日の丸・君が代

 今日の夜、古い友人から電話があり、僕の住む板橋区にある高校、板橋高校と志村高校の「結果責任」の件で、どうしたんだと言う。だから説明してやった。「あれは、どう考えて都教育委員会がおかしい。なぜなら、日の丸・君が代法案が国会で審議されたとき、当時の有馬文部大臣は明確に『この法律は人の良心を縛るものではない。この法律を守らなくても、どんな罰も与えられない』と答弁した。だから、都教委は、むしろこれらの高校の教師を表彰すべきなのだ。なぜなら、日の丸、君が代について教育の一環として教えるのなら、必ずこの立法趣旨を教えるべきであり、それを教えた教師は、たとえ彼らが都教委によって弁護士ぬきで恫喝されているとしても、きちんと説明する教育者としての義務があるからだ。そして、それは、都教委の『きちんと教えろ』という指導ともマッチしていることだ」と。
 実際にそれぞれの高校生がどういった意志で、卒業式での起立を拒否したのかは、僕にはわからない。しかし、もし僕がそうするのなら、主権在民と書かれた憲法に違反する「君が代」という国歌のタイトル、そして、日の丸を持った旧日本軍によって殺された沖縄住民のことを、まず思い浮かべるだろう。そして同時に、日本国憲法に書かれた、象徴天皇制は国民の意志によってのみ支えられるという言葉も思い出すかもしれない。
 ともかく、こうした被害者の感情に思いをいたす良心と、単に歴史的に古いから敬ぶべきだという思考と、これを読む読者は、どちらを正しいと思うだろうか? 聞くまでもないだろう。
 第二次世界大戦終了時に、冷戦構造の中で、日本の保守派を味方にするために残された象徴天皇制である。そんなときですら、敗戦国である日本人の多くは、なんで戦争に負けた天皇がその責任を取って退位しないのかと疑問を持ったという。それは当然なのだ。これまでの歴史では皆そうしてきたからだ。それを押しとどめたのは、単なる世界情勢と、政治的利用価値に気がついたアメリカの戦略に過ぎない。
 都議会では、石原都知事に擦り寄る、気味の悪い土屋とかいう民主党の議員が、日の丸・君が代を尊重しない連中は皆、処罰してしまえという、「平成維新」を行っているという。都民の暮らしを良くするのではなく、思想統制をするのなら、何が維新なのであろうか? 自分達に都合のいいことしか教えない、マインドコントロール、情報統制が維新なのであろうか? だとしたら、そんな維新は御免こうむる。
 最初に書いた友人は、常日頃、言動が失礼なので、これを機会にもう付き合わないと言ってやった。しかし、実は彼も気の毒なのだ。元公立学校教師の彼は、神経が繊細すぎて教師を続けられず、かといって職もなく、ぶらぶらしている。そして、それは必ずしも彼だけの罪ではない。労働市場における「価格調整」のために必ず失業者を必要とする現在の資本主義体制の犠牲者ともいえるからだ。僕らにできるのは、社会保障の充実によって、少なくと悲劇を減少させることだろう。しかし、小泉政権は逆の方向に進み、邪魔な連中は死んでしまえという理論で、毎年3万人もの自殺者を生み出している。これは、彼が政権をとる前の2倍の数字である。こんな国のどこが先進国なのだろうか? そして、これが民主主義の国なのか?
 今日、この日記を書く前に見た映画『グリーンマイル』で、印象的な言葉があったので書きたい。
 「いま、この瞬間も、愛を利用して、人が殺されている」
 社会構造を知らずに踊らされることを、僕らだけは慎みたいものだ。