1999年の夏休み

1999年の夏休み [DVD]

1999年の夏休み [DVD]

 CSの日本映画専門チャンネルで、映画『1999年の夏休み』(1988)金子修介監督を見ました。
 見終わった後、これは翻案の原作『トーマの心臓』とは違う結末だな、なんて思ったのですが、なぜか原作と同じ雰囲気を感じました。トーマの死が死ではないというところが、原作と大きく違うところで、その意味でストーリーが大きく書き換えられて終了するのがこの映画なのですが、深津絵里演じる最下級生アンテの好演や、ユーリ、アラン、トーマ(エーリク)の関係性が原作をそのまま踏襲しているため、映画版として簡潔化しているにもかかわらず、原作の雰囲気をよく再現していて、その意味で「決定版」という押井守の感想に見合う作品となったのだと思います。
 この映画や原作『トーマの心臓』は、僕にとって心の奥の大切な記憶を呼び覚ますところがあって、リアルタイムで萩尾望都の原作を読んだ自分にとって、いかに僕にとって骨肉化しているかを示すものだと思いました。
 ウィキペディアの「トーマの心臓」項目は、過不足なく非常によくまとめられていて、詳しくはそれを参照していただきたいのですが、以下、この映画と原作の違いについて少し書きたいと思います。
 映画版は、原作における非常に重要なファクターとしての「トーマの死」が、たぶん自殺を美化するわけにはいかないという脚本家の配慮と、映画という時間的制約の2点によって、修正されています。映画ではトーマ(エーリク)の2回の死が、それを経て変わる主人公の心境の変化として描かれています。それは、彼を取り巻く少年たちの変化として肯定的に描かれるわけです。
 原作では、トーマの死が、ドラマを動かす大きなミステリー(秘密)としてだけではなく、変更できない過去としての「悲劇」として位置付けられています。その悲劇が、単なる悲劇ではなく、ユーリ(ユーリスモール)を復活させる愛の力へと変換されるところが、原作の大きな魅力となっています。長い尺としての原作漫画は、その分多少冗長なところもあるのですが、原作の含む様々な要素、つまり登場人物の生い立ちや背景を描ききるために必要なものであった。だからこそ、悲劇であると同時に、完成されたリアルな世界観を作り出すことに成功しているといえるのだと思います。
トーマの心臓 (小学館文庫)

トーマの心臓 (小学館文庫)

11月のギムナジウム (小学館文庫)

11月のギムナジウム (小学館文庫)

訪問者 (小学館文庫)

訪問者 (小学館文庫)

 映画を見た後、ストーリーの相違を確認するために、原作、萩尾望都トーマの心臓』(初出1974年19号から52号『週刊少女コミック』、1995・小学館文庫所収)を読みました。姉妹編である『11月のギムナジウム』(初出1971年11月号『別冊少女コミック』、1995・小学館文庫所収)や『訪問者』(初出1980年春の号『プチフラワー』、1995・小学館所収)も続けて読んで、『湖畔にて - エーリク 十四と半分の年の夏』(初出1976年11月『ストロベリーフィールズ』、2007・萩尾望都Perfect Selection第2巻所収)は未読だったので、アマゾンに注文しました。最後の作品は到着を待っているところです。
 僕は、少女マンガといえば、大島弓子ファンなので、萩尾望都は第2番、3番としては木原敏江といった感じだったのですが、『トーマの心臓』および『訪問者』の完成度にはひどく驚かされました。以前読んではいたけれど、読み返して、この構想力は半端ないって感じです。改めて驚かされました。
 僕の漫画史の中での位置づけで言えば、萩尾さんは、ストーリー漫画における手塚の正統な継承者というところにある作家でした。でも、ある意味で手塚を越えているところもあるのだと気づかされました。もちろん、手塚と萩尾望都の間には、石森章太郎が入るのですが、エンターティンメントという部分ではなく、ストーリー漫画の精神性、哲学性の部分をより深く展開したのが萩尾さんだと思います。細やかな感情の動きを描くという作業は、少女マンガの最も得意とする領域です。これは哲学性を共有する大島弓子さんの持ち味である叙情性とは違った意味で、手塚的明晰さをもつものとして、手塚的と言えるのではないかと思います。
 『ト−マの心臓』の中で際立って大人びた行動を示すアランという人物がいかにして作られたのかを示すのが、『訪問者』という作品です。僕はこれを読んで、久々に声を抑えなければならないくらい泣けました。
 いってしまえば「恋愛とはヒステリー(=神経症)である」というラカンの言葉になってしまう映画と原作におけるトーマの死は、死をもって自己を他者に刻みつけるという利己的動機によって生み出されたものなのですが、じつはそれだけにとどまらない。自己の死によってユーリの心を開くという利他的な動機でもあった。そこが「愛とは何か」という『トーマの心臓』を読み終えた後も残る問題として残る。そして、それが、この作品の奥深さを支えているように思えます。
 「口の端(は)よりことばのいずるまえに すでに目はものごとを語るけれど トーマ・ヴェルナーはそんな子だった」(437頁)。『トーマの心臓』はこうした名セリフのオンパレードで、その意味でも少女マンガの完成形といえます。
 『訪問者』のラストで、幼さの残るオスカーが「−ほんとうに−家の中の子供になりたかったのだ−」と気がつき、涙を止められない、そしてそれを、世界にある本当の悪を知る前のユーリが慰めるシーンを読んで、『ト−マの心臓』−『訪問者』のラインがもつ物語とは、一言で言えば、「自分の居場所を探すための孤独な戦い」なのだと思いました。
 『訪問者』におけるアランの戦いは、『ト−マの心臓』に持ち越され、解決を見る。『ト−マの心臓』におけるユーリの戦いは、トーマ、エーリクというトリックスターによって一応の解決を見るという構造になっています。それは、死によって時を止めたトーマは別として、エーリクやアンテ、その他学友の成長にも影響を及ぼすことになります。
 そして、ここが重要なのですが、萩尾さんのこの作品では、すべてが成長して大団円という予定調和にはならない。この予定調和を排した、悪が存在するけれど神の声を聞くには何が必要なのか、という開かれた世界に投げ出される少年たちのその後として完結するのです。それは、いってみれば、悲劇なのだけれど、愛の意味によって肯定される世界といったものなのだと思います。
 『1999年の夏休み』を見た後の印象とは、この原作を通して感じた印象に近いものがあった。だから、ストーリーの違いにもかかわらず、原作と同じ印象を受けたと言えるのだと思います。
 あと、これは蛇足なのですが、『訪問者』に収録されていた「エッグ・スタンド」という作品は、まんま浦沢直樹『MONSTER』と同じモチーフを扱っていることに気付きました。発表は萩尾さんの方がはるかに早いので、浦沢さんがこの作品から着想を得ているは確かだと思います。その意味でも、萩尾さんの構想力は半端ないと思いました。
 ちなみに、余談ですが、うちの庭に住んでいた野良ネコと4匹の子猫が引っ越してしまって、少しさびしいです。