それがマナーなら、俺がお前をぶん殴るのもマナーだ:東京都教育委員会・千代田区環境美化条例批判

 ゲインは一九四五年の冬に酒田市を訪問し、中学校の校長と会話した際のエピソードを、こう書いている。


 彼の学校の二十五名の教師の任命は、日本軍部の賛同の下になされたものであることを彼は認めた。しかし彼らを追放する意志があるかどうかと尋ねたら、びっくりしたような顔つきで、
 「どうしてです? 彼らは何もしやしませんでしたよ」といった。
 それではこの軍によって選ばれた人たちが民主主義の観念を日本の青年に教えることができると考えているかときいたら、彼は確信をもって答えた。
 「もちろん。東京からの命令次第――」


 ゲインはこの反応を聞いて、「なぜ日本が戦争に突入し――そして負けたか。その理由が私にもわかるような気がした」と述べている。


 ――小熊英二『<民主>と<愛国>―戦後日本のナショナリズムと公共性』(新曜社・2002)62−63頁。

〈民主〉と〈愛国〉―戦後日本のナショナリズムと公共性

〈民主〉と〈愛国〉―戦後日本のナショナリズムと公共性

先日NHK総合『クローズアップ現代』で放送された、東京都教育委員会による都の教員に対する国歌および国旗に対する指導・処分と、それに対する教員側の反発のドキュメンタリーは興味深いものでした。番組でキャスターが東京都教育委員会教育長と中継画面で対決し、「都教委の指導は、国の国旗・国歌法案に対する、人の良心の自由を縛るものではないという説明と食い違っているのではないか?」と質問し、教育長が返事に窮するという前代未聞な場面すら放送されたのです。
翌日の新聞(朝日新聞)には、都教委がNHKの報道姿勢に抗議し、NHKが報道として正当なものであると反論するといった、なさけないおまけすらついた番組でした。
放送内容は、より興味深いもので、国の法案説明すら逸脱した強硬な国旗と国歌に対する都教委の指導・処分に対して困惑する東京都職員側と、それに従わない教員(具体的には、卒業式、入学式において君が代斉唱のときに起立しなかった、歌わなかった、国旗を掲揚しなかった等)に対して、都教委は自らの指導する国旗と国歌の正しい教育を怠ったという理由で、処分を(しかも弁護士ぬきで)行ったた都教委側の双方をドキュメンタリーしたものでした。
都教委の取材では、「国旗・国歌に関する歴史的側面からの説明では限界があるので、これからはマナーとして指導しましょう」みたいな発言も収録されていたのでした。あたかも「マナーが基本的人権に優越する」かのような問題発言です。そしてこれは、同時に、法を執行する側が有権者に対して、あいまいな定義しかないマナーを、強制できるかのような、戦前的な間違った発想であるといわざるをえません。


法的拘束力に疑問が生じたときに「マナー」を持ち出して規制しようとするのは、不法行為を行う側の常套手段のようです。
たとえば、公道上での喫煙を禁止した千代田区路上禁煙条例(これは区長の任意に指定したエリア内の公道、実際は、区の管理下にある道路上での喫煙を歩行、停止に関わらず全面的に禁止できるとする条例です)の条文において持ち出されたのが「マナー」という言葉でした。この条例文は、千代田区のホームページにも掲載されているので、興味のある方は参照していただきたいのですが、このマナーという一言で、路上で喫煙するといった基本的人権を制限することが、あたかも可能であるかのように千代田区議会議員と区長は考えたという点で大きな問題です。
この条例をよく読むと、千代田区の同喫煙禁止エリア内を走行する自動車内での喫煙は許可すると書かれています。であるならば、そうした自動車内喫煙者と同様に、他の歩行者と適切な距離を保ち、なおかつ携帯灰皿を持って喫煙する歩行者に対して、喫煙を禁止し、なおかつ喫煙者に罰金を科することは、どう考えても合理的な理由が見つかりません。そして、そうした不合理な規制を正当化するために持ち出されたのが、「マナー」という、条例文の中ですら何ら定義されていない言葉だったのです。
喫煙が健康に悪いことは言うまでもありません。しかし、それは、タバコの価格の引き上げや、他者に対する健康被害の側面から規制されるべきものであり、喫煙者本人に対しては、あくまで自主的判断を迫るかたちで規制されるべき性質のものでしょう。欧州でタバコの箱にでかでかと「喫煙はあなたを殺します」と印刷されているにもかかわらず、喫煙自体は禁止されていないという状況は、それを物語るものです。


さて、都教委の「マナー指導」に戻りますが、戦後、日本国憲法の下で主権在民基本的人権のルールが明文化され、過去の歴史において、日章旗を背負った旧日本軍によって沖縄の非戦闘員たる住民が、単に日本軍の戦闘の邪魔になるからという理由で虐殺された事実は、すでに明らかにされています。そうした事実を記憶にとどめる人たちにとって、戦前から変わらず続く日章旗や、天皇の安泰を願う君が代といった歌は、素直には肯定できない存在です。そうした反対論があり、なおかつ、新しい国旗や国家を作ることも拒否するといった当時の政府自民党の妥協策が、「この法律は良心に伴う行動を規制するものではない」といった、国旗国歌法案に対する説明となって現れたのでした。
都教委は、石原知事という都民が偶然選んでしまった右翼的指導者のご機嫌を伺いすぎて、先走りしているように見受けられます。
現在の天皇にすら批判され、「強制ではない」と反論にならない反論をしていた石原都知事のテレビでのこっけいな姿も、記憶に新しいところです。
東京都教育委員会のこうした指導・処分にせよ、千代田区の路上禁煙条例にせよ、こうした問題は、いずれ司法の場ですっきりとした決着が付けられるとは思いますが、それ以前に、こうした姿勢自体が反民主主義的であり基本的人権に反した戦前的発想に立った強権的姿勢であることは、批判されてしかるべきだと思います。


公共性というと、いささか堅苦しい言葉のように感じられますが、むしろ、政府や自治体を民間のサービス会社のように、税金という利用料を支払う市民に対するサービス会社ととらえたら、すっきり理解できると思います。残念なことに、政府は、民間会社と違って独占企業体です。ですので、ともすれば彼らは、利用者である納税者、お客さんに対して、自分達がより上位の地位にいるかのように錯覚しがちです。そして、利用者から預かる税金といった利用料金を、自分達の自由に使える自分達の金と誤解しがちです。
ですから、国民は代議員の選挙によって政府・自治体といった公共機関の職員を規制することができる。立法府によって作られる法律・条令によって、政府職員の行動を規制できるようなっているわけです。
幕末ドラマを見ていて気がついたことですが、公共性をつかさどる政府機関を「公」と呼んだりします。しかしこの言葉は「公武合体」というときの「公家」とすごく似ているんですよね。だから、なんとかく、本来サービス機関として住民の下位に置かれるべき「公共性」が、当然に市民を支配・指導できる強権的機関として意識されがちでもあります。
そんな時、市民は、市民に本来備わっている基本的人権や政治的自由や権利を思い起こさなければならないのでしょう。


今の世界は、いまださまざまな悲劇に彩られています。それゆえ、上に書いた事件は小さな事件として黙殺されがちです。しかし、こうした問題は、より大きな悲劇に直結していることを、冒頭に引用した小熊さんの著作の言葉は示唆しているように思えます。