民主党党首選候補者討論会+1

マルクス・エンゲルス全集 2

マルクス・エンゲルス全集 2

 真相はこうである。イギリスの工業独占がつづいていたあいだは、イギリスの労働者階級は、ある程度まで、この独占の利益にあずかっていた。この利益は、彼らのあいだにぎわめて不平等に分割されていた。特権的な少数者がその最大の部分をふところにいれていた。でも、大多数の労働者でさえ、すくなくともとぎどぎは、一時的にその分けまえにありついた。そしてこれこそ、オーエン主義の死滅以来、イギリスに社会主義が存在しなかった理由なのである。独占の崩壊につれて、イギリスの労働者階級はこの特権的地位を失うであろう。将来いつの目にか、彼らはおしなべて――特権的・指導的少数者もふくめて――外国の労働者と同じ水準にひきおろされていることに気づくであろう。そしてこれこそ、イギリスにふたたび社会主義が存在するようになる理由なのである。
 ――エンゲルス1885年の論文「『労働者階級の状態』の1892年ドイツ語版への序言」『マルクスエンゲルス全集第2巻(34刷)』(大月書店・1987)677頁

 本日、9月2日、午後1時から3時の2時間にわたってNHK総合で生放送された、民主党党首選挙候補者による討論会を、途中から見た。前半部が見たくて民主党のホームページに行ってみたが、まだアップされていない。でも、昨日の立候補記者会見はアップされていた。
 討論会中、画面横のツィッターで、これを見ている人の意見がリアルタイムで表示されていたのには驚かされた。そこに書かれていたのだが、昨日の記者会見を生放送で見た人から、ライブの記者会見は立派なものだったが、それが夜のニュース、今朝のワイドショーでいかにゆがめられて伝えられたか、という感想が寄せられていた。
 マスメディアによるファシズムとは何か、そしてマスメディアがいかに菅政権の生き残りを望んでいるかは、そうした偏向報道ファシズム報道)と生放送を見比べれば、一目瞭然である。
 今日の討論会のライブでも、メディア・ファシズム頭目である星浩朝日新聞記者の発言が目立った。まさに小沢への集中攻撃である。そして、さりげなく菅をサポートする。ここには旧体制下の利権を必死で守ろうとする、そして民主党代表選有権者とそれにプレッシャーをかけろとマスコミが先導する国民を洗脳しようとする意図が、あまりにもあからさまだったのだ。
 これはジャーナリストというよりも、大新聞社という政官財報の権力機関の広報局に脱した「社畜(しゃちく、会社に飼われた家畜という意味)」の姿である。もちろん、会社員は会社の利益を考えなければならない。しかし、マスコミにはそれ以前に、読者・視聴者のために真実を伝える義務がある。つまり、これは報道を担う者としての倫理に反する姿なのである。そして、報道という言葉を持ち出すまでもなく、人としてそれでいいのかという、人間としての倫理の問題でもあるのだ。
 こうした手合いに倫理を語っても無駄なのかもしれない。会社の利益を優先し、こうした混乱期に、それに乗じて自己の会社内の地位アップを狙う、さもしい根性しか、こうした連中にはないからだ。その意味では、星だけでない。記者クラブを代表して質問したすべての記者が、多かれ少なかれ、同じ手合いだったからだ。同席した橋本五郎の質問も、星と同じくらいひどかった。
 ここに書いたことがウソだと思うのなら、ぜひ民主党アーカイブに行ってアップされている昨日の立候補記者会見と昨日今日の新聞・TV報道を見比べてみてほしい。一目瞭然である。今日の討論会も、いずれ民主党サイトにアップされるだろう。そしてこれもTV・新聞の報道と見比べてみるといい。こんな大人になってはいけないといういい例が、まざまざと見られるというものだ。
 不況下における道徳的腐敗とは、こうした大新聞記者からだけでなく、さまざまな場面で我々が目にするものだ。しかし、「会社員である前に人間である」という言葉、そしてそれを保証するために法律は作られた。そして憲法ですら、大元でそうした法律を支えているのである。だから、権力に魂を売ってはならない。こうした権力に魂を売った手合いに対して戦うために法律を使わなければならないし、その目的のために必要とあらば新しい法律を作らなければならないのである。
 冒頭に引用したフリードリヒ・エンゲルスの言葉は、1885年と古いものではあるが、現状の日本に住む人々が置かれた状況をよくあらわしていると思う。そこで引用してみた。他人の生き血を吸って自らが生き残るような獣の所業ではなく、他者も生かしながら自分も生きるという人倫の本則に戻らなければならないのだ。そのためのファシズム否定であり、脱官僚支配であり、景気対策なのである。
 決して、菅の言う口先だけの「雇用重視」ではないのだ。なぜなら、雇用という前に、景気をどう回復するのかが語られなければならないのに、菅にはそれがない。たぶん思いつきもしないのだろう。実際、財務官僚に縛られた菅には、する気もないからだ。とりあえず響きのいい言葉さえ言っておけば、国民はコロッとだまされると思っている。愚かとしか言いようがない。むしろファシズム報道に支えられる「おごり」というべきなのかもしれない。もっと言えば、単純にバカなのかもしれない。

日本崩壊

日本崩壊

 もう1つ、ここでは本を紹介しておきたい。御堂地章(小川明雄の小説でのペンネーム)『日本崩壊』(早川書房・2001)である。
 昨日の菅の記者会見での発言を見ていて、そう言えば、どっかで見たなと思っていたのだが、それはこの小説の中であった。そして読み返してみれば、まさにこの小説は予言の書なのであった。
 この小説は、理想的な大新聞社の記者である荒川を主人公にしていたり、家庭に不和をかかえているために愛人がいたり、かたや友人のアメリカ人記者はよき夫だったり、アメリカ政府が結果として善人側に立っていたり、ツッコむところが満載の空想政治小説である。そのうえミステリーとして構成がいまいちだったりして、作品としての評価は低いのだが、それらを差し引いても、取り上げる価値のある小説である。この作品は、2000年当時のリアルな政治の姿を背景にして、描かれているからだ。
 ただ、今後の著者に希望したいのは、いま書くなら、ぜひマスコミの腐敗を中心にしてほしことと、アメリカだって、自国の利害には反応するけれど、必ずしもいいことばかりするわけではないというリアルな国際政治を描いてほしい点だ。もっとも、後者は続編『日本錯乱』(早川書房・2002)で描かれている。
日本錯乱

日本錯乱

 御堂地(小川)さんはAP・朝日新聞出身なので、そこまでは書けないのかもしれない。むしろ、新聞で書けなかったから、こうした公共事業における腐敗を小説にして描いたのだろうというのはわかる。
 あらすじは、長年にわたる無駄な公共事業によって日本の財政が破綻し、日本人は国債・株・円のトリプル暴落に襲われた。時の政府、自民・公明・保守の三党連立政府は、穏健派の首相の娘を誘拐し、恫喝をかけるかたちで、北朝鮮との戦争に突入しようとする。そしてその混乱に乗じて、非常事態を宣言し、総選挙での勝利を目指し、デノミで一気に国債残高問題を乗り切ろうとする。かたや、日本発の世界不況と第三次世界大戦につながりかねない戦争政策を危惧するアメリカが、そんな日本政府に介入を図るというものだ。そこに謎の暗殺事件がからみ、どうなるか予断を許さない展開となる。

 画面には自進党の伊藤重久、公正党の夏草次郎、伝統党の田中重蔵の各党幹事長に囲まれて、民生党の漢直一幹事長が中央にすわっていたのだ。民生党分裂という情報は流れていたが、幹事長自身が脱党のリーダーだったことは、だれも予想していなかっただけに、分裂騒ぎの衝撃と波紋は計り知れないものがある。
 ……
 「漢には分からないところがある。1997年に起きた金融危機の後、1998年の国会は金融国会になった。自進党は総額30兆円の金融安定化二法で目いっぱいだと思っていた。それ以上の公的資金、つまり税金を銀行などの金融機関の不始末の救済に投入したら、国民の怒りが爆発すると立ちすくんでいた。自進党は崩壊の寸前だった。
 倒閣という野党にとっては絶好の機会が到来したまさにその時に、民生党の代表だった漢は『金融を政局にしない』と宣言した。金融危機与野党で乗り切ることを優先するとほざいたのだ。そして30兆円どころか倍の60兆円を提案した。
―-御堂地章『日本崩壊』391、393頁

 カメラマンのフラッシュが爆発的に発光し、元首相川本柳太郎、自進党の元幹事長後藤浩一、元政調会長の岩波克人、現職の財務相宮野敏夫が舞台の右手から入ってきた。野党第一党の民生党代表外山征夫、社大党委員長の土居良子、リバティ党の大沢市郎、共産党の委員長の志位和正が続いている。
―-同187、188頁

 小説では、事件の後、総選挙が行われ「市民政府連合」が絶対過半数を取り、「民生党代表の外山征夫」が首相に就任する見込み、とのニュースが流れる。
 この小説を読んだ時、僕は、正直に言えば、菅より鳩山の方が信用できるという見方はどうなんだろうと思った。その当時の僕にとって、菅のイメージは市川房江の秘書出身だったり、厚生大臣エイズ問題に取り組んだり、といったいいイメージしかなかったからだ。でもいまなら、小川さんの炯眼が理解できる。菅は、やはり最後に裏切るのだ。それは彼が首相になった3か月で、何度も僕らが見せつけられたものだった。挙句の果てが官僚、マスコミの利益の擁護者としてにぎにぎしく登場したこの民主党代表選である。ちょっと驚く程の分析と予言である。
 『日本崩壊』を読んだ時、じゃ、いつ小説に描かれた「国債・株・円のトリプル暴落」が来るのか、はらはらしながら見守っていたのだが、それはいまだ来ていない。しかし、その代わりに、バブル崩壊後の金融危機救済策と低金利政策で国民の利益は大銀行に吸い上げられ、聖域なき構造改革で「労働者の権利=労働環境と就職と賃金」という聖域が、まさに聖域なく切り捨てられる現状を見た。これが小泉=竹中の新自由主義政策の実体だったのだ。
 いままた、菅が代表に選ばれようとして、新自由主義政策を取ろうとしている。事実は小説より(小説と同じくらい)奇なりといった感慨をもつのである。