国民投票法

僕は小さな出版社の法律編集部で働いているので、たまに同僚と法律の話をすることがある。といっても、アルバイトなのでそんなに法律には詳しくない。大学の専攻も公法・政治学だったし、その公法もちょっとおぼつかない。その点は割り引いて聞いてほしい。
そんな経緯で、最近成立した国民投票法案の話が出た。若い同僚いわく、「国民投票法案に反対する人はちょっとファナティックに見える。憲法改正に反対するにしても賛成するにしても、改正の手続法ができること自体に反対するのはおかしいのではないか?」。
僕が反対していることを知っての質問である。
それに対して、僕は、「今あるのは自民党改憲案だけだから、それに反対する人は憲法改正のための国民投票法に反対するのは自然じゃないだろうか」と答えた。だが、それだけでは「ファナティック」という言葉に対する反論としては不十分に感じた。
それで、「今反対している人は、3、4年後に自衛隊アメリカの尻馬に乗って、イラン辺りでドンパチやって、死者が出ることを、本当に恐れているのではないだろうか」と話を続けた。「ま、次のアメリカ大統領は民主党だから、その危険は少ないかもしれないけれど」と付け加えた。
同僚「でも、それにしても、それが国民の有効投票の過半数の意思なら、仕方ないのではないですか?」
僕「過半数といっても、有効投票率の規定もないし、法律自体の内容にも問題があるのではないか」
同僚「それはまた別の問題ですね。でも、有効投票率は、もともと関心がなくて投票しないのだから数える必要はないのではないでしょうか?」
このへんで、仕事中のおしゃべりは中断してしまった。同僚の言うことももっともである。このへんが今の若い人の平均的意見なのかと興味深かった。


でも、僕が本当に自分の議論のつたなさを感じたのは、この大筋以外の点にあった。
アメリカの尻馬に乗る」あたりで僕が話したのは、例の香田さん拉致殺害事件の顛末である。それと、今回の陸上自衛隊イラクでさらされた危険についても話した。つまり、香田さんの殺害も、そして、もしイラク派兵陸自に死者が出た場合についても、日本の有権者は仕方ないとあきらめてしまうのではないか、という点である。つまり僕は、こうした「アメリカとの付き合いがある以上しかたない」といった理由で、改憲後の自衛隊員の生命が、国土防衛とは全く関係ない理由で「あきらめられてしまう」ことを懸念している旨を、同僚に伝えたのであった。
ところが同僚の意見は、「香田さんは、危険のある場所に出かけて捕まったのだから、殺されても仕方ない。自衛官も自分で危険を冒して出かけたのだから、死者が出ても自己責任ではないか」というものだった。
この議論は、以前の日記でも書いたので、再論しておきたい。


たしかに同僚の言うとおり、危険が警告されていたイラクに出かけていって反政府勢力に拉致されたのは香田さんの自己責任だろう。
しかし、犯人の要求があった時点で、当時の小泉首相には、自衛隊の撤退を約束して香田さんの命を救うという選択肢があった。それに対して、小泉は、即座に「テロには屈しない。自衛隊は撤退しない」と言って、香田さん救出の可能性を絶った。これは小泉による香田さんに対する殺人行為であるというのが僕の判断である。
そして、この小泉の言明に関しては、香田さんの危険な国に出かけたという自己責任は全く関係がない。ここにあるのは、小泉の決断として、香田さんを見殺しにしたという事実だけである。そしてその責任は、香田さんに言われる自己責任以上に重いと考える。
もしここで香田さんの自己責任を言うのであれば、それはとりもなおさず、小泉の見殺し発言を支持することになるというのが僕の考えである。そして、それを言うのであれば、その発言をする人たちも、小泉を支持することによって、香田さんを間接的に殺したことになる。もちろん殺したのは、イラクの反政府ゲリラである。しかし、自分の国を勝手な理由で占領した国に反対するの当然の権利ではないだろうか。
もし、フセインの独裁を裁くというのが、大量破壊兵器が見つからなかったアメリカの新たな言い分だとしたら、なぜ今でも占領をつづけているのか。それはとりもなおさず、自分に都合のいい政府を作りたいからではないのか。それは、すなわち植民地戦争である。
ともかく、自己責任を言う人は、イラクに出かけて行った人たちに対しては厳しいけれど、戦争を始めたアメリカ、そしてそれを支持した日本政府、小泉元首相に対してはきわめて寛容なのではないだろうか、というのが僕の意見だ。
そして、もともとアメリカのイラク侵略(侵略というのは国連と国際社会の公式見解である)や自衛隊の派遣に反対していた朝日新聞が、この事件を受けて「テロに屈するな」という社説を掲げたことに対する批判も、以前日記に書いたとおりである。こんな社説を掲げるなら、それは戦前の朝日新聞同様、大政翼賛会的マスコミと全く変わらないと思い、本当に恐怖を感じた。
さて、イラク派兵陸自に関しては、形式的なものにしても「隊員の同意」がとられていた。同僚の言い分によれば、「だから死んでも仕方ない。だって軍隊じゃないですか」ということになる。
前半は、同意して行ったのだから、ある意味自業自得とも言えるのだが、後半の「自衛隊=軍隊」は、やはり否定しなければならなかったと思ったが、仕事中だったのでそこまで話をできなかった。
なぜなら、もし自衛隊が軍隊なら、イギリスやオーストラリアみたいに、今頃、イラクでドンパチやって、死者も出しているだろうと思うからだ。小泉・安倍という親米政権のもとでも、自衛隊員に死者が出なかった(航空自衛隊は、いまだイラクにいるから、これらから死者が出る可能性はある)のは、ひとえに自衛隊は軍隊ではないという過去の政府与党の公式見解があってのことである。そのため軍事協力ができなかった。できてせいぜい玉虫色の自衛隊という軍服を着た人間による、復興協力だったのである。アメリカに対しては軍隊として、国内とイラクに対しては武器を持った復興部隊としてふるまったわけである。迫撃砲が撃ち込まれる場所を、安全と言い張ったのも、国内向けのレトリックであったのも記憶に新しいところだ。
同僚は「実質軍隊」という意味で言ったのだと思うが、この違いは大きい。
かつて「軍隊だから違憲」という主張で統一されていた左翼陣営にいた自分が、自衛隊は軍隊ではない、というのも変な話だなと、アンビバレンツな感傷に浸っていたのだが、この違いは、現在では非常に重要だ。
なぜなら、現憲法下では、こうした援助活動での派遣に対して、隊員の同意が必要となる。しかし、自衛隊自民党憲法案によって軍隊になった場合には、戦闘のための海外派遣が可能となり、それを拒否したら、自動的に敵前逃亡として厳重に処罰される。そのための軍法会議軍事法廷)の設置が自民党案には明記されているからだ。
こうした例は、兵隊でありながらイラク派兵を拒否した米軍兵士が、今も故国に帰れず、家族と離れて外国で逃亡生活をしているといった、NHKドキュメンタリーで実際に描かれていた話だ。
自衛隊に入った時点で、それは自己責任」という言い方も可能だろう。しかし、アメリカの例にあったように、平時に、自己の置かれている環境の貧困から逃れるために、兵役後に約束されていた大学進学のために、入隊した兵士に、その自己責任を問うことができるだろうか? ここに、安倍の格差固定化政策と改憲政策は、二つでセットと僕が考える理由がある。この場合は徴兵制は必要ないわけだ。
そして、憲法で国防を軍事的に認める意味から考えれば、もっと進めて徴兵制も可能となる。徴兵適用年齢を過ぎた人は、安心して徴兵制を実施すべきと考えるかもしれない。でも、僕い言わせれば、そんな考えは、とんでもない恥知らずである。徴兵制を支持するなら、そして自衛隊の軍隊化を支持するのなら、そんな人間がまず第一に前線に立つべきである。でも、彼らは決してそうはしないだろう。なぜなら、自己の安全が確保されることが、彼らが徴兵制を支持する前提であるからだ。これを恥知らずといわずして何をそう言うべきか。
だから、自衛隊国防軍化も、その意味では、徴兵制と同質であると考える。
話がそれたけれど、改憲案で自民党は、自衛隊は実質軍隊なのだから軍隊として認めましょう。軍隊なのだから専門の軍事法廷を作りましょう(裁判官は自衛官、弁護士も検事も自衛官といった密室で行われるのが軍法会議である)。日米同盟の片務性をなくすため、自衛隊アメリカが危機の場合は海外で戦えるようにしましょう、などと言っている。
最後の一文は、改憲案のときには言わないかもしれない。でも、海外での戦闘を禁止する条文を入れないのなら、それは言っているのと同じことになるだろう。
そして、人類の普遍的原理たる人権ではなく、日本の歴史と伝統を重んじるといった意味不明な文句も入れてくるだろう。それは自民草案を見ればあきらかだ。
そのとき民主党が、教育基本法改悪の時と同様に、素直に旧教育基本法がなぜ悪いか?と言わずに、対案を用意するとしたら、それはたぶん、この時と同様にどうしょうもない自民案に似たり寄ったりのものになるだろうと思う。教育基本法では子供を犠牲にし、憲法では、人権の進歩ではなく、為政者に都合のよい人権を制限する、国民を犠牲にする対案になるだろう。だから、国民はまた騙される、いや今度は直接騙されることになるのだと思う。郵政選挙との時は、反対派、慎重派の得票数が小泉賛成派を上回ったにもかかわらず、結果は与党の大勝だった。そんなことがもう一度起きないと誰が言えるだろうか。
そんなわけで、僕は、国民投票法反対派をファナティックではなく、極めてリーズナブルな人々だと思うわけである。


しかしこう書いたことも、数年のうちに、いや、この夏の参院議員選挙で、現実のものとなるか否かが決まるだろうと思う。自民党改憲の動きは、安倍内閣と一体のものだからだ。


最近、日本国憲法の成立を説明する「8月革命説」というものがあることを知った。軍事ファシズム国家日本の再現を防止したいアメリカと、日中戦争、太平洋戦争の惨禍を知って、二度とこんなことになりたくないと思った日本人とが協力して作り上げたのが日本国憲法だったという説である。この考えには、その成立過程と、GHQ占領下での財閥解体、小作農解放、全入制組合の創設などの民主的諸改革が含まれる。
革命がこのように進行したのなら、国民が、特に第二次世界大戦の惨状を知らない、のちの国民がそのありがたさを実感できないのもうなずける話だと思う。しかし、そこには、戦前の全体主義と闘った人々の意志も込められていることは事実なのである。
ただ、主権在民と民主主義、人権と平和主義を空気のように感じてきた戦後日本人にとって、それがなくなることは想像もできないことだろう。そして、なくなったときはじめてそのありがたみに気がつくというのが実態なのだろうと思う。
というわけで非常に暗くなったところで今日は終わりです。