャック・アタリの「グローバリズムが進んでいるけれど、それを世界単位で規制する組織として世界政府が必要」という意見に対しても、田中さんは「世界政府を持ち出すなんて、何も言っていないに等しい」という評価でした。
 でも実際には、アタリはEUの実践を踏まえて発言しているし、世界的な経済の動きをコントロールする国内法的制度はまだ十分ではないのだから、アタリ的発想は必要なものです。
 それにアタリは自著、林昌宏訳『21世紀の歴史−未来の人類から見た世界』(2008・作品社)を踏まえて、これから100年間の話をしているのに、現在の状況を固定化して見ることしかしないのも、近代経済学派の評論家らしい発想だなと思いました。
 的場さんは経済学者ではなくて社会思想史の学者だったと思うのですが、的場さんが説明した「グローバリズムマルクスの理論の世界資本主義で説明できる」という意見のほうがよほどすっきりと納得できる考え方です。
 冷戦の終了を印象づけるソ連・東欧の共産党政権の崩壊は、社会主義の失敗というよりも、むしろ開発独裁や国家独占資本資本主義が崩壊し、再び世界資本主義体制に組み込まれたと考えたほうがよりわかりやすい。そしてマルクスの予言は、こうして世界市場が確立した以上、これからよりリアルになると的場さんは説明していました。
 先進国の経済成長が鈍化し周辺諸国の成長が著しい現状や、先進諸国内の賃金の低下や産業の国外流出などの問題はグローバリズムで説明されています。しかし、マルクスの理論を使っても同じことが説明できます。番組で紹介されていた、周辺諸国の方が先進国より自由貿易を望むというアンケート結果も、こうしたグローバリズムの進展という現状を踏まえての結果だといえそうです。
 少し前までは開発独裁や国家独占資本主義、従属理論、新植民地主義といったタームで世界経済が説明されていました。
 特に従属理論は、中心対衛星国家という図式で、先進国が、たとえて言えばブルジョアの立場に立ち、周辺諸国プロレタリアートの位置に固定されることを主張しました。新植民地主義も、旧来の帝国主義的植民地ではなく、周辺諸国の傀儡政府によって経済資源を先進国が安く買い叩くという、先進国を批判するための言葉でした。
 いまだこうした構造は残っています。しかし新興経済諸国に見られるのは、マルクスのいう原初的蓄積段階を終えて、先進国の経済をキャッチアップする姿です。資本の国境を越えた移動をへて、現在の先進国における新しい貧困と反比例する形で新興経済諸国のGDPの拡大がある。これらは国内的な規制を逃れた資本の国境を越えた流動という姿で、これこそまさに世界資本主義に他なりません。
 また、近代経済学の理論では(ケインズにはあるのかもしれませんが)、それではなぜ独占禁止政策といった競争政策や失業給付が必要になるのかを説明できない。これこそ、失業者が単なる彼らの怠惰からではなく、資本主義が必然的に生み出す犠牲者であるという背景を見ない姿勢といえるのではないかと思います。
 つまり平たく説明すれば、労働市場において資本は自社の業績を伸ばすために有用な労働力を上から取っていく、その結果、最底辺に失業者が生まれる。完全雇用が生み出せない以上、これは当然のことです。そして現在の不況下において、労働者間の就職競争も当然激化する。これが現在の状況です。
 ここで注意が必要なのは、企業が求めるのは剰余価値(企業にとっての利益)を生み出す労働者という側面であって、労働者自体のより多様な価値(社会にとっての利益)ではないということです。しかし、それが社会的認知の欠如という側面から、失業者の負い目となって現われ、不毛な失業者の自己卑下につながります。これは絶対に否定されなければならないことです。
 話を戻すと、ましてやより安い労働力を求めて資本が海外に流失し、それを止めることができないとしたら、それは賃金の世界的平均を目指す動きになります。つまり、国家独占資本主義などの国際環境によって守られてきた先進国労働者の地位の低下を意味することになります。
 もっとも、資本の海外流失を阻止する要因もあるので、一概に言えないことも事実なのですが、ここで田中さんの「イノベーションによるより強力な国内産業の育成」という話につながるのだと思います。つまりグローバル化という多国間競争を背景として、資本間の競争はより激化し、当然、そのしわ寄せが労働者に降りかかるといった現状を、田中さんの説明は同時に表しているわけです。しかし、ここで、弱者を放置していいのかという問題が残ります。それは最貧国の飢餓線上の人々のことを考えるのと同じ視点でです。そして、人間の価値は剰余価値を生み出すだけではないという視点も必要となります。
 また、僕が今回の第4回でもっと聞きたかったのは、的場さんが世界市場における資本の寡占化が進んで独占体制になっとき、それは企業を社会的に所有すること(=プロレタリアート独裁)とほぼ同じであり、社会主義に転換すると説明したことでした。
 企業の独占や寡占は消費者にとって不利益であるというのが、競争法=独占禁止法の基本的考え方です。しかし、国内においては独占や寡占として問題がある企業ですが、国際的には競争力をつけるためにある程度の寡占は許容されるべきであるという考え方もあります。本来的に言えば、世界政府が競争法的規制をすべきなのですが、まだそれはありません。
 その問題はおくとして、的場さんが説明したように、果たして世界を独占する企業は出現しうるのかという問題です。すべての企業が世界的に独占状態になればそれは社会的所有と同じなるともいえますが、それを阻止することによって資本主義を維持するという仕組みが競争法政策だし、失業といった資本主義の負の側面を軽減するのが社会保障政策です。このへんの関連を聞きたかったのですが、番組の時間が短かったせいか、的場さんは「遠い未来のことかもしれないし、明日起こることかもしれない」と短く説明しただけで、議論は尽くされませんでした。

ベーシック・インカムをめぐる『朝日新聞』論壇時評
 そんな中で興味深かったのは、『朝日新聞』2010年9月30日朝刊23面の東浩紀さんの論壇時評でした。このなかで東さんは、ベーシック・インカム(BI、国民全員への無条件一律現金給付)に関する議論を、『週刊エコノミスト』2010年9月21日号と『POSSE』vol.8を使って紹介しています。BIによって旧来の社会保障給付に変えるという意見です。
 このアイデアに肯定的な小沢修司さん、飯田泰之さんに対して、否定的な橘木俊詔さんの意見を紹介しながら、否定論者には国家の介入を否定し、旧来の地域の力に期待する姿勢があると説明します。
 小沢さんの意見とは、現在の日本の経済力なら1人8万円のBIが可能であるという試算を示しています。これは興味深い話でした。実際に多くの年金給付者がこれ以下の収入で暮らしている現実があるので、民主党が以前、最低保障としてその程度の年金給付をすると説明したことにも符合します。橘木さんは否定する立場から、それが勤労意欲をそぐという理由を述べます。逆に飯田さんは、この政策が労働者の質の底上げにつながって経済を活性化させると主張します。
 東さんは、橘木さんのいう国家からの自由という議論は、過去には国とは別のよりどころがあったからでた考えであり、いまそれがあるのかと問いかけて、この項目の紹介を終わっています。
 僕が思うに、ネグリ=ハートの『帝国』における主張とは、逆に社会保障給付が被給付者の国家への隷属を促すものであって、基本的権利としてのBIこそ、本来のあるべき姿であるという議論でした。僕自身、ドイツの失業者給付は書類に次ぐ書類で、屈辱的なものであるという話を聞いたことがあります。
 日本ではもっとひどくて、一定期間が過ぎれば、すぐ失業給付がなくなるし、生活保護や障害者給付でも、自民党時代と変わらない低給付と窓口での差別的取り扱いがまかり通っていて、結果、誇り高い人々が給付を受けられず、犯罪に走ったり餓死したりしています。これは問題外です。
 つまり僕もネグリ=ハートの意見に賛成で、働かなかったらより低い賃金でボランティアなどいくらでもすることがあるじゃないかという考えです。それによって社会的認知欲求を満たすことは可能です。
 でも、月8万だけで単身者が暮らすのは、結構カツカツな気がします。これは同時に、イギリスが行なっているような非就業者向け低家賃住宅の提供とかいった、いろいろな低所得者向け政策と同時に行われなければ、これだけのBIでは暮らせないものだと思います。
 イギリスやアメリカのように、政府の政策に反対して議会前でピケッテイングするのも、労働とはみなされなけれど、上に書いたように、社会的に重要な行動です。その意味で、認知欲求を満たす行動を労働だけに限定することは、非常に視野の狭い考え方です。
 でも、BIの話なんかを聞いていると、「どこの国の話だよ!」みたいに、まず思う自分がいます。

まとめ
 マルクス資本論における議論とベーシック・インカムでは、ぜんぜん話が違うように一見思えるのですが、BIを先進資本主義諸国の労働者が、自らの地位低下を目の前にして、自らの獲得物をより強化しようとする(守ろうとする)運動としてとらえると、つながりが見えてきます。
 アタリの構想した『21世紀の歴史』でも、語られていたのは世界的な資本家によるスーパー独裁であり、それに対抗する民衆によるスーパー民主主義でした。そしてスーパー民主主義を支えるのは、国内の貧困と同じように最貧国の貧困を感じ、見ることのできる民衆の出現です。BIは、その連帯の一歩として、階級闘争の最もラディカルな主張として機能することも可能だろうと、いま僕は思い至りました。
 それは、資本家対資本家の戦いを永久闘争として考え、現在の国家を永久不変の政治単位として考える田中直毅さんの発想からは出てこないものです。むしろ、資本家間の長期ではあるけれど永久ではない闘争を前提として、その先にある抑圧と解放をアタリは考えていると言う方が、より正確かもしれません。ネグリ=ハートも同様の考え方のように思えます。
 日本において共産党社民党は現在低迷してます。しかしそれは時代についていけないだけだと思います。矛盾の激化は、被抑圧層による解決策の提示につながるものです。日本の最も先鋭化している矛盾とは、声が届かず、犯罪に走ったり餓死したりする、正当な権利を行使できない人々のなかにあります。
 現状を肯定する人々はリバタニアニズムや新自由主義に走って強者の独裁を目指す。しかし、本当に矛盾を感じている人々や、そうした状態をおかしいと理解する人々は、BIや高度社会保障国家といった解決策を提示しています。
 これは人間の倫理といった世界観をも巻き込む大きな対立軸です。その意味で、共産党社民党の退潮にもかかわらず、現在、階級間の矛盾はより激化しているといえるのだと思います。
 万国の労働者よ、団結せよ!と一言叫んで、このブログを締めくくりたいと思います。