追悼−藤村信

        われらは 休みない海
        希望の墻壁(しょうえん)
        ひとときの影に盲(めし)いず
        どんな苦悩にも倒されない。
           −ネルーダ『黒い島の記念碑』から

 戒厳令。歩哨をとりかこんで、泣き声で尋ねる妻と母親の群……「どこにいるの? 会わせてもらえない? 手紙を書いてはいけないの? あのひとは裁判をうけたの? 処刑されたの?」……卑しい表情の下士官は唇も動かさず、ものぐさげに返事する。「明日の十時にきてくれ!」……街頭に本を山と積んで燃やす兵士たち。焚書の煙を見て笑う……銃口をつきつけられ、地面に匍いつくばる男たち。……処刑者の壁。
 こっそりと指さして、共産主義者が住むとなりの住家を告げる退役の大佐……密告者にさげすみの色もみせず、逮捕にむかう兵士の一隊。
 詩人パブロ・ネルーダの荒らされた書斎……そして、詩人の野辺の送り。……二、三百人の、大胆に心さだめた市民の会葬者が集まってくる……棺をおおう花束と同じ数の自動小銃が葬いの人びとを遠方から包囲している……棺が地下におりていくとき、地の底からわきあがるようなインターナショナルのうたごえ……

   −藤村信「ひとときの影に盲いず−チリの実験とヨーロッパ左翼」『西欧左翼のルネサンス』(岩波書店・1977)所収

「チリ・クーデターとは、1973年9月11日チリで発生したクーデターの事。」ウィキペディアに、このように紹介されるチリ・アジェンデ政権の崩壊を上に引用したように紹介したのは、パリ在住のジャーナリスト、藤村信さんでした。
南米において合法的選挙によって成立した左翼連合政権を崩壊に追いやったのは、その国有化政策を嫌うアメリカのCIAに後押しされたチリ軍部でした。このクーデターで3000人が処刑され、30000人が拷問を受けたといいます。そのクーデターの首領ビノチェットが現在のチリ政府によって訴追されているのは、ニュースになっているとおりです。
藤村信さんは、こうした状況を欧州左翼が政権を獲得する際の問題としてどう捉えたかを、この本で描いています。この章に続いて、独裁のくびきから逃れたスペインとポルトガル、自主路線を歩むチトーのユーゴスラビアプラハクレムリンと西欧共産党の分裂、イタリアの新しい共産主義、そして、まとめの章へと続きます。
この藤村信さんが、今年、8月12日、パリで逝去されました。82歳でした。
藤村さんはジャーナリストで、たくさんの著作、翻訳書がありますが、『西欧左翼のルネサンス』は僕が政治学専攻の大学への入学が決まり、最初の合宿で読んだテキストでした。
さまざまな悲惨な出来事を伝える書物があり、そしてそれは現実を知るために必要なものです。しかし、藤村さんの文章は、悲劇の中から未来への希望を伝えるものでした。だから僕は、彼こそ自分の理想だと思って、その後の大学生活や社会人生活を送ってきました。藤村さんがなくなった今も、彼のかわりになることができない自分を悔いたりしています。
「3M」という言葉があって、単なる学者、思想家であるだけでなく、ジャーナリスト的感覚を持った人を指す言葉です。マルクス、ミルズ、マンハイムのことを指します(13頁、世界の名著『マンハイム オルテガ中央公論社・1979)。その意味で、単なるジャーナリストでなく、その該博な知識と英独仏といった語学力で社会の動きを重層的に分析した学者以上のジャーナリストが藤村信さんでした。
実感のない好景気と、社会的格差の拡大とその固定化といった状況の中で迷走を続ける現代日本。経済格差を変えるのではなく、その不満を、国民自らの権利を剥奪しようとする権力者への追従によって晴らそうとする日本社会において、藤村さんのようなジャーナリストはまだ死んではいけなかったと思います。
しかし、藤村さんも80歳を超えていたわけで、彼の任務は、残されたわれわれにかかっているのだと思います。冥福を祈ります。