謹賀新年

 昨年末と今年年初めほど心おだやかに過ごせたことは、近年ありませんでした。というのは、昨年9月の政権交代と都議選での与野党逆転のためです。
 都政について言えば、政治を都民のためにするのではなく、石原本人とその家族の為にしか利用しない都知事の姿勢は有権者を愚弄にしたものに他ならない。いまだ石原を支持する奴隷根性の都民もいるらしいけれど、それなら、新銀行東京の負債を自分たち石原支持者だけで分割して支払うのか?と問いかけたいと思います。彼らは絶対に自分達だけで負担することに同意しないでしょう。ここに今の日本が抱える、最大の問題、利己主義(狂気という名の無責任)が存すると思います。
 これは八場ダムなどの問題でも言えることです。建設推進派は作ること自体が自然破壊となるダム建設に固執する。しかし、だからと言ってその費用を、自分達だけで負担するとは決して言わない。なぜなら、彼らは単に国家予算にぶら下がり自分達だけが利益を得ることを考える利己的な人種だからです。
 彼らの視野には、その予算を他に回したときに救える人間の命が見えない。そんなものは見殺しにしても、自分達や自分の会社が利益を得られればいいという、まったく利己的な、人間らしからぬ視線しかないと言うべきだと思います。
 このダム建設には170人以上の天下り官僚をかかえる関連建設会社の存在が指摘されています。大手メディアの報道しないこうした事実は、夕刊紙「日刊ゲンダイ」が果敢に報道したものものです。
 税は徴収する。しかし、その使い道に納税者の文句を言わせない。というのが租税に関する法律の原則です。だからこそ、その使い道を決する議会選挙が唯一の手段となります(差し止め訴訟の道もあるけれど、それは司法制度の問題とも絡むので、後で論じます)。視点を変えれば、幕末の武士階級のように、武士になって出世することだけが唯一の栄達の道と考えた人々が、維新によって、まったく違った世界に住まなければならなくなった悲劇ととらえることはできます。しかし、明治維新の時にも虐げられた非武士階級の怒りがその底にあったのだから、彼らの悲劇は悲劇だからと言って、その主張を正当化することはできないでしょう。
 話を戻して、東京都はその予算規模からして、現状よりも、もっとできることがある。そしてそれを行えば、貧困から自殺に向かう人々を、確かに、もっと救うことが可能です。しかし、石原はその道を取らなかった。できるのにそれを行わないということは、明確な犯罪です。

 もうひとつ年末に気になったのは、2009年の10大ニュースを報じるTV番組が全くなかったということです。NHKも含めてです。民放の報道局は民主党記者クラブ廃止がよほど頭に来ていたのか、それとも、国民生活の将来がどうなろうとまったく構わずに、オモシロおかしく政権党をつきあげることに躍起となっているようです。そこには、今日よりも明日がよくなるのか?といった世間の切実な関心はまったく無視されています。
 ただ検察や官僚の垂れ流す情報を、右から左に紙面やTVに移すだけといった、およそジャーナリズムと呼ぶことのできない姿勢に終始しています。そして、それが単なる彼らの怠惰でないのなら、これは明確な世論誘導、もしくは洗脳と呼ぶべきだと思います。国家予算にぶら下がって自分達だけが利益を得るという腐敗した少数者の為に、多数者たる有権者を洗脳する手先、犬になっているということです。

 だから、ニュースに関しては、朝日ニュースターの「パックインジャーナル」と「日刊ゲンダイ」だけを見ればいいと僕は思います。あと、加えると岩波の月刊誌『世界』です。
 なぜなら他のメディアには、こうした報道が何故なされるかという背景への視点が欠落しているからです。こうした腐敗した報道の原因を知る為には、現場を知った記者の分析が不可欠です。大手メディアは、現政権を憎む、国家予算にぶら下がって、国民のためではなく、自分達だけの利益を追求する勢力の情報を何の分析もせずに、それが国民の将来にどう影響するかというジャーナリズムに不可欠の姿勢すら欠いたまま、垂れ流しています。先にあげた前者2媒体は、民主党政権の実現の牽引力となった報道媒体でした。
 週刊誌等を中心とした大手メディアと新聞は「小沢支配」等を批判しています。しかし、本当の問題は、彼を中心とした民主党が国民生活に関連したどのような政策を行うかです。強行採決に関しても同様です。もしそれが国民の為にならないのなら、なぜ共産党が賛成するのでしょうか。賛成するはずなど、ないのです。
 だから、報道、分析すべきはその政策の内容なのであって、腐った自民党公明党がどういった態度を取るかではない。
 しかし、この点に関しては、民主党に対する、いまだ高い支持率が国民感情を明確に表現しているというべきかもしれません。そして「パックインジャーナル」で朝日新聞のシニアライターが言っていたように、まともな報道をしない媒体は淘汰されていくだろうということになるのだと思います。僕もそう期待したい。そうした危機感は、残念ながら今の大手メディアにはないものです。

 0年代が終わって、10年代に入った現在の政治状況を概観すると、260日の麻生政権が終わって、100日間の鳩山政権が始まったのが2009年でした。選挙直後の、政治は変わらないというのが最大多数だった世論調査結果を見て、僕はもっと期待してもいいのではないかと思ったのですが、この世論調査はなかなかまともだったと思っています。なぜなら、だからこそ、じっくり政策の推移を身守ろうという姿勢が可能になるとも思うからです。そして現在民主党はよくやっていると僕は思うし、鳩山すらよくやっていると思います。偽装献金の問題は追徴課税で決着するわけだし、そもそも、大マスコミが大騒ぎしているにもかかわらず、この不正記載にはわいろ性はゼロなのですから。
 金持ちだけが政治に参加できるのはおかしいと言ったまともな議論は、法律で今後変えていけばいいだけの話です。そしてその政策を出せる可能性は、自公政権より、民主党を中心にした政権の方がはるかに高いのですから、鳩山を否定する根拠にはなりません。だから、僕の年末年始は、心穏やかなものであったという、冒頭の発言に戻るのです。

 ここからは、いくつかの論点について、思いつくものをあげてきたいと思います。

 まず民主党自民党の政策を、現時点で比較すると、自民党時代を思い出す時、まず浮かぶのはTVで見かけた、安倍時代高市自民党議員の発言です。「給料が上がらず生活が苦しいのですが」という質問に高市は「新興アジア諸国に対する競争に打ち勝つにはもっと低賃金で我慢すべきです」と答えていた。「財政が苦しいのにいつまでアメリカに従わなければならないのか」に対しては「北朝鮮や中国の脅威に対抗する為に従うべきです」。
 そして、TV東京の経済報道番組の蝶ネクタイの似合う外国人コメンテイターは「居間の不況を脱するには、より徹底的な構造改革が必要です。たとえば40歳以上をすべて不正規雇用にするとか」と明確に発言していました。
 うんざりです。こんなものは政策でもなんでもない。小泉の言う「聖域なき構造改革」とは、実は、労働者の権利と言った聖域を破壊するものであった。それに加えて「福祉」や「教育」と言った聖域も破壊されました。そのほかの本当に国民が望んだ改革に関する聖域はまったく手つかずだった。手をつける気すらなかったのでしょう。だって、小泉って最初から最後まで、単なるペテン師ですから。横須賀のチンピラと言ってもいい。チンピラという意味では、息子も同様です。政治的中立を求められる自衛隊自民党のPRといった政治利用に使ったのですから。その意味では小池も同様です(この点は「パックインジャーナル」情報)。自衛隊側は服務規律違反で罰則の対象です。いまだ不問に付されているけれど、民主党はもっと厳しくこの問題に対応すべきです。
 話を戻すと、だから9月の政権交代が起きたのだと思います。高市やテレ東のコメンテイターに対しては、正社員になりたくてもなれない勤労者が全労働者の1/3もいるというのに、何を考えているのかと言いたい。
 むしろいま政治家の考えるべきことは、非正規労働者でもまともに生活でき、将来に不安を持つ必要のない社会環境を作ることなのではないかと思います。「我慢しろ」という、自民党公明党政治家のうしろには、大した仕事もしないで高額の年収を得ている天下り官僚や、不必要な公共工事を他国と比べて10倍以上の金額で落札する土建屋がいた。そいつらを養うために税金をあげようとしている自公政権の姿勢を国民は知っていた。そして、その税金すら、困難に対して国の全ての層が負担するのではなく、累進課税の改悪によって高額所得者だけが優遇されていることを国民は知っていたわけです。こうして見てくれば政権は変わるべくして変わったというべきなのかもしれません。そして、大マスコミの思惑とは別に、現政権は盤石と言うべきなのかもしれません。

 事業仕分に関して、ノーベル賞受賞やオリンピック選手が、記者会見をしていました。それをみて、やっぱ専門馬鹿や脳みそ筋肉の連中は信用できないと思いました。まずか科学技術予算に関しては、マスコミが面白がって取り上げた「1位か2位か」といった問題はたいした問題じゃないと思います。問題なのは、何故その目的のために巨大なビルをつくらなければならないのか? そしてその管理職に天下り役人を多数使ってそいつらに何千万もの年収を保証しなければならないのかという点です。大マスコミが指摘せず、「日刊ゲンダイ」の記事が指摘したこの問題こそが、実は最も重要な問題です。
 スポーツ振興もそうです。スポーツ団体の、やはり同様のうん千万円の年収もらってる天下り役人幹部が、彼らには必要なのだろうか? ノーベル賞受賞やオリンピック選手は、こうした団体に締め付けられれている現状から、真実を語っているというより、奴隷の言葉を喋らされているととらえるべきでしょう。スポーツに金が必要なら、直接選手に払えばいいのです。コーチや選手は金が必要かもしれない。施設も必要かもしれない。それなら、直接選手やコーチに支払い、施設はできるだけ既存のものを節約して使えばいいだけのことです。これらは大マスコミの完全に見落としている点です。

 国家官僚の統制に関しては、主計局長の首を切れば、後はみんな従うから、もしくは、民主党が国家戦略を明確にすれば、官僚は従うだけなのだから(その時従わない官僚は首を切ればいいだけです)そんなに多くの問題は残されていません。
 いま僕は、新藤宗幸著『司法官僚―裁判所の権力者たち』(岩波書店岩波新書], 2009年)を読んでいるのですが、残る大きな問題は、国民の審判を受けず、行政や議会からも独立した、検察も含めた司法官僚の統制だと思っています。
 検察は今、国民に対する正義ではなく、組織維持のためだけに行動している。鳩山や小沢に関するリーク情報によるマスコミ操作は、全てそのために行われているというべきでしょう。千葉という軽量法務大臣の問題もあるのだけれど、これを本当に国民に責任を持つ司法に変えていく必要がある。本当に国民にとっての正義を体現するものに変える必要があります。その為に何が必要かは、今後も僕も考えていきたいと思っています。
 ただ、裁判員制度についてだけ書きます。現在重要な刑法犯罪について第1審のみ関わる裁判員制度は、高裁、最高裁にまで拡大するべきだと考えます。なぜかというと、容疑者にとって3回の裁判を受ける権利がある。それは、公平な独立した裁判を3回受ける権利があるからです。しかし、もし残り2回を職業裁判官にまかせるのなら、国民が裁く裁判の実質がなくなると考えるからです。そして、もし残り2回の裁判が裁判員制度による第1審を重視する姿勢を取るとしたら、それは、公平で独立した裁判を受ける容疑者の権利を侵害することになる。それゆえ、論理的整合性をとるのなら、裁判員制度を高裁、最高裁に拡大するほかないと考えるからです。
 あと、死刑制度に関しても書きます。僕は神ならぬ人が裁く限り冤罪は免れないし、だとしたら取り返しのつかない死刑はするべきではないと思う。だから死刑制度廃止論者です。
 しかし、最近の死刑判決に関して遺族が残した言葉は意味深長でした。「死刑はいやだけれど、彼がもう一度社会に出てくることを考えたら死刑を選ばざるを得ない」といったものでした。
 もしここに、刑期短縮のない終身刑があれば、この被告は、矛盾なく死刑を免れたことになります。いまだ、遺族感情を考えれば死刑やむなしと言う人がいます。しかし、僕は、「自殺できないから大量殺人をした」と主張する最近の犯罪者を見るにつけ、字義通りの終身刑を科すことによって、彼らに反省をそくす方が、こうしたケースにはより、遺族感情にかなうのではないかと思います。
 また、遺族感情をうんぬんするのなら、死刑執行は希望する遺族にさせるべきだと考えます。死刑執行官は、誰が執行したわからないようになされると新聞に書いてありました。しかし、それでも犯罪者であっても、人を殺すことをためらう執行官がいることは自然な感情だと思います。もし死刑制度維持を遺族感情を根拠に言うのなら、そうした感情を持つ遺族こそ死刑を執行する正当な権利を持っているのだと思います。執行官ではなく。
 それゆえ、死刑がある現状で、完全終身刑を設けるとこに反対する人々もいますが、僕はむしろ死刑を廃止することがベストだけれど、完全終身刑だけでもベターな選択だと考えます。
 いまこの時も、戦争やテロによって人が殺されている。だからこそ、戦争を避ける努力と同時に、死刑を避け、犯罪を減らす努力を行うことが必要だと思います。

 最近、僕が一番怖かったのは、「自分は不必要な人間だ。これから自爆テロを行う」というテープの言葉でした。不必要な人間なんていません。周りのすべての人間が不必要だと言っても、自分だけは、自分は必要だと思うべきです。だって、生きていてこそ、人生を変えるチャンスがあるのですから。だからこそ戦争や死刑や自爆テロに対する反対を、僕は唱えたいと思います。
 不当な支配を打破する為に戦わなければならない時もあるかもしれません。しかし、自爆テロだけは、どんな手段を使っても、逃げるべきです。それはひとりひとりの人間の尊厳に対する否定に他ならないからです。だから、絶対に否定します。他に手がないとしてもです。でも、本当は、他に手がないなんてことはないと思います。
 戦争に関しても、正当な戦争はあると思う。植民地支配に対する抵抗などです。しかし、先進国の行う国益のための戦争は否定すべきです。その為に国際刑事裁判所があるのですから(その意味で、現在放送中の『24シーズン7』の大統領の独善主義はへどが出ます。早く、アメリカは国際刑事裁判所条約を批准すべきだと思います)。

 雑誌『世界』の今月号から始まった、在日米軍基地のルポルタージュは興味深いものでした。日本を守ると宣伝しながら、彼らが行なっているのはアフガニスタンへの攻撃であり、アメリカの都合よく米軍基地が使われている実態が示されています。これは日本人にとって恥ずべきことです。ネット右翼なら、それでも米軍は必要だみたいなことを言うのかもしれないけれど、在日米軍基地は鳩山首相が何を言おうと、日本防衛のための抑止力にはならない、と考えるべきです。辺野古移転にしても、米軍が普天間の嘉手納統合を望んだ時、自民党は土建業者の利益を重視して辺野古案に固執した(今でも、埋め立て用の砂利山を土建屋はおさえている)。それゆえ、今でももめているわけです。既に済んでいるアセスメントすら、オプスレイ導入を考慮していないがゆえに、無効と判断されています。
 米軍が本当に必要としているのは、日本周辺地域への緊急展開部隊(米国人救出のための)と第7艦隊の基地だけなので、その他の基地は、日本が金を出して優遇しているから残っているだけです。だから、こうした機能は、自衛隊基地を貸すだけですべて済む問題です。それでも日米安保は維持できるし、その意味で鳩山の言う「在日米軍基地なき日米安保」は十分可能です。そして、それは予算削減を求めるオバマ政権の方針にもかなうものです。「アメリカが日本を守っている」というのも、一種の洗脳以外ではないのだから、馬鹿な奴隷根性は新年の幕開けと共に捨てるべきだと考えます。「アメリカが怒っている」というのは、マスコミのたわごとです。アフガンへの資金援助を申し出た鳩山は感謝こそされても怒られる理由は全くありません。それなのにマスコミの意見に乗るのは、単なる馬鹿か奴隷根性というべきでしょう。

 いま、TVで在日外国人の参政権問題をやっていたのでついでに書くと、「代表なくして課税なし」という、アメリカ独立当時のスローガンを学生時代の授業で聞いた時、誰も疑問には思わなかったと思います。そんな人たちが、なぜ今この当たり前のことに反対するのか、僕には到底理解できません。ま、一種のいじめなのかなとは思えますが、そんなことは、むしろ止めるべき大人のすべきことではないのはあきらかでしょう。日本もまだまだまだだな、なんて思いますが、それでも、もしこの不合理な現状を変えられるとしたら、それは与党であって、(共産党を除く)野党ではないだろうという分別ぐらいはあります。
 最後に現在の政治に関して書きたいのは、もし鳩山や民主党が9条に触れないとしても改憲を実現する方向に行くのなら、僕は民主党支持をやめるということです。

 最後に、理論的な問題を2つほど。
 現在閉鎖しているホームページに以前僕が書いた、現代共産主義前衛党論(革命論)なのですが、それは、グラムシ的労働者のヘゲモニー(軍事力によるものではなく、知的道徳的指導力によるもの)による、民主的選挙による支持によって多数派を実現する政治体制でした。しかし、このヘゲモニーとは、別に共産党に限らない。民主党でもいいのです。それが労働者のヘゲモニー(知的道徳的指導力)を体現しさえすればです。ですから、議論を保留していた党組織論は、現在の政党をひな型にすることも可能です。もっと詰める必要はあるとしてもですが。
 第2に、年末に『ドイツイデオロギー』を読んでいて、しびれる文章があったので、それは別に引用するとして、その内容を簡単に説明します。
 「所有」(の格差)が現在の人を縛っている物神崇拝である。そしてその所有は「分業」と共に始まる。分業はその原初的形態として家族の中に見られるものから始まる。こうした分業(=所有)が、単なる関係ではなく、人を縛り、他の関係すら考えられなくさせる「物神」と化す。これが、マルクスの論じた「物神崇拝論=物象化論」なのですが、それを変える為には、何も持たない階級たるプロレタリアートによる共産主義革命しかないとマルクスは結論づけます。
 革命後の社会として、人々は己の仕事に縛られるのではなく、様々な関心によって様々な仕事を選ぶことができる、これを「自由の王国」とマルクスは呼びます。こうした社会は局地的なある一国では不可能で、世界的に実現されなければならない。
 そこまで読んで僕が思ったのは、福祉社会とはこうした「自由の王国」に限りなく近づくものであるということです。生活の困窮が労働者を長時間労働に縛り付ける。資本家は「物神」を崇拝するがゆえに、社会的責任を忘れて金の集積に専念する。現存の福祉社会とは、こうした姿勢を正すものです。そして、それによってすべての労働者に長時間の余暇が保障され、そして、それが拡大されるなら、マルクスの言う「自由の王国」に近づく道だということに、ぼくは気づいたのでした。「金の獲得と集積ではなく、各人の人格的発展がそのまま歴史的発展になる社会」です。これは今村仁司著『労働のオントロギー』の結論でもありました。
 マルクスの言うように一国では無理かもしれません。しかし、世界の人口上位5%が世界の富の95%を占有していると言います。これを適当な配分にならせば、資本家にインセンティブを与えながら、少なくともすべての人類が健康で文化的で将来の不安を感じない生活を送れる社会が作れることも明らかな事実です。「意識化できることは実現できる」と信じたいという気持ちをもって、全世界の労働者に対する、新年のあいさつに代えさせていただきたいと思います。

 ※この文章で国民と書いたけれど、労働者と置き換えてください、大金持ちのことなんか関係ないもんね。いま本当に問題なのは、本当に生活に困っている人々なのだから。