倫理

 「世の中で一番大切なものは何かと考えると、命だと思う」大学時代に友人が言った言葉だ。彼はその延長として、ゼミで戦争と平和理論の研究を始めた。
 僕が死刑制度の廃止や戦争反対を主張するのも、それが根底にある理由である。生命はあらゆる可能性の源で、死刑囚であっても仮に生き残れば、反省したり、被害者遺族のために賠償を行う可能性が残る。団藤重光元最高裁判事の「死刑廃止論」、これは、裁判官であっても、人間が裁く以上、絶対に誤審の可能性を排除できない。それゆえ、回復不可能な死刑という刑罰を否定する考え方であった。この2つを考え合わせれば、死刑制度は廃止されるべきと断言できるだろう。
 そして、戦争なのだが、いろいろ考えたのだが、やはり同じ労働者同士が殺しあう愚は避けなければならないと思った。限りなく正義に近い戦争はある。自己の命を守るための戦いだ。しかし、戦争という手段を選ばない道を探ることこそ、それに勝る正義、良き道筋と言うべきだろう。だから、トッド理論への支持は、それが、広範な市民の要求に合致し、世界に平和と安定をもたらす限りでのもの、と見るべきだ。僕らが立たなければならない基本は、労働者のインターナショナリズム、国際的な連帯なのである。昨日、ネットで労働歌、インターナショナルを聞きながら、そんなことを思った。
 倫理学は興味深い学問で、いろいろと注目すべき論文もある。そうした諸著作家の検証作業に触れるなかで、こうした人間中心主義的な考えの理論固めをするのは有意義なことだと思う。
 社会科学を学んだ者にとって、倫理とは非常に微妙なものだ。まず、科学的態度として、既存の倫理的価値観、先入観から自由でなければならない。実証主義というものなのだが、その実証主義の背後に隠れた、ドグマも検証の対象から排除されない。この段階になると、科学哲学的な問題となるのかもしれない。
 そして、歴史主義な意味合いになるのだが、それぞれの時代において倫理的価値観は変化するという歴史的事実を、社会科学を学ぶものは知っている。だから、こうした倫理的価値に関して、きわめて相対主義的立場をとりやすくなる。
 しかし、出発点として、それでも僕らは社会科学を志したわけで、底には個人的なものであれ、きわめて倫理的な動機が隠されているだろう。
 一定の政治目標を実現するための政策科学といった趣のアメリカ流の政治学がある。その科学においては、その目的がたとえばユダヤ人問題の最終解=ホロコーストであったとしても、政治学的な完璧な解を導くことが可能だ。しかし、そんなものを求めて政治学をやってきたわけじゃない。だから、アメリカ流の政治学が「あれは政治史じゃないか」と否定する丸山政治学も、実は、アメリカ流の政治学以上の意味を持ちうる。っていうか、丸山政治学は単なる政治史じゃないから、根本的な誤解なんですが。
 今手元にある、一番僕が参考にしている倫理学論文は、広松渉デュルケーム倫理学の批判的継承」(『世界の共同主観的存立構造』所収)である。これは、デュルケーム社会学における、宗教的側面を排除して、その後考えうるいろいろな問題に射程を広げたものである。でも、今読み返して、ずいぶん忘れている点が多いことに気づいた。もう一度読み返して、問題点を整理したい。