アレクサンドル・ソークロフ監督『太陽』

昨日夜、銀座シネパトスに映画『太陽』(http://taiyo-movie.com/)を見に出かけ、立見だったので見ずに帰った。そして今日、出直し、今やっと見終わったところだ。映画開始前にパンフレットを買い、見終わってからアレクサンドル・ソークロフほか『映画太陽オフィシャルブック』(太田出版・2006)を買った。そう、非常に面白い映画で、もっと知りたくなったからだ。

映画『太陽』オフィシャルブック

映画『太陽』オフィシャルブック

そのあと近くのプロントに入り、昼食をとりながらパンフレットを読み、続けてオフィシャルブックの一部を読んだ。宮台真司の評論の一部と、西部遇×?秀実×井上紀州の対談だ。
全共闘から右翼へと転向した西部遇の発言は、いかにも右翼らしい嘘と欺瞞に満ちた、映画への反発だった。何が嘘かというと、一方で「天皇が神であったことは大戦期においてもフィクションであった」といいながら、それを描くことをタブーとし、映画自体の存在に反発する姿勢である。昭和天皇が神として扱われ、それに従わない人々が、ことごとく特高警察によって検挙された事実を全く無視し、ニュース映画に天皇が登場するだけで映画館のすべての観客が自発的に帽子を脱ぐといった宗教的雰囲気に当時の日本が合ったことは、先日見た展示会でドイツ人写真家ローゼンベルグが証言していることである。しかし西部は、そうした歴史的事実を無視し、あたかも存在しなかったかのように振舞う。これこそ歴史の偽造だろう。そして西部は言う。「改めてこんなものを映画にすることに対して、俳優は拒否すべきである」と。
こうした西部の発言のような態度は、靖国擁護派にも共通して見られるものだ。方や「神等まつられていないのだから、反対派は(靖国神社を)無視すべきだ」と言いながら、合祀取り下げに対しては「一度神として祭ったものを汚い人間の手で取り下げるわけにはいかない」と言う。
そんなことを言うのなら、「神として祭ったのも汚い人間の手なのだから、なぜそれを(汚い?)人間の手でとりさげられないのだろうか?」という疑問が浮かぶ。このように事実を無視し、自分の都合のいい方向へと議論をペテン的に誘導するのは、遺族のためのものでもなく、誰のものでもない、ただ狂った軍国主義と自己の固着した敗戦に対するトラウマを慰撫するためだけに靖国神社存在することを、言外に表明しているに過ぎないだろう。僕は、靖国が自分の手で分祀できないのなら、宗教法人としていったん解散し、もう一度本当に合祀を望む遺族だけの為の普通の神社になるべきだと思う。それがいかに右翼、軍国主義者に抵抗されてもである。
ともかく、こうして昭和天皇に対する西田ら右翼の思い入れが、こうした皮相なこの映画への反発へとつながるのである。「(天皇を)描くべからず、人にすべからず!」
僕自身のこの映画に対する感想は、非常に重要かつ、よく描かれた映画であったというものだ。イッセー尾形の演技に対して観客から笑い声が漏れる。そして、そうした情況こそ、映画の主人公である昭和天皇自身が望んだ平和な日本であったのではないか、と僕は強く思ったのである。
映画は、玉音放送を録音した青年技師が自決したこと、そして、それを周りの人間が止めなかったことを昭和天皇が知るシーンを描き、凍りついたその場から、そうした悲劇を怒った皇后が、その場を立ち去り、皇太子たちのもとに昭和天皇を導くシーンで終わる。
そして続くエンディング・タイトルバックでは、皇居に住んでいた鶴が、廃墟の東京の片隅を飛び回るシーンが描かれる。とらわれの鳥は、こうして自由になった。それこそこの映画監督が描きたかったことなのだろうと思う。
だから、この映画は、単に映画として傑作なだけではなく、見る者、特に日本人を、戦前という呪縛から解き放つ癒しの効果を持つ映画でもあったのだと思う。
そしてその骨格を支えるのは、天皇自身の「私はもう神ではない……この運命を私は拒絶した!」という能動的な決断の言葉であったように思われる。
もちろんフィクションだから、こうした作品と歴史的事実は別に考えられるべきだろう。でもね、西部のように、究極において民衆の判断を信じず、それゆえに、天皇という神秘を保持したがる人々と対照的に、ソークロフ監督は、失われた命、そしてこれから困難な時代を生きていなければならない日本人に対して、限りない愛情と信頼を置いていることは強調されなければならないと、僕は思う。
ここで僕は、以前ある右翼の青年とブログのコメントで話をしたときのことを思い出す。戦争は確かに、ウォーシミュレーションゲームと同じようにある程度の確率で勝敗をはじき出すことは可能だ(それはそのゲームが軍隊の盤上演習から生まれた出自からして当然なのである)。そして、一定の方法によっては勝利を得ることも可能だろう。でも、僕は、勝っても負けても、その戦場に横たわる死者の、戦争がなかったなら可能であったはずの未来を思わざるを得ない。それを無視できない。だからこそ、戦争は極力さけるべきと思うのだ。
神風、回天、肉弾攻撃といった靖国が賞賛する兵士の行動を愛国心の表れと驚嘆するのではなく、そんな攻撃を国が許さなければ得られたはずの彼ら特攻兵士の未来の人生を惜しむのである。靖国支持派の人々は、他者のために死ねる人々を賞賛し、自分にないものとして大切にしたいと思うらしい。しかし、自分が望まないことを他人がすることを賞賛する「自己欺瞞」には、気がつかないのだろうか? それとも、そんな自分は棚に上げて、ただ賞賛し、その霊を悼むというのだろうか?
昔見たイギリスの文芸映画で、第一次世界大戦に反対する歴史家に対して、「それではあなたは、敵国兵士がイギリスに上陸し、あなたの家族を殺してもいいのですか?」という言葉が発せられた。それに対して歴史家はこう答える。「そのとき私は間に割って入ります。」
僕は、自国のものであっても、軍隊を信頼しない。戦争による解決を信頼しない。だから僕は、強い軍隊があれば、そして強い同盟国があれば安心と言い切るほど、素朴でも、幼稚でもないのである。9条改悪反対の主な理由は、そこにある。
映画『太陽』の感想に戻れば、こうした昭和天皇の内面に迫る映画を日本人自身が描けなかったことを恥とすべきだろうと、僕は思う。そして、だからこそ、この映画は、今を生きる日本人にとって貴重であり、重要な映画になるのだとも思う。韓国や中国の民衆がこの映画をどう見るかは、あるいは、日本人の感想とは違ったものとなるのかもしれない。すごく無責任な映画と見るかもしれない。だからこそ逆に、この映画を通して日本人は、自らの呪縛を解き放たなければならないのだと思う。
なぜなら、歴史問題を解く道は、そこからしか始まらないと、僕は思うからである。