2005年夏の東京都議会選挙

あろうことか民主党都議連は、土屋たかゆきをメインにこの夏の都議選を戦おうとしているらしい。うちのポストにも、そんなビラが投函されていた。こいつ、件の国旗・国歌事件で板橋高校でビデオ録画をしていたと『週刊金曜日』に報道されていた議員だ。
 チラシには、仲良く石原知事と肩を組んでいる写真が掲載され、教育改革のスローガンは「ありがとうございます」とちゃんと挨拶できる学生を育てると書かれていた。戦後の放任教育を改めるのだそうだ。そう、そりゃ、政策の中身も吟味せず、なんかえらそうだからきちんと挨拶しておくかみたいな国民が育てば、政府や議員としては万々歳といったところだろうう。しかし、そんなんで、本当の教育なのか? そんなんで中央政府を取れると、本気で思っているのか? そういういうのって、よくって面従腹背っていうのじゃないだろうか?
 石原知事のような、国内における少数民族に対して、多数派の勢いを借りて差別発言を繰り返したり、それをもって、自らのマッチョさを誇示したりする小児病的人物と肩を組んで「東京革命」みたいな空虚な文字を書けること自体、土屋議員自身の言葉の空虚さを表現しているといわざるをえない。
 僕らが依拠しなければならないのは、より国際的な万民に対する基本的人権の尊重とか、政治的自由の獲得でなければならないのではないだろうか? それに依拠してこそ、北朝鮮の抑圧的政治体制に対する批判が可能なのだし、拉致された日本人だけでなく、同時に抑圧されている北朝鮮市民も含めた全ての市民に対する共感や支援も可能となるのだと思う。体制崩壊後の南北朝鮮の平和的統一や、中国共産党の支配以後の世界に対する、未来の日本の位置づけも、初めてそれによって可能になるのだと思う。
 だからこの夏の都議選は、自民、民主、公明(自民に比べればましだが、石原都政を支えているのだから同罪だろう)以外の政党に投票すべきだと考える。石原のつまらないパフォーマンスに嬉々としている場合ではない。その裏に隠された、反民主的姿勢こそ、批判すべきだと思う。われわれの生活を守るために、美濃部都政を支えた誇り高い東京都民に立ち返るべきだと思う。小選挙区制ではないのだから、今度は自由に投票できるはずだ。


 なんか政府にしても、公明党に反対されて、出したり引っ込めたりしている教育基本法の改悪にかんして、これは憲法の改悪案だったかもしれないが、日本の伝統に依拠した教育みたいな話が出ていた。そう、どうせ伝統に立ち返るのなら、九州出身の少数部族であった天皇家に占領される前の、5世紀以前の日本の伝統に立ち返るべきだろう(詳しくは、古田武彦『盗まれた神話』朝日文庫参照)。
 そして、薩長政府によって維新政府側の戦死者を祭るために建てられた靖国神社国家神道ではなく、江戸時代の宗教政策に立ち返るべきだと思う。
 こうして、政府自民党の操る「伝統」という言葉が、いかに空虚なものであるかが、すぐに証明されてしまうのだ。
 ま、もっとも、「自虐史観反対」とか「伝統に帰れ」とか「男女平等反対」とかいった、頭のいかれた国会議員の発言は、ねじれた永田町の空間にしか存在しない、国民の誰もが望まない「デストピア」の夢でしかないことは、明白だろう。国民の関心は、全くそんなところにはないのだから。議員は、自らの責任を問われない問題に対して言葉遊びをしているにすぎないといえる。
 

 少し前の『朝日新聞』に載っていた加藤周一のエッセイで面白い話があった。日本は政治と経済を分離して、政治面での鎖国を目指している。しかも、その鎖国は、もう一つの嫌われ者国家であるアメリと一緒に同盟を結んでの鎖国である。アメリカは世界一の軍事大国だから、将来の日本は安全である。日本はかつての鎖国時代に生み出した浮世絵とか歌舞伎といったオリジナルな文化をもう一度作り出せて万々歳である、といった内容だった。こうした発言を、加藤氏は、第三者の口を借りて書いていた。
 全てはアメリカへの忠誠を示すために。北方領土の二島返還を蹴って、日ロ国境の画定を避けることも、イラク北朝鮮も米国産牛肉の輸入再開もみんな同じだ。忠誠の先に小泉政権の安定があるにしても、国民の不利益は、この際無視するといった按配だろう。


 雑文になってしまったけれど、最近思ったことを書きました。