倫理の行方−『これから「正義」の話をしよう』から始める考察

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都内の環境放射線測定結果 測定場所:東京都新宿区百人町
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東京都ホームページ
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サンデルからの議論

これからの「正義」の話をしよう (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

これからの「正義」の話をしよう (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

 マイケル・サンデル著『これから「正義」の話をしよう−今を生き延びるための哲学』(ハヤカワ文庫・2011)は、著者によるNHKEテレのテレビシリーズ講義『ハーバード白熱教室』を以前見て、もう一度復習したいと思い購入した書籍です。
 折しも、防犯パトロールという警備関係の仕事についていたこともあって、何が正しいことで何が正しくないことなのかを根本的に考えたいというのが、読むことにした理由でした。
 読む前に気になっていたのは「もっともよい音を出すフルートは誰が持つべきか」という命題です。サンデルは「最も演奏のうまいフルート奏者である」と答えます。しかしその理由は、「その人が持てばみんなが聞いて楽しめるから」といった功利主義的な説明ではないと言います。そして功利主義的説明に代わりうるものがアリストテレス『二コマコス倫理学』に書いてあると言います。
ニコマコス倫理学〈上〉 (岩波文庫)

ニコマコス倫理学〈上〉 (岩波文庫)

 そんなわけでアリストテレスも読んだんですよ。この『二コマコス倫理学』は岩波文庫から出ていて、有名な『政治学』(1、3、4、5、7巻の抄訳・中央公論社世界の名著8・1979)の前半をなすものとして書かれています。『政治学』は昔読んだのですが、『二コマコス倫理学』はまだ読んでいませんでした。 この答えは、フルートには演奏されるという「機能」があり、一番いいフルートには一番よく演奏されうるという機能がある。だから一番いい演奏者が演奏するべきである。という考えです。そして、そうした行動は「徳」にかなっている。
 徳とは、人が「幸せ」になるために必要なものというのがアリストテレスの定義です。徳には2種類あって、「卓越性の徳」と「中庸の徳」があり、良い演奏というのは前者のことを指すのだと思われます。
 後者は、何事もやりすぎてもダメだし、不十分でもダメという意味です。これは物事のレベルにおいてもそうだし、そのレベルに応じて同じ行動が別の言葉として評価されるといったものでもありす。勇敢のやり過ぎは無謀だし、不足は臆病と評される。このようにアリストテレスの論理は言語を共有するところの社会に大きく依存しています。それは価値というものが他者の存在にかかる社会的なものであることを前提としてます。
 しかし、だからといって社会通念が常に正しいかと言うと、そうではなく、その正しさを保証するものこそ、「哲学的議論」であるということになります。哲学的議論を保証するものは、すべての人間が持つとされる「理性」です。それを担うのが哲学者、その能力は卓越性の徳ですね。
 ここで、サンデルに戻ると、読後に印象に残ったのは、現在のリベラリズムは価値の相対化およびすべての権利を許すという人権思想をその基本とする。それゆえ政治的判断には、理想の追求という大きな空白が生まれ、つまり何が理想であるかを政治は示し得ない点に大きな欠陥がある。それゆえ、その空白を埋めるべく、米国ではキリスト教原理主義といった誤った思想が流入しがちである。だから、それをコミュニティの倫理で埋めなければならない。コミュニタリアンの立場に立つサンデルらしい考え方です。
 ここでも、コミュニティの社会通念をそのまま理想とすることの危うさが指摘されるのですが、その危険性を阻止するものこそ、サンデルが自身の講義でも取っているスタイル、ソクラテスメソッドと呼ばれる、議論を通して真理を追求していこうとする姿勢です。この意味では、非常にハーバマスの議論による民主主義に近い考え方になります。アリストテレスの立場でもありますね。
 ここでふと思ったのは、僕のようなマルクス主義の立場に立つ人間は、政治はこうあるべきといった理想があるということで、欧米流のリベラリズムとは立場を異にするということです。「すべては労働者の利益に」という発想であり、ナショナリズムに対してはインターナショナリズム、つまり敵国といったって、相手も同じ労働者なんだから対立するのは無意味という発想です。
 ここには、そもそも、政治的価値がある。アリストテレスも『政治学』で言うように、古代ギリシャにおけるポリス(都市国家)の自由市民にとってどのような徳が必要かという観点から議論を進めている。その意味で、今のマルクス主義者は、現代資本主義社会における労働者の立場を離れることはできません。
 サンデルの議論は、ハーバードで世界中のエリート政治家を教育する政治哲学の教授というものですから、マルクスを出すのは適当ではない。しかし、その役割をコミュニティに置き換えることによって、同様の役割を負わせているように思えます。

ウェーバー理論による補完

 さて、最後に、政治的倫理の実現に関してです。ここで参考になるのは、ちょっと古いんですが僕が学生時代に読んだ本、向井守・石尾芳久・筒井清忠・居安正著『古典入門−ウェーバー支配の社会学』(有斐閣新書・1979)です。この本は大著マックス・ウエーバー『経済と社会』の解説本です。
 ウェーバーは政治の本質を「支配」として考えた、徹底的なリアリストですが、同時に20世紀初頭という当時のドイツ官僚制を研究することによって、官僚独裁に対する警鐘を鳴らした人物としても知られています。国民の利益ではなく、官僚という組織利益を優先する姿勢は「官憲国家」として表れるのですが、それは明治政府や当時のプロイセン官僚制を意味し、現在の民主党執行部が官僚に操られる事態をも含めていいように僕には思えます。これに対立するのはカリスマ的リーダーによって率いられた「ファシズム体制」なのですが、ここでサンデルの議論が関連してきます。つまりコミュニティという共同体の倫理は、その倫理の内容が吟味されなければファシズムに転化しやすい。これがデマゴーグによる支配、ポピュリズムの正しい理解と言えると思います。
 このどちらをも持避ける方法はあるのかが次の課題となります。
 その前にひとつ議論を追加しておきたいのは、市場倫理と社会倫理の対比です。ウェーバーによると、市場倫理とは「約束を守る」のひとつだけである。その意味で市場は反倫理的というよりも無倫理的な存在である(同書52頁)ということです。経済市場の考え方がもたらす倫理的側面はここにしかなく、その他の追加的な倫理はすべて社会の中で通念となった倫理である。だとしたら、そうした社会倫理を政治の場に持ち込むものこそ政党であり、その倫理が問われなければならない。ウェーバーは、日本の武士集団にも似たレーエン封建制から生じた主従関係に基づく近代政党を考えました。この集団の日本とちょっと違う点は、レーエン封建制は主人の正しさに基づく忠誠であり、主人が自分と考えを異にした場合には忠誠を尽くす必要はないという点です。
 つまり、無倫理である市場倫理に支配された社会に、コミュニティの倫理を持ちこむのは政党の役割であり、その政党の倫理的質を判断するのは選挙を通じて行う国民の役割であるという構図になります。
 ファシズムを恐れるあまり正義を語らなくなった現代リベラリズムのに対するサンデルの警鐘に応える道は、その倫理の質を問う姿勢に加えて、ウェーバー的な方法で支配の強権性をそぎ落としていくプロセスによって実現できるように思います。

「能力に応じて働き、必要に応じて取る」という言葉の意味
 蛇足ですが、この『ウェーバー支配の社会学』を読んでいて、あのマルクスの言う共産主義の2段階の第1段階、つまり「能力に応じて働き、必要に応じて取る」社会の意味がわかりました。これって「家族」なのでした。どこの家でもそうです。
 つまり労働者の連帯という紐帯を重視するマルクスにとって、革命後の社会とはこうしたものになる。そののち生産力が飛躍的に発展した第2段階においては、それこそ「労働が遊びになる」社会が実現するわけです。
 その意味で、小泉改革前の日本の「家族的経営」とは社員を家族のように遇するという経営方針だから、ある意味で社会主義的、共産主義的発想に基づくものだった。そして、こうした終身雇用といった経営は、第二次世界大戦中に興亜院がソ連他他国の強力な制度を導入し国力を高めるために作ったわけで、その意味で自然な成り行きであったとも言えます。
 小泉改革によって業績主義に切り替えられた家族的経営は、社会倫理から市場倫理という無倫理への切り替えと言えます。無倫理とは最初の契約に従うということ以外のすべてを無視する倫理なき社会です。もちろん労働者保護法という社会倫理は存在するけれど、市場倫理優位の社会においてはその支持基盤が弱くなる。
 ここまで書いてきたことを踏まえれば、だからこそ、今「正義」が語られなければならないと言えるのだと思います。

日常+橋下大阪市長の評価など

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 3月いっぱいで仕事が終わり、現在、就職活動をしているのですが、今日はそれも一段落したのでブログを書きます。
 また、自分が登録しているネットゲーム「トリックスター☆ラブ」が、昨晩6時15分から緊急メンテナンスに入っていて、まだ回復していないのも理由の一つです。最長27時間の記録があるそうなので、のんびり待ちたいと思います。入りたいのに入れない状態ですね。このゲームはいいですよ(笑)。

橋下大阪市長について
 では、まず、以前コメントに書いて補足が必要だと思っていた「橋下と小沢は水と油」について書こうと思います。
 半分は僕の願望です。残り半分は、以下の根拠があります。
 小沢が以前、TVトークショーカンブリア宮殿」に出演した時の言葉を、僕はわりと信じています。政権獲得前の小沢は言った。「今のように野党にまったく情報が提供されない状態は、健全な2大政党制の前提を欠いている。それを正さなければ、日本の政治の未来は危うい。」全く同感です。
 結局、橋下大阪市長と国会議員の小沢一郎の政治的資質の違いはあまりにも大きすぎると僕は考えます。
 小沢は単なる権力獲得だけでなく、将来にわたった日本の政治全体を見ている。しかし橋下は、ガリガリに権力獲得だけを志向しているように見えるということです。この違いが本質的に「水と油」、つまり非常に大きいと考えています。つまり、あの小泉を理想とすると公言する橋本は、いかに薄っぺらい人間であるかということです。
 ライフヒストリーから考えてみましょう。橋下は司法試験に受かって弁護士になり、TV出演で人気者となった。彼の人となりにはこうした成功体験しかない。つまり、彼の心を支配するのは、自分以外の人間は、すべて利用したのち捨て去ってもいいような道具でしかないということです。つまり、人として他者を尊重しなければならないという発想が、まったくないように思えます。それが、彼の弁護士にあるまじき人権無視の政策に表れている。大阪市職員に対する人権無視のアンケートもそうだし、憲法9条改憲の姿勢にも、それが現われているように思えます。
 「9条改憲」について説明すると、「日本国憲法9条は究極の人権保障である」と僕は考えます。「国際紛争解決の手段としての戦争を放棄する」という9条の言葉は、国益と称して、自国民とそれ以上の多数の外国人を殺してきた現在のアメリカ、そして戦前の日本を見れば、いかに人権を無視した誤った政策であるかが理解できると思います。
 僕は基本的に「戦争より腐敗」と考えています。腐敗で死ぬことはない(実際には、小泉時代以来続く社会不安と自殺者の急激な増加があるから、それでも福祉増強は必要です)。しかし、戦争はいやおうなく人が死ぬし、人を殺すための戦いです。これを防いだ9条を「究極の人権保障」と僕は考えます。
 また、機密保護法といったこうした「戦争」に関連する法案も、同質ものと考えます。
 話を戻します。たしかに、小沢と橋本には、右翼的体質といった重なる部分はある。しかし、小沢は2009年の選挙前に「生活が一番」と言って、その右翼的体質を自ら封印する良識を見せた。つまり「生活が一番」であれば、小沢の改憲志向などの政策は、遥か彼方の背景に押しやることができるからです。そこで前面に出るのは、旧経世会がその特質とした、国民に利益配分する経済中心主義になると僕は見ました。そこには当然、政治家による官僚の統制もあれば、米国の植民地状態から抜け出そうとする自主独立の外交政策もあります。
 しかし、かたや橋下には、こういった発想はまったくありません。対米関係の重視とか9条改憲とか大阪都構想とか教育委員会の解体とか、国家統制の大好きな自民党がこれまで主張してきたことばかりです。
 そう、たしかに参院廃止や道州制は主張していて、これ自体は正しい政策なのですが、後者に対しては財政的均衡がなければ、沖縄、福島といった国内植民地を新たに作るだけの政策です。
 日本はアメリカの植民地状態にある。そして沖縄、福島は同様に東京の国内植民地にある(高橋哲也『犠牲のシステム−福島・沖縄』集英社新書・2012参照)。こうした状態を変えようとする発想は、橋下には皆無です。

犠牲のシステム 福島・沖縄 (集英社新書)

犠牲のシステム 福島・沖縄 (集英社新書)

 小沢の「日本に必要な米軍は第7艦隊だけ」という発言は、後の「対等な日米関係」という民主党の2009マニュフェストにつながりますが、橋下にこうした発想はない。むしろ、師と仰ぐ小泉同様、これを主張しないことによって、アメリカの歓心を買い、権力を手に入れようとしているように僕には見えます。
 大阪都構想を見る限り、地方分権論者としての橋下にも疑問符が付きます。
 東京特別区制度は、戦時下の中央統制のために作られた制度で、東京市の権限を大幅に削減し東京都の直轄課下に置くための制度として作られた。現在では、特別区に議会も首長も置かれ、自治体の体をなしているのですが、それでも、いまだ東京23区の主張は「市並みの権限の獲得」です。これを大阪の人は知っているのだろうか? つまり橋下は、大阪市などを解体し、そのちに府知事に帰り咲き、石原慎太郎東京都知事のように権力を振るいたいということなのだと思います。
 むしろ、その頃は総理大臣になっていると思っているのかもしれません。だとしたら、これはかつて都知事選に立候補したNHKアナウンサーの磯村の政策のように「23区以外にも03の局番を使えるようにします」といったバカ丸出しのプライドをくすぐるだけの政策なのかもしれません。当時の美濃部都政は東京という一自治体の中で、欧米並みの福祉制度を実現しようとしてました。もちろんそれだけでなく様々な先進的政策を取っていたものです。だから、磯村は簡単に破れた。しかし、もしそれを見抜けないとしたら、今の大阪の有権者の頭脳レベルの底が知れるというものです。
 この条例に自公議員が賛成し、国会でも同様なのは、内容が地方分権ではなく、中央集権だからにほかなりません。現在の民主党案も同様です。小沢を排除した民主党の現執行部はほとんど自民党と変わらないのですから。
 教育委員会改革も、橋下や石原を見ていると、いかに誤った政策であるかがわかります。教育はすべての国民・市民にとって平等なものでなければならない。選挙で一部の有権者によって支持された首長が独占的に介入すべきものではないと僕は考えます。こうした弊害は、教科書問題や国歌・国旗の強制に表れているように思えます。
 目指すべき改革は、終戦直後のように、教育委員会の独立を維持する為に教育委員の公選制を復活すること。教育委員会の決定は全員一致を条件とすること。財政的法的権限を与えること。教科書の決定権は学校の教師に与えることであると考えます。教科書決定には教員と学生の親との協議会、つまりPTAが公開の場で関与することも必要です。
 これが、旧来のアメリカ型の教育制度でした。こうした仕組みなしに、教育における民主主義は成立しえないし、民主的な教育、つまり、自分の頭で考えて付和雷同しない日本国民・市民を育てることはできないと考えるからです。
 教育は権力者の思うままにさせてはいけない。何故ならすべての人々に関わる問題だからです。
 戦後自民党はこうした制度を、日教組の組織票に対抗する為として、教育委員長の議会の同意に基づく首長の任命制に替え、教科書無償配布と引き換えに、教員による教科書の選定権の剥奪と地域同一教科書の決定に変えてきました。これは、地域独立の民主的な制度から中央集権的な戦前の制度に戻そうとする動きでした。そして、それに賛成している橋下が、そもそも地方分権論者であるはずはない。だから自民・公明は橋下が中央集権的な政治制度を主張する限り彼を支持するわけです。ただし、公明は自民の尻を追いかけているだけだから、明確な主張があるわけではありません。自民にくっついての政権返り咲きや、橋下にくっついての議員当選を目指しているだけです。その意味で、右翼政党としての自民は首尾一貫しているというわけです。
 ですから、小沢は判決前の流動的な政治状況のなかで、「橋下の政策は評価できる」などと言っていますが、これは政治的リップサービスのように僕には見えるし、そう信じたいというのが、僕の偽らざる心境です。
 本当に僕が望むのは、月末の裁判における公訴棄却なのですが、これが高裁最高裁へと控訴され裁判が続くとしたら、小沢の政治力はそがれ復権が難しくなるように思えます。そして、それこそが、米国政府や日本の官僚層の望むこと、自民・公明の望むこと、そして旧体制で得た権益の保存に汲々とする連合のボス幹連中やマスコミの望むことだとしたら、法的に圧倒的に有利な小沢だとしても、楽観は許されません。
 ともかく、橋下はファシストなのですが、ヒットラー並みの危険度があるかどうかというと、遥かに小物のように思えます。しかし、小泉流の多少の風見鶏特性があればまだいいのですが、橋下は小泉よりはるかに低能で馬鹿な政策を打ち出したりするから危険とも言えます。小泉ですら改憲と消費税増税教育基本法改悪は行わなかったのですから。
 教育基本法改悪を行ったのは、小泉の選挙大勝という遺産を継承した安倍でした。
 以上長々と書きましたが、あるいは大阪の有権者連中は、毒を以て毒を制するといった力づくの大阪復権を目指しているのかもしれません。それこそ東京の有権者が石原東京都知事に求めていることです。
 しかし、僕は考えます。毒は毒でしかないということです。対外的に強く出ることはできるかもしれません。しかし、尖閣諸島買い取りといった外交センスのない、都税を自分のポケットマネーのように考える老人、死後にトラブルしか残さないような老人は、所詮それだけのものです。有権者のためにはならない。橋下は少なくとも若くはあるのですが、若いバカは未来があるから始末に負えないように思えます。デマゴーグの正体が早く割れることを望みます。

恕の人−孔子

恕の人-孔子伝- DVD-BOX1

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孔子暗黒伝 (ジャンプスーパーコミックス)

孔子暗黒伝 (ジャンプスーパーコミックス)

孔子伝 (中公文庫BIBLIO)

孔子伝 (中公文庫BIBLIO)

 『トリックスター☆ラブ』以外に、はまっているのがBS日テレで放送中の『恕の人−孔子伝』(http://www.bs4.jp/drama/koushiden/)です。サンデルを読んで、アリストテレスを読んで、ちょっと倫理に関心がでたところで見ているドラマなのですが、これまで関心を持ってこなかった孔子の生涯をドラマで見ると、面白いですね。僕の基礎知識は諸星大二郎孔子暗黒伝』くらいだったのですが、陽虎や顔回子路、それに老子まで諸星先生の漫画のイメージそのものとして登場するので、ちょっとしたエンターテインメント、オールスターゲームといった趣です。まだ11話まで(全35話)しか見ていないのですが、最後まで楽しみです。
 また、単線的にこの物語だけ信じ込まないように名著の誉れ高い白川静孔子伝』(中公文庫・1991)も買って読み始めました。こちらも面白いです。

北朝鮮のロケット
 これはばかばかしい話です。ワイドショーのネタになっても、真面目に取り上げる必要はありません。なぜなら、日本に届くミサイルは、すでに実験に成功しているからです。核も搭載可能だという。かたやそれを撃ち落とすとする迎撃ミサイルは、いまだ精度不足で信頼できないと言います。
 唯一今回のミサイルで問題なのは、日本がアメリカ防衛の前線基地化することです。そっちのほうがよっぽど問題だと思います。迎撃ミサイルの精度不足は、問題じゃないんですね。だって、精度があると日本人が信じて、高い金出して買ってくれれば、アメリカさんは大安心なのですから。

政府の新食品放射性安全基準
 まだ高い。これに関してNHK『ドキュメンタリー現代』で特集していました。つまりは事故前から日本の法律で定めれらている年間1ミリシーベルトの被曝に近づけようとする考え方で、トータル1ミリシーベルト以上になるのだから、新基準でもまだ高いというべきです。環境による汚染も加算して、そのうえで年間1ミリシーベルト以下を目指すべきだからです。そして重要なのは、それに反する行為は違法であるということです。
 真面目な顔して『ドキュメンタリー現代』で議論していたけれど、年間19ミリシーベルトの環境で暮らす人々はどうなってしまったのでしょうか? 年間7.44ミリシーベルト(数値は今日現在のネットの値、http://www.naver.jp/radiation)の環境で暮らす福島市の人々は? これを僕は、高橋哲也氏同様、国内植民地と呼びたいと思います。「帰還を早める。それが住民の希望だ。」と述べる民主党現執行部は、総じて頭がおかしいと言わざるをえません。帰還や住み続けるという行為は、安全が前提だからです。
 旧ソ連ではチェルノブイリ原発事故のとき、年間5ミリシーベルト以上の放射能汚染地域住民を強制避難させました。それでも住みたい人は住んでもいいのです。危険性の伝達は済んでいるので、後は個人の判断に任されるからです。しかし、それすらないのが、日本の現状である点に注意が必要です。これは何度でも言わなければならないことです。

君が代、日の丸に関する補足
 いまだ「公務員だから職命令に従うのは当然」といった意見を聞くので補足します。君が代・日の丸は確かに日本の国歌と国旗です。でも、もしこれがナチス党の旗や旧ソ連国旗だったとしたら、みんなは「従うのは当然」と言うでしょうか? むしろ従わないのが当然と答えるでしょう。
 戦前日本はこの歌と旗の下、侵略を行い、おおぜいのアジア人、外国人を殺した。もうそんなことをしないというのが日本国憲法や戦後政治の原点でした。そして今でも、僕を含めて、日の丸君が代を、こうしたナチ党の旗と同じようにイメージする人々が厳然として存在します。だから国会で国旗国歌法が成立した時も当時の自民党有馬文部大臣が「この法律は使用を強制するものではない」と明確に答弁しました。
 ところがそれを忘れたどこかのアホが強制を始めた。だから現天皇をはじめとする良識派は「強制することのないように」と考えています。
 もしこの問題をおろそかにするなら、それこそ「思想・信条の自由やその表明」といった基本的人権を全く理解していないことになります。これはワールドカップで旗を振るとのは全く違った問題です。

マスコミの震災追悼番組は見ない

福島第一原発事故関係URL
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 今日は東日本大震災から1周年。福島第一原発事故からも1周年だ。

これからの「正義」の話をしよう (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

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犠牲のシステム 福島・沖縄 (集英社新書)

犠牲のシステム 福島・沖縄 (集英社新書)

 休みなので赤羽でバス定期を買って、神保町へ出た。マイケル・サンデル『これから「正義」の話をしよう』(ハヤカワノンフィクション文庫・2011、初出2010)と高橋哲哉『犠牲のシステム 福島・沖縄』(集英社新書・2012)、『思想』(岩波書店・2012年3月号)、『世界』(岩波書店・2012年4月号)を買った。買い物の目的は達成したので、帰宅後、確定申告の準備をする予定。それが終わったら自由時間なので、ゲームでもしたい。録画した劇場アニメ『綿の国星』と『AKBと××』も見たい(帰宅後、これは見た)。
 昨日見た朝日ニュースターの「月刊国際観察」最終回(http://asahi-newstar.com/web/52_kokusaikansatsu/?cat=18)は知らないことが多くあって衝撃的だった。諸悪の巣窟「記者クラブ制度」には、官僚と記者との構造的癒着があり、東電の広告料とともに、日本の報道を大きくゆがめる原動力となっていること。そしてそのシステムは、あの人気絶頂期の小泉政権の飯島秘書官ですら、大きく変えることができなかったという事実。それゆえ民主党記者クラブ解体政策が頓挫するのも当然であった。
 ずっと気になっていた枝野官房長官(当時)の「ただちに人体に影響を与えるものではない」という事故直後の発言に対して、IWJ(インディペンデント・ウェブ・ジャーナル)記者・岩上安身が改めて質問したところ、「そんなことは言っていない」と嘘をついたことなど、ありえない話を聞かされた。つまり、枝野は彼自身の過去の発言が法的犯罪を構成するという認識はかろうじてあるようだ。しかしさんざん録画された政府記者会見の記録を無視してこう言い張る勇気はどこから来るのか。それは、そうした問題をマスコミという政官報癒着の広報部が決して追及しないという確信によるのだと思う。
 いまや官僚は政府とマスコミを押さえた。そしてかろうじて残るネットとCS、BSの独立局の押さえ込みにかかっているように見える。ネットに対しては覚せい剤使用ログに対するプロバイダーの強制捜査、CS独立局に対しては系列テレビ局による買収という戦略によって(TV朝日による朝日ニュースターの買収、その後の番組改編=改悪がその典型だ。このブログで言及してきた「パックインジャーナル」の強制終了もその1つである)。
 その意味で、『日刊ゲンダイ』が正当に警告したように、昨年夏に成立したネットに対する監視法と今成立を画策している機密保護法案、そして国民背番号法案の成立は、将来の独裁と民主制を分かつ分水嶺といえるものとなる。
 民主党が官僚に取り込まれるだけならまだかわいいものだ。それはいつもあることだからである。しかし、官僚自身が自己の利益を擁護するために、より攻勢に出たものが、これらの法案といえる。
 これはかつて自民党保守本流経世会に対して、福田派が仕掛けた、経済権益から締め出されているがゆえにそこにしぼらっざるをえなかった国防戦略としての機密保護法とほぼ同じだけの危険性を持つ状況といえる。こうした動きに、当時大学生だったわれわれは危機感を持って反対したのだった。それは日本の戦後民主主義の死を意味するからだった。
 この戦いは曲がりなりにも低成長続けていた日本経済とそれを背景とした経世会の強さによって、そして学生・市民の反発によって跳ね返すことができた。しかし、今回は不況と震災後の混乱に乗じて、理念なき政権維持を最優先する仙石一派は、官僚という悪魔に魂を売るかたちで、こうした思想統制を実現しようとしている。だから、戦いはいまだ中ばであり、勝敗は未来にゆだねられているといえるだろう。
 こうした状況において唯一の希望とは、政府と官僚・マスコミの癒着に気づいた反原発派の動きである。これに対してもこの番組において興味深い話があった。政府は瓦礫処理によって反原発派の分断を狙っているという推測である。放射能の危険を知る反原発派にとって「事故によって拡散した放射性物質の狭い1地域における集中管理」は当然の理屈である。長い将来にわたる立ち入り禁止区域があるのだから、放射性物質はそこで集中管理されるべきなのだ。しかし、原発放射性物質の危険性に気づいても、まだマスコミを半分信じている人々にとって、こうした汚染瓦礫拒否の態度は、「絆」に反した「不人情」に見える。そしてそうした「感情」を利用して、官僚は反原発運動の分断を狙っているのではないかという推測である。
 もちろん官僚が瓦礫の二割を全国で処理することを画策したのは、全国の土建屋に対する利益供与に他ならない。そして、この政策はかつて「被災民救済のため」という言葉で強行採決された東電救済法と同じく、官僚が繰り出す狂気の政策にすぎない。なぜなら、かろうじて福島だけが危ないという海外の評価を、日本全体が危ないという状態に変える、きわめて将来を考えない「後は野となれ山となれ」的な政策であるからだ(事故直後に「放射能は安全」という自らの記事・報道に反して、家族をいち早く九州や国外に避難させたのは記者クラブの連中だった)。東電救済法に「原発(再稼動)推進」の言葉を滑り込ませた官僚である。瓦礫処理政策には、こうした意図が滑り込まされている。
 繰り返すが、その意味で、新潟県知事の言う「放射性物質は国が一箇所で集中管理すべきである。放射性物質を全国すべてで均等に管理せよというような国がどこにあるのか」という言葉は、正当なのである。そして、少しは若者の立場で編集されているように見えてきた集英社週刊プレイボーイ』の今週号ですら、「瓦礫処理に協力してほしい」という自民党河野太郎議員の発言を載せることによって、読者ではなく官僚の方を向いて編集していることが明らかとなったのである(政府基準値以下の瓦礫の危険性については、武田邦彦氏のホームページを参照されたい)。
 同じ『週刊プレイボーイ』には、同様に4号機の危険性を指摘する記事も載っていて、確かに危険なのだが崩壊した燃料プールの燃料棒を東電が放置するはずはないという武田邦彦氏のオームページでの指摘を無視するかたちで、現在の放射能汚染というより切実な「今ここにある危機」から目をそらそうとしているという、武田氏の指摘を裏付けているように見える。
 また、この番組は「除染は無理である」という、海外の原子力関係者のチェルノブイリ以降の共通見解を紹介した後に、それでも政府が除染しているのはゼネコンを潤わすためと結論付けている。
 今も福島には年間20ミリ前後の被爆を受ける地帯に住民が住んでいる。しかも、公式の数値を政府によって低めに情報操作されながらである。公式の数値は、徹底的に除染した後に目標である低い数値が出るまで何度でも測り直す姿が確認されている。政府はそこに多くの放射能被爆専門の医師、専門家を派遣するという。これは一言で言えば「住民をモルモットにする行為」である。人に対して絶対に行ってはいけないことだ。
 だから、住民はすぐに自分の手で放射線を測定し、年間5ミリ以上になる場所であれば即座に避難すべきである。これは、熱核戦争に備え、それゆえに迅速な対応ができた旧ソビエト連邦政府の対策を基準にしている。彼らはチェルノブイリ原発事故の後、政府がバスをチャーターし、年間5ミリシーベルト(0.23マイクロシーベルト/時)以上の土地に住む全住民を強制避難させたのである。日本政府はこうした過去の経験を、まったく無視した。
 同様に福島県がこうした避難に消極的なのは、税収が減るからだということも番組で言われた。なんと言う思考停止と腐敗だろうか。つまり、結論としては、国や自治体のいうことは信じられない、自分の身は自分で守るしかないということなのである。
エアカウンターS

エアカウンターS

 僕はエステーの簡易型放射線測定器・エアカウンターSを5千円くらいで購入した。東京板橋区にある自宅は0.05マイクロシーベルト/時だった。同じ区内にある職場はもう少し高かったが、許容範囲だった。しかし、親戚の集まりで行った北海道帯広市内のホテルやRの実家であるアパートは0.09マイクロシーベルト/時と、東京より高い数値が出た。それでもまだ許容範囲だ。換算すると年間0.8ミリシーベルト程度だったからだ。
 この測定器は、東京より低いと思っていた北海道の汚染度を試すために持っていったので、少々ショックだった。しかし、太平洋側はやはり汚染を免れていないことが示されたように思う。
 いま日本人は民族の存亡を賭けた試練に直面しているように思う。そしてその解決は、野田内閣のような官僚独裁の「官憲国家」でもなければ、橋下・石原流の「ファシズム」でもない。なぜなら、その道をとったら、日本は政治的に死んでしまい、国民の幸福には結びつかないからだ。そして、どちらも命すら脅かされるだろう。
 反原発運動の進化による、より徹底した政府情報の公開と日本に住む住民の徹底した人権保障の先にしか、われわれに望ましい未来はないものと確信する。そのためには腐った既存マスメディアを崩壊に追い込む独立系マスメディアの誕生と、ネットの徹底的な擁護が必要になる。
 そして、表題なのだが、今もここにある放射能汚染に脅かされる人々という重大な危機を報じず、感動の復興話だけを、震災がすでに終わったものとして伝えようとするテレビ・新聞には胸糞が悪くなるということを示している。こうしたマスコミの態度は限りない無責任であり、正義とはま逆の、報道と官僚との癒着を隠蔽する偽善でしかないからだ。だから「マスコミの震災追悼番組」は見ないと書いたのである。

夏目漱石「門」

福島第一原発事故関係URL
武田邦彦(中部大学)ホームページ
http://takedanet.com/
実現させよう原発国民投票
http://kokumintohyo.com/
板橋区子どもを被曝から守る会
http://itabashi-kodomo.jimdo.com/
グリンピース
http://www.greenpeace.org/japan/ja/
都健康安全研究センター
都内の環境放射線測定結果 測定場所:東京都新宿区百人町
http://ftp.jaist.ac.jp/pub/emergency/monitoring.tokyo-eiken.go.jp/monitoring/
東京都ホームページ
http://www.metro.tokyo.jp/

夏目漱石全集〈6〉 (ちくま文庫)

夏目漱石全集〈6〉 (ちくま文庫)

 夏目漱石『門』を読みました。これは以前読んでこのブログにも感想を書いた『三四郎』『それから』に続く初期三部作の最後の作品と呼ばれるもので、以前から読みたかったのですが、青空文庫のビュワーを入手したので読むことができたものです。青空文庫の底本は「夏目漱石全集6」ちくま文庫筑摩書房・1988)です。
 つい先日、アンドロイドスマホに携帯から乗り換えて、それ以降ネットストリーミングでロンドンのクラシックFM番組ばかり聴いていたのですが、『青空読手』というアンドロイドアプリ(無料)を手に入れてから、文庫本代わりに使うという新しい使い方に目覚めました。もちろんPCでも読めるのですが、開けばすぐ読めるスマホ(シャープの二つ折りスマホ、007SH)の便利さは比較になりません。
 ソフトバンクのウルトラワイファイも契約しているので、現在のモバイル環境はこのスマホとポケットワイファイ、そして入力用のバイオP(VGN-70H)の3台持ちです。それと電源ケーブルですね。
 ともかく、「青空読手」で読む『門』は5,6箇所、表示できない漢字があった(それでも振り仮名は振ってあった)ほかは、ほぼ問題なく読むことができました。アプリ製作者、『門』の入力・校正者に感謝です。
 さて、作品の感想を書きます。『三四郎』が都会に出たばかりの大学生の開け行く未来と、未来がいまだ定まらぬがゆえの漂泊感を特徴とするのなら、『それから』は「高等遊民」を気取る大学を出て数年たった若者の、意外と脆弱な自我を描いた作品でした。そしてこの『門』とは、大学を中退して結婚した主人公とその妻の5,6年後の話です。
 一番最初に目に付いたのは、この夫婦の世間を避けるように暮らす暮らしぶりの静謐さと美しさでした。漱石の文書は気取ったところがなくて、読んでいくうちにその雰囲気が伝わるという美しいものです。宗教や哲学といったものを持たず、世間からもできる限り身を引いて生きる夫婦は、必然的にお互いを楕円における二つの焦点とするような閉ざされた世界に生きることになります。それは互いにとってお互いに生きるうえで不可欠な存在であるような閉ざされてはいても、美しく幸福な世界です。東洋的な中庸の哲学すら感じる世界でした。
 後半における主人公の苦悩とは、そうしたお互いを欠くべからざる存在として考えるがゆえに、その生活を崩壊させるべく外部から来る危機に対する「予期不安」です。神経症的なものであると同時に実存的な悩みでもあります。実際主人公は神経衰弱を持病としています。それゆえ主人公は問題の解決を目指して禅宗の寺に入ってもみるのですが、解決策を得ることはできません。しかし家に戻った後、裏に住む大家でもある坂井の言葉を聞きます。「近くの川では春になるとたくさんのかえるが生まれる。それを通りかかりの小僧とか暇人が殺して歩くので、殺された夫婦は無数になる。だから自分の友人のように銀婚式を祝えることはめでたいことである」彼はこう言って、引き出物の菓子を主人公に差し出します。「君もあやかりたまえ」
 この感想を書くためにWikiの作品案内(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%8F%E7%9B%AE%E6%BC%B1%E7%9F%B3、こちらから作品リンクに飛んでください)も参照しました。漱石が体調を崩し、そのため作品が中途半端になっているとの評価が書かれていました。確かに、友人から略奪した妻との生活がそうした情熱にあわず静かで穏やかな点、略奪の経緯が省略されている点など、いろいろ考えさせられる点はありましたが、略奪したからその後の生活も情熱的になるかと言うとそうでもない気もします。 
 今僕はアリストテレス『二コマコス倫理学岩波文庫岩波書店・1971、1973)を読んでいるのですが、これはサンデルの講義『これから正義の話をしよう』をTVで見たせいです。何が正しいのかを知りたいと思って読んでいるのですが、アリストテレスもこの本の中で言うように、幸福とは正しさや正義を考える上で重要なモチベーションとなるものです。文学と哲学の違いはありますが、この本も読みながら、幸せとは何かを考えていきたいと思っています。

福島、消費税、政治力学のマクロ分析

福島第一原発事故関係URL
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実現させよう原発国民投票
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板橋区子どもを被曝から守る会
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グリンピース
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都健康安全研究センター
都内の環境放射線測定結果 測定場所:東京都新宿区百人町
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東京都ホームページ
http://www.metro.tokyo.jp/

 しばらくブログを書いていないうちに、国内情勢はますます混沌としてきたようです。ここでは緊急に提起しなければならない問題2点と、最近思うマクロな国際・国内情勢分析を書きたいと思います。

福島市から避難を始めるべきである
 福島県ホームページ(http://wwwcms.pref.fukushima.jp/)内にある「福島県放射能測定マップ」によると、2012年2月5日現在の福島市役所の放射線濃度は1.04マイクロシーベルト/時だそうです。これにもとづく年間被ばく量は24と365を乗ずれば得られます。
 つまり、1.04×24×365=9110.4となりますから、1ミリシーベルト=1000マイクロシーベルトで換算して、9ミリシーベルト強の数値となります。実際にはまだ一年たっていないから低く見るとこもできるけれど、これは昨日の数値なので、3.11直後の数値を入れれば既にもっと高くなっているとも言えます。非常に大雑把ですが、目安になる数字です。 友人の住むいわき市役所の数値は0.18マイクロシーベルト/時なので1.5ミリシーベルト/年、板橋区役所は0.10マイクロシーベルト/時だから、0.87ミリシーベルト/年となります。
 ここで確認しなければならないのは、チェルノブイリにおける強制避難地域は5ミリシーベルト/年以上であること、業務において被曝し白血病になって死亡した場合の限界線量も同様に5ミリシーベルト/年であることです。つまり、日本の放射線防御対策はロシア以下であり、福島市の市民はより細かくエリア分けしなければならないとしても、即時避難する必要があるという点です。ここで計算したのは(大雑把な)空間線量なので、実際には飲み水と食料品による内部被曝も計算する必要があります(大気中の放射性物質は空気として取り込まれるから、これ自体も内部被曝に区分することも可能だと思います)。 まず政府が避難を勧告し、そののちそこに残るか否かは本人が決めるべき筋の問題です。それゆえ、政府が危険性をあいまいにすることは、まさに犯罪に他なりません。そして、日本には放射性物質管理の法律があり、その基準は年間1ミリシーベルトなのだから、まずその法に照らした対応も求められるべきです。
 こうしたことは、上に掲げた武田邦彦さんのホームページを読んでいる人なら常識に類することなのですが、政府も大手新聞もTVラジオなどのマスコミも決して報道しないため、あえてここで警告したいと思います。
 もうひとつ、こうした汚染地域、東京とて決して低くないがゆえに、大気がより汚染されている地域の住民は、汚染度ゼロの食料を優先して手に入れる権利があるということです。汚染度ゼロの食品・水を入手できないのなら他に道はありませんが、現在の日本なら入手可能です。政府がこれに手を貸さないとしたら、これも同様に犯罪と呼ぶべきです。
 大学時代に公害問題をゼミで研究した立場から言えば、あの水俣病は数百万円の設備をそななえておけば未然に防げました。原発も作らなければ未然に防げました。しかし作ってしまったし、事故も起きてしまった。今我々にできるのは停止中の原発の再稼働阻止と、徹底的な除染と避難、安全な汚染ゼロの食料品確保しかないと思います。
 今日のブログの3点目の政治力学のマクロ分析にも関わりますが、野田内閣は福島市の人口の多さゆえに、避難にかかる経費を出し惜しんでいる。そして、マスコミも問題が大きすぎて思考停止に陥り、政府やメディアが最優先すべき国民の生命を無視していると考えられます。放射線障害は今年3月くらいから顕在化すると言われています。そして、政府は放射線障害を他の理由による疾患と区別しにくいという1点にかけて、切り捨てようとしているように思えます。これは4大公害病の時にも起きたことで、非常にありうるし、そう考えないと現在の政府の無策ぶりは説明がつきません。
 結論としては、政府が我々を守らない以上、自分たちで自分の身を守るしかないということにつきます。これは戦後日本最大の危機というべきなのだと思います。4大公害病の時代にも同じ問題はありました。しかし、この規模から見て、最大の危機と言うべきだと思います。
 また石油依存に対する反対から原子力発電やむなしという立場を取る一部論者(パックインジャーナルの田岡氏等)がいますが、それではこの原子力発電事故で失われた国土をこうした防衛論者はどう考えるのか聞きたいと思います。平和憲法下で守られてきた日本の国土は今、ほかならぬこうした原子力発電政策によって、大きく国土を失った。つまり立ち入ることすらできなくなっている点をどう考えるのかということです。
 現状で原発を再開したら、必ず同じ事故は起きます。何故なら安全基準が見直されていないからです。
 多分政府は、首都さえ守れればいいと思っているのでしょう。北海道も青森も東北も、九州や四国、関西も壊滅して人が住めなくなっても、東京さえ守れればいいと踏んでいるように思えます。大阪で国民投票を求める条例請求署名が早々と成立したのは、こうした事を大阪市民が気づいているからに他ならないと思います。

消費税問題を議論する前に

 日本の国会議員の報酬は、給料だけでも年収2000万円を越えている。アメリカ1300万円、イギリス700万円、ドイツ900万円、フランス800万円と比べても断トツである。
 役人の平均給料は806万円と、一般国民の平均給与412万円の2倍だ。定年後には天下りで優雅な老後も保障されている。
−『日刊ゲンダイ』2012年2月1日2面

 野田首相が力めば力むほど滑稽に見えてくる消費税アップの議論なのですが、彼やその閣僚がいくら財政危機を力説しても、まったく真剣に見えないのがその理由の一つだと思えます。それが上に引用した『日刊ゲンダイ』の記事です。つまり、財政危機がギリシャ並みの逼迫した国難だとしたら、まず国会議員と国家公務員の給与を半減することによってその逼迫度を示す必要があるということです。天下り年金一元化も同様です。
 国難なら、すべての国民・企業が等しくその義務を果たすべきでしょう。また、消費税の前に、所得税最高税率を現在の40パーセントから戦後の所得税における最大値1984年の70パーセントまで上げる必要があります。つまり、みんながその負担を負うのなら、誰もが納得するです。それをせずになんか消費税をあげればすべてうまくいくみたいなことを言っているから、だれも納得しない。マスコミ毒された低能能連中しか納得しないということになるのだと思います。
 野田首相は慶応大学で学生を前に演説して悦に入っていたようですが、むしろ、こうしたまともな議論すら質問できない学生の低能さに悦に入っていたのではないかと思います。だって、納税者より公務員の方が給料がいいとしたら、どうなってるの?って感じじゃないですか。官僚独裁、マックスウエーバー的に言えば「官憲国家」と呼ぶべき腐敗した状況だし、そうした政治が生み出すのは「無責任な政治指導と国民への圧政」(『ウエーバー支配の社会学』(有斐閣新書・1979)214頁)に他なりません。2009年の総選挙ではこうした状況に対する憤りが民主党政権を生み出したことを、たった2年で野田をいただく民主党議員は忘れ去ったというべきなのだと思います。
 マニュフェストの精神に戻れと主張する小沢グループを私が支持する理由はここにあります。

国内外のマクロな政治力学について 以上緊急の2点を踏まえて、国内外の情勢分析に戻りたいと思います。
 ブログを書いていなかったここ数カ月の間にもいろいろな事件がありました。
 証拠に基づかない裁判で小沢氏秘書の3人が断罪されたり、マニュフェストを裏切り、なおかつ国民よりアメリカ政府への政策表明を優先する野田内閣といい、自分自身民主党マニュフェストに反対で、なおかつそれをつぶすために躍起になっている野党第一党自由民主党が、その敵対する民主党の「マニュフェスト違反」を政権攻撃の唯一の追求手段とする奇怪さなど、ますます世紀末の様相を呈したこの半年でした。
 こうしたマクロな国際国内情勢を見る上で、週刊朝日緊急別冊『朝日ジャーナル 政治の未来図』(http://publications.asahi.com/ecs/detail/?item_id=13127)と雑誌『世界』2011年11月号(http://www.iwanami.co.jp/sekai/)特集「世界恐慌は回避できるか?」は非常に参考になりました。
 一言で言えば、国際通貨としてのドル機軸体制が揺らいでいるが、かといってそれに代わる強力な通貨や国家が現れていないという現実がある。基軸通貨に関してはドル6割、残り4割を円やユーロなどで占めるといた状況が、今後10年は続くだろうという予測が『世界』に記されていたことでした。特に特集内の、相沢幸悦、倉都康行、山口義行の3人による座談会「ほんとうの危機はどこにあるか?」では、「ギリシャの次はイタリア」とか言われているが、本当に経済実態について一番ギリシャに近いのはアメリカである点が指摘され、その意味で、今回のユーロ危機がアメリカの投機筋による利ざや稼ぎに過ぎないことが暗示される点が興味深く感じられました。ユーロは暴落しても、それよって大もうけしているドイツのような国もある。そんなわけで、ギリシャ財政破綻だけを見て大騒ぎするのは、こうした金融筋の筋書きで踊らされるに過ぎないように僕には思われました。
 かといって、では、ユーロやEUが磐石かといえばそうでもなくて、アメリカの金融によって攻撃にさらされるのはこれからも続くし、EUの銀行の経営が苦しくなれば、資金提供先の中国の経済成長にマイナス要因になるわけで、中国は内需があるから崩壊の決定打にはならないとしても、ある程度のマイナス影響は覚悟する必要がある。それが故に今後10年という停滞局面が予測されていました。
 結局、これを打ち破るのは中国を中心とするアジア経済圏次第となるのですが、そのとき中国の統治機構は、より西欧型にならざるをえないように思います。それは軍事独裁政権から民主化を成し遂げた韓国を思い浮かべればイメージしやすいように思います。
 ユーロ危機というトピックへの心配はこのように除外視できます。
 そうするとだいぶマクロトレンドが見やすくなります。
 この段階で週刊朝日緊急別冊『朝日ジャーナル』の進藤榮一論文「グローバル化地方自治−21世紀型地域主権への道」は非常に参考になりました。要は1991年の冷戦終了後一人勝ちのように見えたアメリカがバブルの継続による景気誘導に失敗し、ついにリーマンショックでにっちもさっちも行かなくなった状況を、現在の混迷は示しているということです。そして、そのような状況においても、たやすく主導権を渡さないのがパクス・アメリカーナアメリカを中心とした平和)の米国なわけで、戦争を含むあらゆる謀略手段を用いて主導権を維持しようとする。日本の国内での政治も、そうしたアメリカの道具となっているという現実が示されます。進藤氏は、思いやり予算大店法原子力政策をめぐる佐藤栄佐久福島県知事の失脚、小沢一郎民主党幹事長の失脚、TPPへの強引な引き込みなどを「アメリカ帝国の影」として、この論文で活写しています(同雑誌107頁)。
 こうした状況を受けて、本来より理性的に未来を読んだ行動が、国民に対して責任を有する政治家に要請されるのですが、GHQによる占領から冷戦時代を経た過去しか見えなくなった、そしてその利権構造にがんじがらめとなった現代日本の政治家は、旧態依然のごとくアメリカ全面追従しかなしえていません。
 ブレジンスキー米大統領補佐官の言う「進貢国」としての日本を抜け出すことによってしか、こうした危機を打開する方法はないように思えます。アメリカが1パーセントのために99パーセントが犠牲になる国を目指す以上、そしてそうした体制を世界に広げることによってパクス・アメリカーナにこだわる以上、日本の民衆の利益のために別の道を探るしかないように思えます。
 その具体的な手段とは、原発の即時停止による新エネルギー技術の開発と廃炉技術の確立、中国の民主化へ向けた関与しながらの外交という「東方政策」(これは旧西ドイツの対ロ外交の言葉です。本当は日本から見たら西だから西方政策?というか、独立した対中外交の意です)、TPPではなく東アジア経済圏へのシフト、新しい国内産業の育成等が要請されます。藻谷浩介が『デフレの正体』で主張した福祉社会への移行も決定打となります。
 このように現在の闇は、アメリカの没落に起因しているのだから、日本は取るべき手段がある。そしてそれさえ誤らなければ、より明るい未来をつかむことができるものと信じます。

ルンペン・プロレタリアート放浪記

福島第一原発事故関係URL
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都健康安全研究センター
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怒りを歌え、
女神よ、
ペレウスの子アキレウスの−−アカイア勢(ギリシア勢)に数知れぬ苦難をもたらし、あまた勇士らの猛き魂を冥府の王(アイデス)に投げ与え、その亡骸(なきがら)は群がる野犬野鳥の食らうにまかせたかの呪うべき怒りを。
岩波文庫、松平千秋訳

とりあえず就職が決まった顛末
 やっと仕事を見つけました。警備会社による防犯パトロールです。これは警視庁がクライアントである緊急雇用対策事業で失業者が対象となるものです。
 本当は業績を上げてる会社に雇われて仕事したかったのですが、最初に決まったのがこれで、生活費を稼ぐという条件にかろうじて合っていたので、決めました。
 出版社と比べて、文字通り、地を這うような仕事なのですが、そのぶん視野が広がった気がします。来年3月末までの期間限定なので、それまでにその次の仕事を考えなければなりません。その意味でも、僕にはちょうどいいのかなと思います。
 失業期間とこの仕事で2つのことがわかりました。
 僕の場合、若年の失業に比べより悲惨と言われる中高年の失業なので、その実感がわかりました。中高年というのは、一般的に社会経験があってその積み重ねの中で仕事をしていくものですが、何らかの理由でその経験を生かせないとしたら、若くて将来性のある若者と同じ土俵で競争しなければならない(この「競争」とは労働市場といったマーケットメカニズムにおける無政府状態の意味です)。そのため不利を強いられる。
 かといって年齢差別に関して、欧州と比べ日本の法律は立ち遅れているため、法的にも無政府状態という感じです。もっと突き詰めれば、この差別は資本主義が常に失業者を一定のレベルで必要とするという構造に起因するのですが、それを補うために修正資本主義と呼ばれる現代に社会保障制度が必要とされる所為でもあります。
 もう1つは、他の産業と比べ比較的雇用需要があるといわれる警備産業の実情に関してです。じつはこの産業も、基幹となる発注側の会社の景気状況に左右されるサービス業なので、そんなに産業として安定してはいないという状況に気づきました。
 僕が雇用対策事業として日本語講師養成講座を受講していた時期に、ハローワークの職員が、求人があるのは警備分野と紹介してくれたのがこの仕事なのですが、本格的に自分の仕事とするには資格の階層を登る必要があって、本格的に自分の仕事とするにはそれなりの覚悟が必要なこともわかりました。これはどの仕事でも一緒ですが。
 この話とは別に、防犯パトロール自体から学ぶことも、まだ始めたばかりですが、いろいろありました。
 前職の法律書編集では、法科大学院刑事訴訟法関連テキストとして裁判員制度を反映した刑事訴訟実務の実例集を作ったのですが、この本には犯罪に至るリアルな経過(本の主題は刑事訴訟実務です)が含まれていました。精神医学の事例も、ある意味社会の吹き溜まり的悲劇があるのですが、犯罪も同様です。
 制服向上委員会の歌「Stop!Stop!Stop!」(http://www.youtube.com/watch?v=wI-rT95y2Ms)は、自殺や、秋葉原無差別大量殺人のような自殺する勇気が無いために自分を死刑に追い込むためにする犯罪を行おうとする人々に対する訴えとして秀逸な曲なのですが、それが今の仕事も防犯という性格上、日々の事件として伝わってくる。ここには、やはり行き場を失ったディスパレートな心情があるように思えます。でも、本当は行き場や逃げ道はたくさんある。
 もちろんこうしたものは、犯罪の世界に染まって抜け出せなくなった人々は対象にならないようにも聞こえますが、やはり彼らにも心情的に共通する部分があるし、それゆえ、この制服向上委員会の歌も訴える部分があるような気がします。
 失業者も警備職員も、そんな不況の中で、若者も中高年もそろって、知恵を絞って未来の自分たちの生活を確保すべく考え働いているということが、僕の得た実感でした。これこそ資本主義における労働市場のメカニズムだろうし、逆に、そうした努力が身体的・精神的に不可能な人々に対しては十分な補償をすべきなのは言うまでもありません。
 また、新しい職場で様々な年齢層の人と話をする機会ができたことは収穫でした。それは失業期間中の職業訓練校でも一緒です。

電気料金をボイコットする方法
 こうしたなか一番腹を立てた新聞記事が、サラリーマンの平均年収の中で、ガス・電気といった独占企業体分野の平均年収が一番高かったことです。700万円台の平均年収を得ている。彼らの給与は競争が無いのだから、サラリーマン全体の平均年収、いや個人経営者も含めたすべての勤労者の年収平均にすべきですね。公務員が税金を納めている人より高給だったら、それこそお話にならないわけです。同じことがこれら独占企業体の職員にも言えます。
 工夫して安くて良い商品を作り、それによって業績が上がった企業職員が高給を取るのなら、誰も文句を言わない。でも、そうでないとしたらそうした独占企業、公務員は、やくざと同類です。
 余談ですが、東京に住む自分はどうしたら東電の商品たる電気料金をボイコットできるか考えました。というのは、ここ30年くらいの反原発運動の中で、原発に相当する30%の電気料金を支払わず、電気を止められ悲惨な生活を強いられる活動家の話を聞いているからです。これこそ独占の不法な権力乱用に他なりません。ほかに電力の供給が可能なら、だれも不払い運動などしないからです。
 1戸建の場合一番現実的なのは、太陽光パネル+蓄電システムや東京ガスエネファームを導入してローンを組んで払う方法かなと思います。エネファームhttp://www.tg-lease.co.jp/info_110401.html)はモデルケースで月々1万4千円の120カ月ローン(実質年利1.9%)で導入できるそうです。光熱費節約効果は年5、6万円というから、10年じゃ足がでます。というか20年でも足がでるのか。元を取るのに40年かかるのですか。40年たったらぶっ壊れそうですね。でも、少なくとも東電のインチキ商売に加担する罪悪感から逃れることができます。
 すべての世帯の合計で500A以上を使う集合住宅の場合は管理組合に圧力をかけて東電以外の電気事業者と、より安い電気料金契約を結ばせればいいし、アパートの場合は借り手全員の合意を得て大家に圧力をかければいいと思います。
 このあたりは詳しい人に知恵を借りたいところです。
 ともかく、東電は会社を清算して原発事故の賠償金を必要なもの全て支払うべきです。国民は「安全」という言葉にだまされて、しかも割高の電気料金を支払わされ続けてきたのだから、全く責任はありません。
 在日米軍基地問題にしても原発事故処理問題にしても、野田首相はとんだ低能と言うほかありません。百害あって一利なしと言うべきです。自民党も一緒ですけどね。民主党にはしかるべきリーダーを選び直してほしいと思います。でも、それも時間の問題ですね。

原子力マフィアを根絶するには何が必要か

福島第一原発事故関係URL
武田邦彦(中部大学)ホームページ
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 8月19日金曜日、夜9:00〜9:55に見たCSアサヒニュースター局の「宮崎哲弥のトーキング・ヘッズ」、「国家と情報Part2」ゲスト:上杉隆(ジャーナリスト)、司会:宮崎哲弥(評論家)、「原発報道は正しく伝えられているのか。記者クラブ制度を批判し、メディアの姿勢を問い続ける上杉隆氏に聞く!」は、非常に衝撃的な内容でした(http://asahi-newstar.com/web/38_talking/?cat=18)。
 このブログでは、これまで政官財学報の鉄のペンタゴンと称して、原子力村(原子力発電という仕組みによって不当な利益を得ている集団)を批判してきました。上杉氏はこの「トーキング・ヘッズ」の番組において、この原子力村を一歩進めて、「原子力マフィア」と呼びました。
 日本経済を「ヤクザ資本主義」と批判した外国人の記事を以前読んだことがあります。論者は様々な非公式のルールや参入障壁を指して、こう読んでいるのかと推測し、そのときはそこまでひどくはないのではと思っていました。しかし、後に、フィクションではありますが黒澤明監督の映画『悪い奴ほどよく眠る』を見て、いわゆるヤクザ資本主義とは意外と根が深いものなのではないかと思った記憶があります。
 こうした本来あってはならない政治経済の表の分野における「ヤクザ=マフィア」状態を如実に示すのが、今年3月11日の福島第一原発事故以降のマスコミ、特に記者クラブ所属記者の信じられない実態でした。上杉氏は同番組の中で、原発事故関連の記者会見において、まともな質問をするフリージャーナリストに対して、あろうことか、聴くに堪えない罵詈雑言のヤジを飛ばす記者クラブ所属記者のことを報告しています。そのうえ、事故の深刻さを隠蔽しようとする政府の情報不開示に対して、他国の報道機関は日本人のフリージャーナリストと共同して情報の開示を求めたのに対し、記者クラブ記者は、まったくそれを求めず、ただただ政府や東電の広報部として公式発表を論評抜きで流すことしかしなかったことを報告しています。これは文字どおり組織的犯罪行為です。
 上杉氏は自身のホームページで、このような状況で自分が報道を続けることは、こうしたとても先進国とは呼べない報道体制に、消極的にであれ加担することになるため、ジャーナリストを廃業すると宣言しています(http://uesugitakashi.com/)。そうした宣言があるだため、上杉氏の今回の発言は、われわれにとってより悲劇的に響きます。
 5ミリシーベルト以上の汚染地域から住民を強制的に避難させたロシア政府に対して、日本政府は、その避難費用を心配するあまり、住民を危険な地域に放置している。人の命より財政規律が大切という、戦時中の玉砕思想と何も変わらない政策を取っています。しかし、それ以上に、そうした政府の姿勢を批判しないマスコミ=記者クラブの姿勢を見ると、これこそ文字通り「ヤクザ=原子力マフィア」という名称にふさわしい所業だということがわかります。
 では、日本のネットには、そうした原子力マフィアを破るだけの力があるか、と上杉氏は問います。それに対する上杉氏の答えは「No」でした。
 日本のネットは中国よりも遅れている。なぜなら、中国のネットは、少なくとも、土に埋められた事故車両を翌日、掘り起こさせるだけの力をもっていた。しかし、日本政府は、ネットがこれだけ批判しているにもかかわらず、事故当時の放射線汚染濃度といった基礎的情報すら、いまだ完全には開示していない。つまり、日本のネットの力は中国にすら劣るという見解を上杉氏は述べていました。
 政府の避難政策などはロシアより遅れ、ネットの政府批判力は中国より遅れている。そんな日本が先進国並みの他国に対する責任ある外交姿勢を取れないのは、ある意味当然と言えます。先進国並みの報道、つまり政府に情報の開示を求めるという当たり前の行動が取れないのだから、そんな自浄能力のない国の政府を信頼する先進国はありません。
 上杉氏はこのことを指摘したうえで、今後予想されるのは、日本政府の他国政府に対する信頼の失墜であり、海洋汚染に対して、第一次世界大戦後のドイツが科されたのと同じくらいの天文学的賠償金が請求される事態であり、その支払い負担を強いられるがための日本の将来の三流国への転落であると語ります。これは至極、論理的な予測と結末です。
 こうした状況を第三者的に見れば、原子力マフィアという利益共同体は、国内における少数者である自己の利益を守るために不条理なことを行い、日本国民はかろうじてだませるが、他国政府をだますことはできない、という事実がわかります。つまり、こんな子供だましことが続くはずはないのです。しかし、当事者はそれを自覚していない。自覚しても止められないというというべきか、欲に曇った目には、同じ事実でも、都合のよい側面しか見えないのかもしれません。
 そして、これは、日中戦争・太平洋戦争を始めたときの軍部と政府の姿勢をデジャブさせるものです。こうした行為は出発点においてすら不合理なのですから、それが継続される過程においてその不合理さが目立ったとしても、途中でやめることはできない。むしろ当事者は一日でも崩壊を先延ばししようと自己の利益を守ることに汲々とするものです。そしてそののちに来るのは、第二次世界大戦における日本敗戦といったような決定的な崩壊です。そこまで誰も止めることはできなかったし、同じことが将来も繰り返されるというわけです。
 日本人は変わらないといえば、そのとおりなのですが、それではあまりに国民の受ける被害が多すぎるので、こうした「原子力マフィア」を根絶するために何が必要かを考えてみました。
 その答えは、真実の提示に尽きるように思えます。
 放射能は目に見えない。そして低レベルであれば急性症状は出ないため、その危険性を隠蔽しやすい。だとしたら、白血病の労災認定に必要な放射線被曝が5ミリシーベルト/年であること、現在の政府の食品に関する暫定規制値の上限の食品を摂取したら、それだけで年間被曝は17-22ミリシーベルトになることを明確に伝えること。そして、そのうえで、必要な暫定規制値の切り下げ、環境規制値の切り下げを政府に求めることが何より大切であることを報道することが大切なのだと思います。
 年間被曝量を、安全とされる1ミリシーべルトにするためには、子供の触れる土・砂場の放射線濃度を0.15マイクロシーベルト/時以下にする必要があります。食品の暫定規制値は現在の10分の1以下にすべきだし、放射性物質に汚染されていない食品を食べる権利を確保する為に全食品の放射線濃度の提示が必要となります。
 これをしないでただ「政府の基準値以下だから安全です」と言っても、それは何も言っていないに等しい。むしろウソをついてだましているに等しいわけです。そして、それよりもっと悲惨なのは、こうしたおためごかしがもたらすのは、実際の危険があるのだから風評被害とは呼べず、むしろ怪しい地域の食品を食べないという消費者の当然の行動です。
 TVの報道番組のインタビューで厚生労働省の職員は、食品を全品検査するだけの体制も機材も無いため、放射能汚染食品、特に政府の暫定基準値以上の汚染食品が流通している可能性があると答えていました。安全を求める消費者の行動は、汚染されていない地域の食品を求めるものとなるのは当然です。
 あれだけの事故を起こしたし、賠償金額が天文学的なものになるのだから当然東電は倒産だと誰もが思っていました。しかし、8月3日、政府の東電救済法案が通って、何と国民負担で東電の事故を補うことになった(http://getnews.jp/archives/133359)。そのため、従来の広告・宣伝・研究費の利益に関わらない電気料金上乗せがそのままこれからも東電に認められ、原子力マフィアの5角形のうちの2つ、学会と報道を東電が従来通り支配することが可能となった。
 記者クラブ記者の動きとは、こうしたものを背景にした非常にわかりやすいものでした。人としての良心の咎めに耐えられるか否かは別としてですが。すでに、記者クラブ所属記者のみならず、大手新聞社記者は自分たちを報道とは呼ばないと言います。何と呼ぶかといえば、会社員と呼ぶんだそうです。そう、報道といえば不可能な行動も、社員=社畜(これは家畜のような社員という意味で、人間じゃないから何でもできるんですよね)なら可能になるというべきなのかもしれません。
 単に品性が下劣であれば、それを非難するだけでいいのですが、それによって金が動く、しかも、ほぼ詐欺的な仕組みによって、真実を知らない人々がその金を支払わされるとしたら、それはまさしく犯罪です。
 そこで、こうした原子力マフィアを根絶する為の唯一の手段は、事実をもって語らしめるということになるのだと思います。
 福島第一原発事故を「第二の敗戦」と呼んだ人がいます。でも、本当の敗戦はまだ来ていないのではと思います。なぜなら、戦争を担った人々はまだ負けたと思っていないからです。そして、彼らを解体するGHQは、まだ日本に上陸していない。
 現在の反原発派と原発推進派の戦いを内戦状態と言った人もいます。しかし、反原発派の国民も、まだ内戦に勝利していない。
 ですから、本当の敗戦は、これから来ると考えるべきなのだと思います。それがGHQの上陸であれば、日本に住む人々は多大な犠牲を払ったうえで、またゼロから始めなければならない。そして、腐ったマスコミが生き返る可能性も残るのだと思います。もしそれが内戦の勝利なら、日本に住む人々は、まだ将来への希望を保ったまま、むしろ、新たな自信を持って将来に挑むことができるのだと思います。
 蛇足ですが、報道をめぐるこのようなファシズム状態は、福島第一原発事故関連以外にも、もう一つあります。それは、自公政権末期から現在まで続く小沢派排除のマスコミ姿勢です。
 検察批判はしても、小沢やその秘書を取り調べた検察は全く批判しない。国会の原則が多数決なのは明白なのに、小沢派流の数の理論はけしからんと言い、菅が選挙で負けて参院での過半数を失えば指導力の低下と批判する。こうした、支離滅裂な報道を繰り返したのがマスコミでした。だから、前原といった最低の政治センスしかない人を最有力候補と言ってもてはやしたり、立候補者の小沢詣批判をしたりといった迷走報道が続くのだと思います。
 ま、マスコミのめざすものは読者に利益をもたらす真実の提供ではなく、自公時代の総務省とベッタリ癒着した既得権益保護なのですから、これは当然の姿勢と言えます。
 それを突き崩すネットの力は、TV新聞社によってリリースされるヘッド・ラインではなく、独立系の動画・ニュース配信サイトの報道しかない。まだ量的に力は弱いけど、質的に凌駕することで事態を変えることが可能だと思います。TVや新聞の視聴者・読者も変わりつつある点に、これからの日本の希望があるように思います。