小沢問題の本質は、自民・検察・マスコミの癒着=腐敗である

 今日は休みだったので秋葉原に行ったのだけれど、この茶番劇は何なのだろうといささかいやになった。僕自身も、少し詳しく考えてみたのだが、やはり基本にあるのは徹底的な胡散臭さなのだと思う。それは何かといえば、追求するTV、大新聞、自民党の側の問題である。
 検察は政権交代前の、「自民党議員は捜査されない」という官僚トップの発言どおり、自分たちに検察の手が及ばないという安心感のもと、自分たちの過去の罪業を省みずに政治倫理を叫ぶ。TV・新聞などのマスメディアは、記者クラブ問題、系列資本のメディア支配問題、TVに関しては放送帯域の競争入札制の導入などの問題で、民主党のマニュフェストと利害が対立するために、徹底的に民主党を叩こうとしている。そして、検察も、取調過程の可視化や検察人事問題で民主党の政策と対立する。そして、検察に逮捕などの許諾を行う裁判官は、最高裁判所事務局という司法官僚によって支配され、彼ら司法官僚は国民にとっての正義より、自らの組織利益を優先するがために、検察に味方する。これが政権交代前の旧残存勢力、アンシャンレジームの真の姿である。
 そして、その真の姿を確認するためには、現在の検察の姿を見るのが一番手っ取り早い。なぜなら、彼らは旧政権の汚職は徹底的に隠そうとしているからだ。敵は、マニュフェストに政策をうたい、国民の支持を得た民主党の実力者だけであり、民主党という素人集団の中で一番脅威である小沢となるわけである。
 この構図こそ、今回の一連の報道で最も胡散臭いと僕が感じる部分である。そして、権力(この場合、旧支配層)とは、その地位が揺るがないときは、反対派を泳がすけれど、実際に脅威を感じると、徹底的に破壊に走るものであることが、いまさらながらに明らかになったというわけである。『日刊ゲンダイ』が、「小沢が勝てば民主主義が拡大するけれど、検察が勝てば日本の民主主義は、地獄のような旧政権時代に逆戻りする」と総括するとおりなのである。
 僕らが自由に発言できるのは、結局、僕らが小物だからなのかと、非常に現状に対して悲観的になるし、結局、官僚制という旧支配構造の手のひらで、僕らは踊らされているだけなのかと思い、悲しく感じたりしたのであった。
 ともかく、決着は、まだついていない。だから少し考察を加えたい。
 マルクスが言うとおり、国家には軍隊・警察という暴力装置を持っている。しかし、それが前面に立つなら、有権者の支持は得られない、文字通りの全体主義となる。だからこそ、民衆の自発的服従をもたらす、イデオロギー的支配が必要となる。それを獲得するのがマスメディアの役割となる。ネットは別なのだが、大マスコミは、今、検察の思惑通り動くことよって、民衆の自発的服従を図っている。これが「洗脳」と僕の呼ぶものだ(実は、ネットの重要性を意識する、権力の犬、たとえば猪瀬直樹などは、ネットでもっともらしく、永住外国人に対する地方選挙権付与に反対する論陣を張っていたりする。これはよく読めば、論理的なものでなく、反対派への議論誘導的なものであることはすぐわかるのだが。ここでは本題からそれるので言及を控えたい)。小沢に罪があればそれを償うのは当然なのだが、問題の本質はそこにはないことを強調する必要があるだろう。考えてみればすぐにわかるはずだ。今の小沢に対するものと同じ取調べを自民党議員に対して行えば、自民党国会議員をすべて有罪にして、失職させることが可能だろうということが、決定的に重要なのである。
 検察は小沢を立件し、幹事長職を辞めさせることが最終目的だろう。そうすれば、民主党はがたがたになり、自分たちの組織は守られる。ひいては、司法官僚の地位も、行政官僚の地位も、民主党のマニュフェストを骨抜きにすることが可能となるがゆえに、守ることができる。逆に、小沢を立件できなければ、自分たちのみならず旧体制で民衆を虐げてきた官僚の地位が危うくなる。自民党議員にしても、これまでどおりに汚職に目をつぶってもらうことができなくなるがゆえに、死に物狂いで検察を応援する。ひどい茶番である。
 逆に小沢が勝てば、マニュフェストが実現される。官僚はこれまでのような、天下りし放題、拷問し放題の無法状態を保てなくなるだろう。
 孫子も言うように、軍人は戦いの勝利のみにこだわって、その戦がなぜ必要であるのかが理解できない。だから、有能な政治家が、戦いを通して実現する目的=価値を、常にみきわめ、軍人を指導しなければならないのだ。
 検察は、捜査を継続するという口実で、政権移行期を乗り切った。そして、手を緩めれば、組織を維持できないがゆえに小沢に対する追及をいつまでもゆるめることができない。マスコミは旧時代の腐敗構造のぬるま湯から抜け出すことができないから、本当に国民にとって必要な正義の実現を口にできない。現状で少しましなのは、朝日ニュースターの「パックインジャーナル」くらいだろうけれど、それでも、問題の本質を、僕がここに書いたように明言できていないように思う。
 政権移行期に民主党は検察人事に介入するべきであった。世論を気にしてのことだろう。しかし、今それをしなかったことを切実に後悔しているのだと思う。本当は、検察やアメリカ大使をはじめとした旧体制の残存物を一掃すべきであった。それが権力闘争の本質だし、相手の善意を期待した結果が、現状なのである。
 僕は経済の回復だけでなくすべての意味で、国民の、特にその大多数である労働者の利害を最優先して考える。先進国なみの民主主義の確立は、そのために欠くことのできない手段なのだ、だから、いますべきことは、マスコミに踊らされることでなく、逆に、検察・自民党・マスコミの特殊利害に基づく行動を批判すべきなのだと思う。
 事態は、社会的な力関係で推移するだろうから、検察が勝つこともあるいはあるかもしれない。しかし、社会に矛盾がある限り、それを告発する人は絶えることはないだろう。それこそ白戸三平が『忍者武芸帳』で最後に書いた「われわれは遠くから来て、遠くまで行くものである」という主人公・影丸の意味である言葉の意味なのだと思う。
 最近フランス革命前の歴史を『デュラント世界の歴史』で読んでいるので、こうも思う。たとえ暴政にさらされようと、良心を求める理性を裏切ることはできない、と。