2005年9月11日の衆議院選挙について

 日曜日にRが同人誌即売会のイベントに参加するのでうちは土曜日に投票することになった。僕は民主党、Rはたぶん共産党になるだろう。
 最高裁判事の国民審査は、都の外国人職員による上級公務員昇進拒否を合憲とした2判事を不信任する予定だ(僕の意見)。
 日曜日の選挙で、下馬評のように小泉内閣が圧勝するのであれば、それは「日本の民主主義の死」を意味する。これはたとえではなく文字通りの意味だ。
 確かに、宮崎音弥のいうように、「民主主義には独裁者を選ぶ権利がある」だろう。しかし、独裁者を選んだ後の社会は、もう民主主義とはいえないことも事実である。
 今回の選挙はいろいろなネーミングが試みられたが、一番ふさわしいのは「大マスコミ翼賛選挙」というものだと思う。本来、選挙にあたって一番重要なのは、政権党がどれだけ前回の総選挙で掲げたマニュフェスト(公約)を実現したかであり、マスコミはこれを冷静に評価し読者や視聴者に伝えることが大切だと思う。しかし、テレビ・ラジオ・大新聞といった大マスコミは、結局、最後までこれをしなかった。
 マスコミは三権分立の政治権力のなかで第4権力と呼ばれる。それは、有権者である国民に与える影響力の強さゆえである。そのマスコミが、一番大切な、現在の政治権力に対するチェック機能を失い、それに対して翼賛するだけになったとき、何が起きるかは、今回の選挙で明らかにされたと思う。
 朝日新聞記者が右翼に殺されたとき、ざまあみろ的な記事を書いた、あの『週刊新潮』でさえ、今回の戦況では、『週刊文春』とともに反小泉陣営に回った。それほど、現在の政治危機は深刻と考えるべきだ。
 文春の「小泉大勝で金正日池田大作小泉純一郎の独裁者トリオ完成」との見出しは、決して、ただの比喩ではない。文字通りのものである。民主主義国家とは法律によって治められる国家である。小泉はこれまでもさまざまに法を捻じ曲げてきたし、飯島秘書官を使って検察・警察を自らの手足のように、恣意的に自分たちのために使ってきた。
 そして、郵政民営化法案の否決の影で成立しなかったテロ対策条約関連の刑法改悪の法案は、実行に至らない犯罪を処罰することを可能にするものであった。これはテロなどの大規模犯罪を事前の謀議段階で取り締まることを可能とする条約に付随した法律改正案だが、問題なのは、取締りの対象を法律案の中で定義していない点である。つまり運用当局の恣意的な解釈によって、いくらでも拡張解釈できる状態になっているのである。
 たとえば、飲み屋で酔っ払って、「あのやろうぶち殺してやる」と言っただけで逮捕になる可能性があるのだ。であれば、ネットでの言論も同様だろう。
 現在の小泉による恣意的な「犯罪捜査」が、この法律によって、法的根拠を与えられる。日本国憲法によって違憲とされる可能性は残るとしても、右翼化した政権が、最高裁判事をより右翼的に入れ替える可能性は否定できない。それでなくても、裁判所はときどき、変な判決を出しているのだから。
 その意味で、最高裁判事の国民審査は、これま以上に、にわかに重要性をおびることになる。
 しかし、それにしても、ファシズム運動に国民がだまされていれば、そのチェックは有効とならないだろう。